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第50話

  神奈川県立塗李高等学校三年 野球部主将 桜田翔平


  「俺はみんなと一緒に、甲子園で優勝したいと思っている」

 八回の裏も三者凡退に終わり、試合はいよいよ最終回へと突入していた。スコアは五対四で塗李高校の一点のリード。できればこの回で追加点を一つ、いや一つと言わず二つでも三つでも、塗李高校としては確保しておきたかった。何しろ裏になれば、四番の兵頭に必ず打順がまわる。それは避けられない運命として、待ち構えている事実なのだ。

 しかし彼らに立ちはだかるのは、正体不明としかいいようのない、『穴』だった。その黒い穴はボールを吸い込み、そして吐き出す。その原理がどうなっていようと、この際、関係がない。とにかくその二点間移動到達時間は光速を越えるもので、彼らのスイングにいくら魂が込められていようと、それは空を切るしか許されていなかった。

「あれ? 宇賀神は?」

 それだけ彼らが試合に困惑していたからかもしれないが、それはさすがに気づくのが遅過ぎた。その頃、宇賀神は、甲子園の地下六階の例の部屋で、依然として床にへばりついたまま踏ん張っていた。

「合田はん……」

 宇賀神のあばた面を、滝のような涙がぐしゃぐしゃにしていた。合田は男に顔を蹴られ、亜空間へと消えた。男は続いて宇賀神をも放り込もうと考えたようであったが、彼がその巨大な闇にあまりにも近かったことで、巻き込まれることを恐れたか、そのままに扉を閉めて放置を決め込んだ。そして再び扉が開けられた時、男は女を引き摺っていた。宇賀神は目を疑った。それは彼の愛しのステディー、太田花恵だった。

 彼女はそのかわいらしい口元を、赤黒い血で汚していた。そして彼女も合田同様、乱暴に亜空間へと放り込まれた。宇賀神はその時も床にへばりついていて、どうすることもできなかった。花恵と、目が合った。宇賀神には花恵が、笑っているようにも見えた。「栄太郎さん……」と囁くように言いながら、暗黒へと消えていく太田花恵。宇賀神はその瞬間を思いだす度、吐き気にも似た憎悪に襲われるのだ。

「許さんズラ、許さんズラ……あの男、絶対に許さんズラァーッ!」

 しかし宇賀神、一ミリとて前に進むことができない。疎か、彼の身体は少しずつ、その暗黒へと近づいているのかもしれなかった。


「宇賀神は試合を中途で投げ出すような男じゃない。だよな?」

 喜与川が、宇賀神の教育を担当した三人の二年生に向かって、言った。すると三人は、考えることなく頷いた。「あたりまえじゃないですか。あいつは塗李高校野球部、最強の補欠なんですから」猿渡が自信をもって言う。しかし彼にも、宇賀神の居場所は見当もつかなかった。

 すると部長の沢井が、あっけらかんとした様子で、言った。

「あら、宇賀神君ならだいぶ前に、風を止めてきますって言って、どっかにいったわよ」

「風?」

「ええ。なんかさっき、風が強くなって砂埃がひどかった時があったじゃない。みんなのユニフォームが汚れちゃうのを気にしてたんじゃないかな。あの子、やさしい子だから」

 ナインはそこで初めて、例の気流が収まった理由を知った。堀が言った。

「まさかあいつ、あの穴を消すために、どっかでまだ頑張っているのかも……」

 それは恐ろしい想像だった。あの穴を消すだって? いくら宇賀神が怪力と言えど、あの穴の前では無力なのではないか……。するとその沈黙を、翔平が破った。

「俺はみんなと一緒に、甲子園で優勝したいと思っている」

 こんな時に何を言うんだ、という目でナインが彼を見る。それを受け止めてから、翔平は続けた。

「最初に言ったはずだよな? 俺は『みんなと一緒に』、この大会で優勝したいんだって。今、そこから宇賀神というピースが欠けている。奴のいないまま手にした優勝旗に、なんの価値もないと俺はここに断言する。異論のある者はいるか?」

 誰もが真剣な眼差しで、翔平を見つめている。それは同意を意味する、暗黙のうちの了解だった。翔平は頷いて続ける。

「これは考え過ぎかもしれないが、俺には、奴が今、危険に曝されているような気がしてならない。もし今、あの黒い穴をつくっている所にあいつが辿り着いているのなら、それは尚更だ。こいつはほっとけない」

 するとこの回の先頭打者、北田が言った。

「どうすればいい、言え」

 それはいつもの彼らしい、率直な物言いだった。翔平は北田を見た。

「もちろん、試合を放棄するつもりはない。しかしあいつを探すには人数が必要だ。ということは、攻撃回の今、この九回の表のうちに探すしかない。北田、カットするんだ」

「カットだと? あの手前の黒い穴から突然出てくるボールを、カットするだと?」

「やれるよ、な?」

 北田は黙った。さすがにそれは、自信がなかった。何しろ先の打席では、腰が引けてバッティングどころではなかったのだ。それをあの穴により近づいて、更にはあの突然出てくるボールを見極めて、更に更にはそのボールをカットしてファウルにし、時間稼ぎをしろと言う。そんなことができるものか。そんなことができたなら、メジャーリーグでも首位打者になれるってなもんじゃあないか。

 するとどこからともなく、しわがれ声が聞こえてきた。それは狩猟民族の紡ぎ出す、横のリズムをもった音楽のような、喜与川八郎太の鼓舞だった。

「北田広太。仮にも塗李のクリーンナップを張る男なら、弱音なんかとは無縁だよな? 俺たちは播磨灘高校の、兵頭鷹虎の本当のライバルとなるのだ。高みを臨め、上には上がいるぞ。そして奴を引き摺り下ろし、この天下に新しく、お前の武を布くのだ」

 たったこれだけのことで、北田広太にスイッチが入った。やれる、やれる、俺ならきっとやれる。男の瞳孔が獣のように尖る。その眼は目の前の一秒間を、それこそ五百八十六コマ以上に、精密に分割し始めた。


 先にも述べたように、観客は減少の一途を辿っていたが、それでもこの時点で甲子園球場は、九万人以上の観客を内包していた。その混雑の中、人という人を掻き分けるようにバックスクリーン方面へ急ぐのは、播磨灘高校野球部補欠、田辺聡だった。

「田辺じゃないか、どうしたんだ?」

 とアルプススタンドで応援をする他の播磨灘部員が彼に声をかけたが、彼はそれを無視するようにして、先を急いだ。こうなればあの老人に、兵頭虎太郎に相談するしかない、と彼は考えていた。

 甲子園球場は数年前に改修工事が施されている。その時に新しく施工されたバックスクリーンに入るには、一度一階まで降りて、専用の入口からいかなければならないことを彼は知っていた。そして彼がその入口まで辿り着き、扉を開けて中の個室にその身を入れた時だった。彼の目に飛び込んできたのは、背広を着た男の亡骸だった。

 もちろん、最初からその男が死んでいると気づいたわけではなかった。一度後ろに飛び退いて、恐る恐る声をかけた。しかし反応がなく、近づいてその首筋に触れてから、そこでようやく事態を飲み込むことができた。首は冷たく、脈打つ様子さえない。死んでいる。人が、死んでいるのだ!

 自分の予感が正しかったことを悟った。やはり今、ここ甲子園球場は、尋常ならざることが起きている直中にあったのだ。彼はその死体を飛び越えて、先に進もうとした。するともう一つの死体が、そこにあった。

 しかし今度はその死体は、死体ではなかった。ぴくりと動き、小さな咳をしたのだ。田辺はその死体のような物に近づき、「大丈夫ですか!」と声をかけた。するとその死体のような物の顔が見えた。それはどこかで、見覚えのある顔だった。

「君は、誰だ……」男が言った。田辺の着ているユニフォーム(それはやはり乳首が透けていた!)を見て、警戒心を強めたようにも見えた。

「僕は播磨灘高校の生徒で、田辺聡という者です。あなたは誰なのですか? なんで倒れているんですか!」

 すると男は俄に警戒心を解き、そしてまた改めて警戒心に身を包んだかのような表情をしてみせて、最後には諦めたように、言った。

「私は袴田という者だ。虎太郎様が殺されてしまう。もしかしたら、鷹虎様も、或いはここにいる全ての人間が殺されることになるやもしれない……」

「な、なんだって! 何を言っているんです!」

「これはおそらく、内部の人間の陰謀だ……誰かが、おぼっちゃまの思惑を利用して、兵頭コーポレーションを乗っ取ろうとしている……」

「兵頭虎太郎は無事なのですか!」

「虎太郎様は……無事ならば、だが、今も尚、バックスクリーンにおられるはずだ……しかしあそこには今、入れない……強力な電磁波が目に見えないフェンスとなって、あそこを陸の孤島にしてしまっている……」

 言われたことが整理できない。どうなっているんだ、陰謀とはどういうことだ、この大会の行方は、どこに向かっているんだ!

「内部の、内部の人間って、心あたりはあるんですか?」

 しかし男は、事切れていた。脈を確認する。死亡しているようだった。

 一刻も早くこのことを誰かに知らせなくてはならない、と思った。しかし肝心の兵頭は、今現在守備についている。そしてその父である兵頭虎太郎は、バックスクリーンという名の密室に閉じ込められているという。どうする、どうする。そこで彼の脳裏に真っ先に思い浮かんだのが、播磨灘野球部と兵頭コーポレーションの橋渡し的存在である、木村だった。木村とは相性が合わなかったが、この緊急時、この非常事態に対応できるのは、野球部のスポークスマンも務める彼しかいないのではないか、と思った。彼は踵を返し、再びベンチへと戻る。早く事態を打ち明けて、皆の安全を確保しなければならない!


「うーん、単純な奴だ」

 呆れるような感心するような面持ちで、堀が呟いた。北田がカットを、八球連続で成功させている。豚もおだてりゃセスナに乗って空を飛ぶ、と言えるほどの、それは期待以上の成果だった。そんな堀は次打者ということもあり、ベンチに残っていたが、北田の奮闘を見守りつつも、素振りをするでもなくiSchoolを操作している。場内に散っていったナインたちからの情報を、まとめて整理する役割を担っていた。

 結城裕樹は真っ先に、昌美に協力を仰いでいた。事情を聞いた昌美は、すぐに場内に四羽の白鳩を放った。ピースとジェニーとキャロラインとピーターは、ばたばたと羽音を立てて球場を外から窺う。何か異変があれば、主人である昌美に、即座に報告をする手筈となっていた。

 他のナインも、それぞれのステディーに協力を仰いでいた。その中で、連絡がつかなかったのは翔平だけで、彼は首を捻った。おかしいな、可奈ちゃん、観にきてくれてるはずなのに。彼は仕方なく次の行動に移った。ボールボーイの控え室にいって、先ほど穴から出てきたiSchoolのような物を見せてもらおうと思ったのだ。二つ目のやつは桃色だった。ひょっとしたら可奈ちゃんが、関係しているのかもしれない。

 ボールボーイの控え室の扉を開けると、中にいた職員が、出場中のはずの翔平を見て驚いた。そして、本当にきた、と言ったので、翔平は不審に思った。すると職員が言った。

「穴から出てきたタブレット型コンピュータのことだろう? 先ほど宮内君がきて、駄目だと言ったのに強引に持っていってしまったよ。知ってるだろう? 宮内君、西東工の宮内君だ」

「宮内? どうして彼が」

「わからない。でも彼は、あとから塗李の選手がくるかもしれないが、こっちは任せろと俺が言っていたと伝えてくれ、と言っていたよ。とにかく事情はわからないが、君はこの回で打順がまわってくるんだ。早くベンチに戻りなさい」

 翔平は何が何やらわからなかったが、とにかく、宮内を信じるしかない、と思った。


 大宮可奈子は甲子園球場の地下五階にいた。彼女は、自分が地下何階にいるのかもわからなくなってしまっていた。だけどこれも自分をチャーミングに魅せている要素の一つなのだわ、と彼女は自分を慰めたが、完全なる迷子という事実は、彼女をほとんど泣きっ面にしていた。面積のわりには照明も少なく、どこか洞窟のようなその雰囲気は、決して彼女をいい気持ちにさせるものではなかった。

 薄暗かったので、pinkSpyを照明代わりにと起動した。すると画面に、翔平からの着信があったことが表示されていた。試合中なのに連絡をくれるだなんて、私のダーリンはなんてロマンティックな人なのかしら。彼女はpinkSpyを操作し、翔平に連絡をとろうとした。心細かったのもあって、どうしても彼の声が聞きたくなった。

 しかし、通信不能、と出た。画面に出たエラーメッセージによると、現在地が強力な磁場となっているため正常な通信状態を保てない、とのことだった。磁場ってなんだろう、と彼女は思ったが、試合中継も呼び出せなくなっていることに不満を覚えた。pinkSpyはもう少し、高性能だと思っていたのに……。

 その時、何かの機械音が聞こえた。何か大きな物が移動している音。それは聞いたことのある振動音だった。そうだ、これはエレベーターの上下する音だ。彼女はそう思うと、pinkSpyを操作していた手を止めた。近くにきっとエレベーターがあるのに違いない。彼女はそれで、急に元気をとり戻した。通信状態を元に戻そうにも、まるでメカに弱い自分には解決策が思い浮かばない。ならば一刻も早く太田のいるはずの地下六階にいって、合流した方が心強いというものだろう。そして早く地上に戻って、塗李をいっぱい応援するんだ。彼女はエレベーターの音のする方向を目指した。そのエレベーターに、殺人者が乗っているとも知らずに……。


 アトミックニードルをZXの箱に入れ、恰も未開封であるかのように御曹司に渡すことができた。そして彼の第四打席、全てを灰にする原子の針が、パーフェクト・タイガーホークから放たれるだろう。打撃時に白球が跡形もなく消滅することは問題ではない。マーズメタルでできた超硬度をもつあの針が、核兵器のようなあの針が兵頭虎太郎に直撃すれば、それは御曹司の希望を叶えるだけでなく、私のつくった椅子の仕掛けもこの世界から消してくれるはずだ。そしてもちろん御曹司も、四〇〇〇〇を越える発射出力によってその身体はただじゃあ済まない。死んでもらっては困るが、廃人レベルにまでその生命力を低下させてもらう予定だ。そしてソルジャーヘッドのログには、設定された着弾目的地が残り、そうなれば総帥殺害の容疑は、タイガーホークの使用者である御曹司一人に向けられるに違いない。更には、アトミックニードルの製作に使用したプルトニウム。あれの購入には、御曹司のCockbookのアカウントを利用させてもらった。気の毒ではあるが、御曹司には破壊尽くされた身体のまま、その長い余生を国際刑務所で送ってもらおうではないか。

 木村がこのようなシナリオを描いたのは、鷹虎の虎太郎に対する、燃えるような復讐心に気づいた時からだった。しかし初めは、ここまで激烈ではなかった。木村としても、とても人とは思えぬ虎太郎総帥の下で働くのは気持ちのいいものではなかったし、なかなか死にそうにない虎太郎を合法的に殺害できれば、彼以上に帝王に相応しい鷹虎がその玉座につく日が早まる、さすれば、自分は兵頭財閥の事実上のナンバー2となり、この星を間接的に牛耳るというのはさぞかし面白いことだろう、程度のものだった。しかし、彼の中には彼さえも知ることのなかった、巨大な悪魔が棲んでいた。その悪魔は彼にこう囁いた。

『御曹司を生きる屍にすれば、お前がナンバー1だ』

 現時点での虎太郎の遺言状によれば、全ての相続権は鷹虎となっている。その遺言状に変更を加える隙を与えず、虎太郎を殺害、それと同時にその相続人を廃人化させる。そしてその廃人をコントロールするのは、他に誰あろう自分しかいない……。この誘惑は、一息に彼を占領した。こうやって、関白に成り上がるための彼の計画が始まったのだった。

 ここまでは、ほぼ計画通りに事は進行していた。あとは九回になって、打順が鷹虎にまわり、兵頭親子がその恵まれた人生から転落していけば、彼の描く物語は完結、いや、スタートする。しかし木村としては、あと一つ、片付けなければならない問題が残っていた。宇賀神が気になった。奴には顔を見られている。グラウンドで事件が起こる前に、あの化物を亜空間に放り込んでおかなければならない。

 一部の者しか知らない、特別なエレベーターで下降していく。甲子園の改修設計には、彼が大きく関わっていた。木村にしてみれば今の甲子園は、自宅のようなものだった。


 宮内志郎が球場に漂う異様な気配から悪意を感じとったのは、試合が中盤を過ぎたあたりからだった。そして見た、『穴』から出てきたタブレット型コンピュータ。彼はそれを見て、悪意の正体を朧げながらも掴んだような気がした。迷うことはなかった。彼はすぐにそれが何かを確認にいった。そして職員から強引に奪うと、それと左腕を接続した。操作ロックを解錠するのは、彼の左腕には容易なことだった。

 その中に、通話記録が残されていたのは幸運だった。それを聞いた宮内は、すぐに地下に向かった。そして現在、彼は左腕のタッチパネルをその右手で操作しながら、ナビに従うままに地下六階に辿り着いている。彼の人間の部分が、純情の炎に屹立する。それは純粋な勝負の邪魔をする、大いなる邪悪への反抗だった。

 すると彼の耳に、悲鳴のような声が聞こえた、ような気がした。歩みを止め、耳を澄ます。しかし廊下は静まりかえり、遠くに機械音のようなものが聞こえるだけだった。そして再び歩きだす。規則的な機械音が、少しずつ大きくなっていく。ごおんごおんから、ぐわんぐわんとなった。その時だった。再び、先ほどの悲鳴のような声が聞こえたのだ。今度はもっとはっきりと聞こえた。それは確実に悲鳴、しかも女の悲鳴だ!

 宮内は廊下を駈けだした。そして最初の曲がり角を迷うことなく左に折れた。するとその先は、百メートル以上はあろうかと思われる、連続した闇の繋がりだった。いくつもの廊下が交差し、碁盤のように分かれ道がある。宮内は機械音のする方向を目指した。女の悲鳴はそこから、聞こえたような気がした。


 観客を掻き分けて進むが、なかなか進めずにもどかしい。田辺は場内をいったりきたりしてる自分を馬鹿馬鹿しく思ったが、しかしやはり、ベンチに戻らねばと再び先を急いだ。するとその時、近くにいた青年が何かをぼそりと呟いたのが聞こえた。それが肝心なワードを含んでいたように思えて、彼は立ち止まってそれを言った者を探した。すると青年が、もう一度言った。

「やっぱりそうだ、寝てるじゃないか。試合なんか最初から、全然興味なかったんだ」

「だ、誰のことを言ってるんですか?」

 田辺はそれを言った男に歩み寄った。男は少し戸惑ったようではあったが、すぐにその質問に答えた。

「兵頭虎太郎だよ。首を項垂れて、よだれを垂らして寝てる」

 まさか、と思い、すぐに振り返ってバックスクリーンを見た。するとたしかに、兵頭虎太郎は首をがっくりと下に向けていた。死んでいる? まさか、死んでいるのか?

 田辺はスタンドの中間地点で、自分が今どこに向かえばいいのかを俄に見失った。きょろきょろと左右に首を振る。どっちに足を踏み出せばいいのかがわからない。しかし、その時の彼が本当に見なければならないのは、上方だった。直径八メートルの球状の物体が、甲子園に向かって落下していた。


 和歌山県の陸軍(この時代、自衛隊は遂に軍隊を名乗っている)駐屯地で、一人の軍曹が小さな声を上げた。

「なんだこりゃ?」

 傍らの同僚に言う。するとその同僚も首を伸ばしてレーダーを覗き込んだ。レーダーには、直径六〜十メートルと思われる、球状の何かが映り込んでいる。

「ミサイルではないけど、そこそこでかいな。隕石か? 落下予測地点は……おい、甲子園球場じゃないか!」

 二人はちょうど、そこで行われている決勝戦を観戦しているところだった。その、何万人もの人が集まっている場所に、何か正体不明の物体が物凄いスピードで近づいている。彼らは驚いて、上官に報告するべく無線機をとった。近隣諸国からのミサイルを監視していた彼らにとって、突然にレーダーに映り込んだそれは、宇宙からきた物としか思えなかった。

 しかし無線機に出た上官は、既にそのことを知っていた。そして、そのままでいい、と言った。質問は憚られたが、訊かないわけにはいかなかった。すると上官は、声を渋らせてこう言うのだった。

「それは兵頭コーポレーションの人工衛星の一つ、『祝福』から落とされた物だ。上の話では、危険な物ではないという。間違って迎撃でもしてみろ、防衛省の予算は半分以下に削られるぞ」

 それを聞いて二人は安心した。レーダーに気を配りながらも、再び試合中継に目を戻した。


 翔平からの連絡で、続々とナインがベンチに帰ってきていた。その端で、虚ろな目をして身体を休めているのは北田広太。彼は結局、三振に倒れるまで二十三球も粘り、それで疲弊した心身を回復させているところだった。そして打席には堀がいる。彼も北田同様、喜与川に叱咤され、恐るべき集中力でカットを成功させ続けていた。

「うーん、単純な奴だ」

 呆れるような感心するような面持ちで、翔平が呟いた。豚もおだてりゃ宇宙船に乗って木星を探索する、とは中国の故事だったか。まさにこのことだ、と彼は思った。

 それにしても、と桜田翔平は現状を考える。いつまで時間稼ぎをしていればいいのかがわからない。宮内は今、どこで何をしているのか。今の自分にできることはないのか。ここは彼に全てを託し、信じるしかないとはわかりつつ、次第に膨らむ胸騒ぎを、どうすることもできないでいた。

 兵頭は兵頭で、亜空間投法に食い下がる塗李に、改めて感心する思いでいた。すると播磨灘ベンチが、突然にタイムをとった。ベンチから田辺が、マウンドに向かって走る。兵頭は首を捻った。守備中に伝令が走るなど、播磨灘では非常に珍しいことだった。

 兵頭を含めた内野陣が、マウンドに集まった。すると田辺が、呼吸を整えながら、バックスクリーンを指差して、言った。

「兵頭虎太郎が、死、死んでいる……」

 まさか、と息を飲み、バックスクリーンに目をやる。するとそこには、きらびやかな玉座の上でまるで主人を失った操り人形のように不自然に首を折った、兵頭虎太郎がいた。それは鷹虎だからこそわかる、あまりにも明らかな事実だった。生気迸るはずの男にはおよそ似つかわしくない、まるで『無』の異様。兵頭虎太郎が、死んでいる? これから殺そうというあの男が、死んでいるだと?

「それだけじゃない、袴田という人もさっき、脇の部屋で息を引きとった」

 田辺の説明を遮って、兵頭が、訊く。

「なぜにお前がそんなことを知っている」

 すると田辺は両の掌を前に出し、説明はあとだ、と言って、唖然とする他の内野をよそに、続けた。

「その時彼は、内部の人間の陰謀だって、兵頭君の思惑を利用して、兵頭コーポレーションを乗っ取ろうとしている人がいるんだって」

 兵頭の表情が固まっていくのを見て、田辺は思わず口を噤んだ。それは、無の表情を無理につくる、彫刻のような頑さがあった。実際、兵頭は無理をしていた。その無理は彼の中の、精一杯の意地だった。

(そうか……やはり謀反があったか。そしてその裏切り者は、信じたくはないが、ほぼ確実に木村だろう。俺のアカウントを使用して物騒な物を購入している馬鹿がいる、と奴に調査を命じていたが、道理で、優秀な奴のわりになかなか犯人が突き止められなかったわけだ。おそらくプルトニウムは、先ほど渡されたZXに仕込まれている。そしてだいたいの目的はわかる。奴は……)

 そこまで思い至った時、彼は不意に身を震わせた。それは彼の、今までに感じたことのない孤独からきていた。彼にとって木村は、虎太郎などよりも遥かに父親に近い存在であり、その木村の仕業を、どうしても認めたくなく、それでいて認めざるを得ないほどの確信が、彼の心を動揺させていたのだ。彼は自分が、恐ろしく冷たい顔をしている自覚がなかった。

「木村さんに相談しようと思ったんだけど、いないんだ。どこかにいっちゃったみたいで……それで兵頭君に相談しようとこうしてきたんだけれど」

 兵頭の様子に脅えながら、田辺は続けた。すると兵頭が、

「ベンチに戻るんだ」

 と言ったので、彼は驚いて兵頭を見つめ返した。兵頭はいつの間にか、いつもの顔つきをとり戻していた。

「木村には何も言うな。だけでなく、ベンチの者、誰にも言う必要はない。そしてみんなは、守備に戻るんだ。何も怖がることはない。播磨灘野球部はいつも通りだ。俺たちはこの回を抑え、次をサヨナラで決めて五連覇を達成する」

(し、試合を、続けるつもりなのか?)

 田辺は何も言えない。有無を言わせぬ迫力が、この時の兵頭にはあった。

 殺人を犯さずに済むことからくる安心と脱力が、兵頭を戸惑わせていたのは確かだった。しかし、脅えるチームメイトを前にして、彼に備わるキャプテンシーが怠慢を許さない。

「俺たちは野球選手だろう? 全力でプレーするだけだ」

 このスポーツを純粋に楽しんでいたあの頃に、ようやく戻れるんだ。そう言い聞かせて、モチベーションをもう一度奮い立たせた。しかし、彼の脳裏に何かが引っ掛る。俺は何かを忘れていないか? 遠い昔に聴いた、兵頭虎太郎の恐るべき何かを……。


 女の叫びが近づいてきて、扉の向こうに止まった時、宇賀神は、新たな被害者の無念を思うと共に、今生の暇乞いをしなければならないことを甘受した。

 そんな彼が最期に選んだ行動は、感謝をすることだった。最初に浮かんだのは、担任の沢井だった。そしてキャプテンの翔平だった。彼を熱心に指導してくれた、木戸や猿渡や島袋だった。次々とナインの顔が目に浮かぶ。思い浮かんだ彼らは皆が皆、宇賀神に笑顔を向けていた。彼は最後に、母親のことを考えた。

(お母ちゃん、一生懸命にやったよ。そうしたら、みんなが笑顔になったんだ!)

 ハンドルの回る音が聞こえてきた。今にも扉が、開かれようとしている。

 ただでさえ少ない照明は人為的に絞られてもいるようで、そのため宮内はその薄暗闇の中を、左腕のナビを頼りに着実に進むしかなかった。しかし先ほどから、左腕の反応が鈍い。何か凶悪な力が、機械の活躍を妨害しているようなのだ。その力は彼の求める場所から発せられているに違いなく、ならば左腕が能力を失っていく度に目的地に近づいているということになるのだが、彼の手段を思うと、それはジレンマ以外の何物でもなかった。

 焦燥感の中で、二つ目の角を折れた時だった。遂に、目的地に到達したことを彼は悟った。男と、その男に髪を掴まれて引き摺られる哀れな女の姿が、彼の目に飛び込んできたのだ。二人は部屋の入口にいた。男が室内に向かって何かを言っている。しかし距離があり過ぎて、宮内には内容が聞き取れない。それでも彼にはわかった。あの男こそが、自分が感じていた邪悪の正体なのだ。目を覆いたくなるような惨劇が今にも始まりそうな予感が、彼の焦燥感を煽る。彼は急いで、右手でポケットからボールを取り出した。その正確な投球で、男を仕留めるつもりでいたのだ。しかし、動かない! 左腕が、完全に動かなくなっている!

「しぶといな、まだ粘っていたか」その頬に厭らしい笑みを浮かべて、男が言う。「まあちょうどいい。この女をぶつければ、さすがのお前も耐えられずに亜空間へと引き摺り込まれるはずだ。違うか? お前は今、軽く息を吹きかけられるだけでももう駄目だ、ってくらい、限界の限界、ぎりぎりの所にいる」

 少しだけ期待していたが、女を見れば後ろ手に縛られ、完全に自由を奪われている。宇賀神は観念した。合田はん、花恵はん、今からあんたらの所にいくズラ……。

 ぐっ、と目を瞑って、暗黒を覚悟した。男の声。鈍い音。それをきっかけに何も聞こえなくなった。冷気に身体を包まれたような感覚。死とはこういうものかと、不思議と冷静に考えた。しかし彼の耳に、ぐわんぐわんという例の機械音が、ゆっくりとゆっくりと戻ってくる。続いて、男の悲鳴。男?

「誰だお前は! な、何を!」

 事態がわからず、恐る恐る顔を上げた。するとなぜか目の前に、メタルバットを持った老人が立っていた。逃げ惑う男から女を引き剥がし、もう一度男にバットを振り下ろす老人。先ほど聞いた音と同じ、鈍い音が、鳴る。男は、ぐったりと動かなくなった。

 宇賀神は目を見開いて、老人に見入っていた。すると老人は男の脈を確認してから、まだ生きてるみたいだな、これでよし、と、言った。そして宇賀神に向き直り、バットを構えて痛快そうな笑みを浮かべる。宇賀神は、亜空間の引力に耐えながら、なんとか声を絞り出して、尋ねた。

「だ、誰でっか?」

 しかし老人はその質問には答えず、嬉しそうに掲げたバットを見やって言う。

「見たか宇賀神。我が人生、最高のスイングだったぜ」

 老人がバットを差し出した。それは、掴まれ、という意味のようだった。


「うーん、単純な奴だ」

 三人連続で恐るべき集中力を見せる塗李のクリーンナップに、高原が呆れたように感嘆の声を上げた。まさに、豚も褒めれば頑張る、という慣用句(二一世紀中頃に褒められた豚が頑張ったことから一般化した)通りの現象が起こっており、堀に続いて翔平も、喜与川の励ましによって連続でカットを成功させていたのだ。しかしそれも十七球目で、三振という結果で終わってしまった。充分な時間が稼がれたのかは塗李の皆にはわからない。しかし、次を抑えさえすれば全国優勝が決定、というところまできたのには間違いがなかった。あとは宇賀神が、ベンチに帰ってくるだけだ。

 チェンジとなり、グラウンドから穴が消えた。延長戦にならない限り、もう二度とあの不気味な穴にお目にかかることはないだろう。それを思うと、塗李ナインも僅かながらの元気をとり戻せた。勝つにしても負けるにしても、できればこの裏で終わらせたかった。

 それは播磨灘ナインも同じだった。誰かが死んだだのなんだのと、真偽のほどは別にしても、この大会が例年と違いおかしな方向に傾いているのはずっと感じていた。早く終わって欲しい、というのが、彼らの本音だった。

 しかし、兵頭だけは違った。彼は父の殺害という積年の目的を奪われた恰好ではあったが、それよりも緊張すべき戦慄に、その脊髄を急襲されていたのだ。彼は年少の頃に聴いた、兵頭虎太郎の言葉を思いだしていた。

「人間は、死ぬ。認めたくはないが、もしこのわしもその『人間』というカテゴリーに属しているというのなら、信じ難いことではあるが、『兵頭虎太郎』も死ぬということになるだろう。それを信じたとして、だ。わしのおらぬ世に、なんの価値がある? そんな世界などには塵一つ分の価値すらないと、わしはここに断言しよう。ただし鷹虎よ、それはお前がいなかった場合のことだ。お前に命ある限り、たといわしが死んだとて、わしの分身である兵頭コーポーレーションは生き続けるのであるから、死後のこの世界の安泰を約束してやってもええやろう、と最近は考えるようになった。しかし万が一、お前がわしよりも先に死ぬようなことがあったなら、わしは自分の死期を悟った瞬間に、自爆装置を発動させるだろう。自爆とはわしのことではない、この星のことだ。全てを終わらせる、中性子爆弾の投下だ。わしの死はこの惑星の死と同義だということを、この世界に散らばる生命という生命に、その身をもって改めて、認めさせてやろうではないかという寸法だ」

 この話にどれほどの信憑性があるのかはわからない。しかし、もしこれが本当であるのなら、その爆弾とやらは彼の父が遺した、この世界の最悪であった。

 攻守交替の進む中、兵頭鷹虎は考える。父は本当に死んだのか。もしそうならば、なぜ死んだのか。そして、いつ死んだのか。

(仮に)

 と彼は一度息を止め、再び思考を先に進める。

(仮に本当に死んでいるとして、奴はその死を迎える時、俺の裏切りに気づいていただろうか? もし気づいていたならば、この俺、兵頭鷹虎は、奴が自身が死んだ後のこの世界の安泰を約束する理由には、ならない……)

 思わず上空を見上げた。しかしその自爆装置とやらは、そもそも虎太郎の物ではなくこの星の物なのだから、その爆弾が虎太郎の遺骸のあるここ甲子園球場に向かっているとは限らなかった。どこか地球の裏側で、起爆の時間をチクタクと待っているのかもしれない。

 兵頭はベンチ裏に向かうと、チーフ研究員に指示を出した。

「ソルジャーヘッドにタイガーホーク以外からのアクセスがないかを調べてくれ」

 研究員はきょとんとしたが、主の鬼気迫る表情を見て、すぐにHeadMobileを操作した。

「ありません」

「ならば他の衛星、うちの所有する全ての人工衛星の、ここ数時間の動作を確認するんだ」

 彼はそう言うと、自身のiSchoolを操作して、日本の陸海空軍にスクランブルが出ていないかを問い合わせた。しかしそのような緊急発進指令の記録は、一週間を遡っても確認できなかった。彼は深く息を吐き、静かに目を瞑った。

(どれほどの規模の物なのか……もしそれが本当に、この星を破壊するほどの物ならば、どう足掻いても全ては……)

 研究員が声を発した。

「一時間ほど前に、うちの所有する多目的人工天体『祝福』から、何かが発射されたようです」

 兵頭はかっと目を開き、振り向き様に言った。

「『祝福』、だと?」

「直径八メートルの球状の無人シャトルです。マーズメタルで造られた頑丈な物で、二年ほど前に虎太郎様の指示により積載された物のようです。目的地は、な、なんと?」

「どうした」兵頭は息を飲んだ。研究員が答える。

「こ、ここ、甲子園球場に設定されています!」

 絶望が目に見える物体となって接近しているという事実を突きつけられて、さすがの兵頭も、頽れそうになった。彼を支え続けてきた、不撓の柱が折れかける。敵はもはや、個人の力でどうにかなるような相手ではないのだ。中性子爆弾だと? この星を丸ごと焼き払うような放射線を相手に、たかがこの星の住人に、何ができるというのだ! 科学は際限なく進歩を続けるが、人類は己がつくり出した矛を受ける盾の開発を常に疎かにしてきた……その結果がこれだ! 地球内でけりがつけられなくなって、こうして最後につけがまわってきた時、ただただ狼狽するしか能がないとは、まさに、惑星一代の、極上のユーモアというやつじゃあないか!

 電光の閃きが彼の脳髄を駆け抜けたのは、心の中でそう悪態を吐いた、まさにその瞬間だった。

(地球内? 地球内だと? 突破口が一つだけあるじゃあないか。地下で生成されている親亜空間をもっと巨大化させ、球場上空に出現させることは理論上不可能ではなかったはず。亜空間だ、亜空間に無人シャトルを飲み込ませ、地球の外にうっちゃるんだ。もしあとになって、それによって迷惑を被った我々と同じく放射線を苦手とする地球外生命体にお会いすることでもあったなら、その時はこの鷹虎、丁重に頭を下げてやろうとも!)

「おい」と声をかけられた。振り返ると、肩に木村を担いだ、どこか見覚えのある長身の男と、老人が一人、立っていた。するとその長身の男が、言った。

「俺は西東工の宮内だ。勝負に水を差すようなことはしたくなかったが、こいつのやり口はスポーツの範疇は疎か、人道的にも大きくはみ出していたんでな。というわけで、播磨灘ご自慢の亜空間発生装置とやらを、俺たちの方で破壊させてもらったというご報告だ」

 一瞬、上気したように頬を染め、そしてまた冷たい顔つきに戻る兵頭。宮内はそれを誤解して、挑発するように続けた。「さあて、試合はあと少しだ。お手並み拝見といこうか」

 しかし兵頭はとり合わない。その表情には、怒りもなければ悲しみもなく、やさしさすらなかった。事態を劇的に解決するはずのアイデアを、閃いた直後に潰されたこの時の彼の心境は、全てを包含する雄大な海、或いは茫漠とした荒野だった。彼は観念論者ではなかったが、これも宿命と、全てを受け入れた。

 木村の状態に驚いている研究員に、兵頭鷹虎は再び顔を戻した。

「到着予定時間はいつになっている」

「え?」

「先ほどのシャトルのことだ」

「す、既に大気圏再突入を終えているようです、い、今は上空で時間調整のために速度を落としてお」

「予定時間は」

 兵頭の消え入るような、それでいて恫喝のような声音に、研究員は慄然とした。

「あ、あと、二十六分三十九秒後となっております……三十七、三十六……」

 予想していたものと違った反応を示した兵頭に、宮内や老人が困惑の表情を浮かべる中、兵頭は黙ってiSchoolを手にすると、年来の恋人に音声通信の発信を操作した。


 宇賀神が戻ったことに、最初に気がついたのは猿渡だった。

「宇賀神! お前、どこにいっていたんだ!」

 皆が一斉に猿渡の視線の先に顔を向ける。するとそこには、すいませんズラ、と頭を下げる、脂汗に塗れた大男がいた。宇賀神に、間違いはなかった。するとその巨体の後ろから、大宮可奈子が顔を出した。

「彼はあなたたちのために、自分にできることを精一杯やっていたの」

「可奈ちゃん……その顔」

 顔を腫らした大宮を見て、翔平は動揺した。

「心配しないで、私は大丈夫。わけはあとで話すから、あなたたちは目の前の試合に集中して」

 大宮の切実な表情に、翔平は信じることを選んだ。こくりと頷いて、瞬時に気持ちを切り替えた。それから彼は、しばらく皆を見回すと、おもむろにこう切り出した。

「とにかく、これで塗李のオリジナルテンが揃ったわけだ。あとはこの裏を抑えて、」

 それはナインの士気を確認するような眼差しだった。そして彼は、不意に満足の表情を浮かべると、最後に、この一年、彼の中で決して揺らぐことのなかった初期衝動を、そのまま口にした。

「日本一になろう! いくぜ!」

 主将のかけ声に、ナインが呼応する。少年たちの夏の重なりが、泡となってはじけた。

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