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第5話

  神奈川県立塗李高等学校二年 野球部中堅手 喜与川八郎太


  「人生を懸けるんじゃなかったのかい?」

 ローション投法にはいくつかの問題があった。まず、これはあたりまえのことではあるが、ボールがぬるぬるになってしまうということだった。投手や捕手以外の者もボールに触れる機会はあるのだから、全員がこれに慣れておかなければならないというわけだ。

 それから、ローション代の問題もある。空振りや見逃しの場合はボールに残されたぬるぬるを次にも流用できるが、ゴロなどの場合、芝や土が付着してしまうので、それを拭き取らなければならない。その度に新しいローションをボールに塗り直していれば、ローションの減りは凄まじい勢いになろうというもので、その代金も馬鹿にならないだろうという話だ。

 ここまで話して、翔平はため息混じりに、最後の問題について切り出した。

「それから、最大の問題がある」

 皆が緊張するのがわかった。翔平は思い切って言った。

「誰が買いにいくかという問題だ」

 これを受けて、皆が俯いてしまった。たしかに、ローションを買うというのは、ある程度大人になっても恥ずかしいものだ。

 その時、右翼を守る一年生の猿渡(さるわたり)が言った。

「ネットで買えばいいじゃないですか」

 このアイデアには、皆がほっとした顔をした。これさえ解決すればあとはもう優勝するだけだ、という漲りが、部室の隅々まで漂った。するとこの時、部室の隅から、また別の声が聞こえてきた。

「キャプテンの言う問題は大した問題ではないと思うんです」

 それは一年生でセカンドを守る木戸の声だった。眼鏡を押し上げて、鋭い眼光を皆に配っている。「もっと大きな問題が他にありますよ」

「ぬるぬるに慣れるとか、金がかかるとか、それ以上の問題があるっていうのかよ」

 北田が、お前の話しぶりはいつも気に入らない、といった様子で噛み付いた。たしかに木戸は、インテリを気取った仕草や表情、話し方が鼻につくタイプだった。

「まあまあ」

 翔平はそう言って、木戸に向き直った。「言ってくれ。お前の思うそれ以上の問題って、なんだい?」

 すると木戸は、少しため息混じりに、吐き出すように言った。

「ボールにローションを塗るのは……反則です」

 木戸以外の塗李ナインが、固まった。


「反則……」

「そうです、反則です。変化球のキレを良くするためにボールに鑢で傷をつけて、それが後に発覚して大問題になった事例がプロの歴史にもあります。どころか、唾だって駄目なんです。投手はロージンバッグを使いますが、あの粉だって、直接ボールに付けるのは反則なんですよ」

 これに反論したのは堀だった。

「たしかにそうかもしれないが、反則投球というのは昔から定義がはっきりしていないはずだ。ボールに故意にグラウンドの土を付けてはいけないって言われても、それがワンプレー前のゴロで付着したものではない、とどうやって証明できる? それくらい、いいかげんな話なんだよ。日本では大問題になるが、本場のMLBでは意外と甘い。唾や松脂くらいならバレなきゃいいだろってくらいの感覚のはずだ」

「だからって、反則は反則です」

「だいたい、反則投球は傷を付けたり汗や薬品のような物を付着させて、指のかかりを良くしてボールに激しい回転をつけたり、空気抵抗に影響を及ぼしたりして変化球の威力を増すのが主な目的だ。ところが、桜田の場合はどうだ、ボールは全然変化しないし、低速も低速のへっぽこピッチじゃないか」

「へっぽこピッチ……」

 翔平のプライドが少しだけ揺れた。木戸が尚も堀に食い下がる。

「しかし、キャプテンのボールは歴史上のどの反則投球よりも、強力です」

「強力」

 翔平のプライドが再び元の位置に戻った。堀が再び木戸に言い返す。

「しかし前例がない。前例がないなら、反則かどうかも決まっていないのと同じだ」

 たしかにそうです、と木戸はとりあえずは認めた。しかし自分の言い分を言い切れてはいなかったようで、相手を興奮させないように静かに話し続けた。

「落ち着いて聞いてください。僕が言いたいのはそういうことじゃないんです。反則だからやめるべきだとか、この問題に対してどうやって良心の決着をつけるかだとか、そういったことを言ってるんじゃあないんです」

 これには北田が反応した。

「じゃあ何が言いてえんだよ」

 落ち着いてください、と言わんばかりに、木戸が眼鏡を再び押し上げる。

「僕が言っているのは、このことが世間に知られたら大騒ぎになるのは必至だ、ということなんです。もしこの野球が公になったならば、これは反則か否か、ということが、マスコミやネットで大いに議論されることになるでしょう。そうなると、僕たちは犯罪者というわけではありませんから、少年法にも守られずに、ローションベースボールの実践者として連日顔写真付きで報道されるのは避けられません。記者たちがこの部室に押し寄せ、大量のローションを撮影しては不気味な演出で電子雑誌に掲載するでしょう。僕たちは、たとえ甲子園で優勝することができたとしても、晒し者になってしまうのです」

 北田が唸った。それと同時に、ほとんど全てのナインが、全てが露呈したあとのことを想像したか、表情を曇らせた。

 翔平も同様だった。優勝旗を掲げて英雄になるはずが、ローションを抱えて逃げ回るようでは本末転倒だ。せっかく手に入れた自信が、目前で雲散霧消に消えていくのを、彼はどうすることもできなかった。

 しかし、センターを守る二年生部員、喜与川八郎太(きよかわはちろうた)だけは違った。彼は不敵なまでの笑みを浮かべて、落ち着いた口調でこう話しだしたのだ。

「人生を懸けるんじゃなかったのかい?」

 翔平はふと顔を上げて喜与川を見た。喜与川はむしろ、晴れ晴れといった顔つきをしていた。

「ローションを持って立ち上がり、目の前の虎を撃つ。これこそ、男子の本懐というものじゃあないか。隠蔽だ! 命を懸けて隠蔽するんだ!」

 その言葉は、聞く者の覚悟を呼び覚ますような、圧倒的な馬力をもっていた。そこに居合わせた全ての者に、塗李伝説の始まりを予感させた。

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