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第49話

  私立播磨灘高等学校三年 野球部補欠 田辺聡


  「もう既に、君の身体はぼろぼろじゃないか……」

 気流発生装置にiSpyを接続し、悪質のコンピューターウイルスを流し込むことによってその機能を停止させることを試みた。するとまもなく、塗李の打線が動き始めたので、思惑通りに事が運んだことにとりあえずは安堵した。合田は続いて、装置に接続したままのiSpyで、全体を司っているはずのオペレーティングシステムに接触を試みた。しかし、どうやらそれぞれの管理は個別に行なわれているようで、セキュリティーが想像以上に強固であることしかわからなかった。

「次は何をするつもりですか」

 隣りでは宇賀神が、装置を管理していた二人をパイプ椅子に縛り付け、丁寧な言葉遣いを維持しながらもなるべく声に凄みを利かせて詰問を続けている。「これ以上乱暴なことはしたくありません、言ってください」彼の大きな左手が、男の喉元を締め上げた。

 すると一人が、開き直ったように不敵な笑みを浮かべて、言った。

「たとえお前らが次々とこちらの作戦を潰していったとしても、最後には亜空間投法が発動されるだろう。そうなれば塗李は終わりだ! 播磨灘は、世界最強の組織なのだ!」

「亜空間、投法だと……?」

 その聞き慣れない単語は、何か危険な匂いを伴って、制御室に反響した。合田は嫌な予感に襲われながら、iSpyの中継映像に視線を移した。


 これまでに投じられた播磨灘投手の投球は、地盤沈下、ホログラフィー分裂、気流、の三つである。そのうち三つ目の気流は、理由は不明だが収まっている。ならば足下に注意し、木戸のサングラスによってホログラフィー演出を無効化さえすれば、新しい球がこない限り対応は可能だ。この回の先頭打者、北田のヘルメットに、太陽光がぎらりと反射した。がさつと揶揄されてきた彼に、獲物を目の前にした慎重なる肉食の気迫が宿る。無敵と謳われた播磨灘高校に、敗北者の烙印を押すのは、俺だ!

 しかしそんな彼の気迫も、すぐに消沈する。見えるほどの不穏な空気が、強烈な違和感が、球場を突然に支配したからだ。何か、ただならぬ気配。究極的な破壊の予感が人々の胸を騒がせる。その正体不明の何かに、北田の奥に眠る動物的警報装置が、鳴る。投手の西川が、投球モーションに入った。北田広太が、それまでのその短い人生において、かつて一度も見たことのなかった二つの黒い『何か』を見たのはその時だった。

 それは、投手の投げたボールを亜空間へと誘う、人工的な第三宇宙への招待状だった。投球はその一つ目の『何か』、即ち入口を通過することによって、事実上この惑星から消滅する。そしてボールは、ストライクゾーン手前に発生したもう一つの黒い『何か』、即ち出口より、光速を越える二点間移動到達時間で、再度この星に戻ってくる。これが亜空間投法の、驚愕のプログラムだった。

 捕手の田之上は、出口から出てきたボールをなんとか体で止めると、前に落としてから捕球した。そしてそれが三度繰り返されると、田之上は、振り逃げのことなど全く頭になくただただ茫然と立ち尽くしている北田に、タッチした。北田にしてみれば、言い訳するつもりすらなかった。何しろボールが、消えたのだ。伊達昌幸の消える球とは訳が違う。ボールは、本当に、消えたのだ!

 観衆も、唖然としていた。それは驚きからくるものだけではなかった。伊達の投げた魔球に対して彼らが送った賞賛は、この場合には送られなかった。播磨灘の勝利への執念に対する脅え、そしてその手段が自分たちの定める倫理から大きくはみ出しているのではという疑惑が、彼らに率直な賞賛を躊躇させていたのだ。播磨灘は、何がしたいんだ? これは本当に、スポーツなのか?

 その中で、眉間に皺を寄せ、扇子を閉じたり開いたりを繰り返すのは兵頭虎太郎。

(どこかで見たことがあるな……たしかあれは、宇宙開発部にやらせていた超光速航法の研究成果の一部だったはずだ。鷹虎の奴め、会社の技術を乱用しおってからに)

 合田は合田で、想像以上の播磨灘の所業に戦いている。なんということだ。たかが高校生の野球の試合に、超光速航法だと? 要するに、ワープじゃないか。物体が光の速度を越えることはアインシュタインが相対性理論で否定しているが、時空連続体を人工的につくり上げ、そこへ移動させて再び元の世界に呼び戻すことによって、光速以上の移動到達時間を実現させることができるというのは、サイエンスフィクションにおける定番となっている。しかしそれは、あくまでフィクション世界の話であって、実際の世界で実現させるのは理論上不可能だと言われていたはずだ。それを播磨灘は、やってのけた。しかもそれが、学会での発表の場というわけでなく、高校生の、野球大会でだ!

(こんな荒技、攻略しようがない)

 呆れと諦めが混ざったような気持ちで彼がそう考えているその横で、まるで馬のようにわなないたのは宇賀神栄太郎だった。

「ゆ、ゆうしょう、優勝するんだズラ!」

 宇賀神の中で、再び人格が揺れだした。


(親亜空間から子亜空間を分離させる技術は未完成だったはずで、予選でも使用を自重していた。だのに今、実行に踏み切っている。そして先ほどの兵頭君の打席……このチームはいったい、どこへ向かっているんだ?)

 田辺聡は不安を募らせ、それでいて今、自分がやるべきことがわからずにいた。塗李打線はあたりまえのように三振を繰り返し、試合は六回の裏へと進んでいる。兵頭がタイガーホークに次打席用のコントロールニードルを装填しているのが見えたが、チームのバント作戦があえなく不発に終わると、兵頭はそのバットを、静かに鞘に戻した。レギュラー陣が各々のポジションへと散っていく。試合はここへきて進行を早めている。このまま試合が終われば問題はない、問題はないのであるが……そうならないような予感、試合は決してこのまま終わらないであろうという根拠のない不安が、ほぼ確信となって田辺の胸を疼かせる。とりあえずベンチ裏へ、そしてもう一度チーフ研究員を説得し、HeadMobileから自分の知らない播磨灘野球部の真実を……と考えた。

 その時、兵頭のバッグから彼のiSchoolが顔を覗かせているのに気づいた。なぜか、躊躇いはなかった。そこに答えを見出せるような気がした。少しの罪悪感も感じずに、気づいたらバッグからそれを抜き取っていた。

 亜空間投法が使われるのならば、この回もすぐに終わるに違いなく、時間の余裕などはない。彼はすぐにそのiSchoolを起動すると、兵頭による最近の操作履歴を追った。

 するとすぐに、意外な履歴に直面することとなった。なんと兵頭は、『Cockbook』を利用していたのだ。田辺の記憶が確かならば、『Cockbook』は一時は隆盛を極めたSNSサイトであったが、猥褻な内容で氾濫したため、『Bodybook』に駆逐されたはずだった。しかしそのあと、その仮想コミュニティー空間は犯罪組織などの情報交換の場などに流用され、国連の監視を受けながらも細々と運営が続けられている、と聞いたことがある。

 その『Cockbook』を、兵頭君が、なぜ?

 アイコンをクリックすると、なんの支障もなく、彼のアカウントと思われるIDでログインすることができた。更に履歴を追い、奥の階層に進んでいく。エロか? というどきどきが、彼の心を占領する。誰かとの暗号のようなやりとり。値段の交渉らしき記録。超絶エロなのか? というわくわくが、彼の下腹を昂らせる。基本言語をアラビア語とする整理された販売サイトへのリンク。支払いの履歴。ウェブマネーの残高。そして遂に、決定的な事実に辿り着いた。田辺聡、目を見張る。見てはいけない物を見た者がみせる、典型的な絶句の表情。彼は仮想の買い物かごに、恐るべき物が入れられていた過去を見た。

 なぜに君は、こんな物を……。


「バグスカウトが次々と消息を絶っている場所がある」

 合田が画面を指差すと、宇賀神が顔を寄せて言った。

「い、いくしかなか!」

 もはや塗李と播磨灘の戦いだなどと言っている場合でないことに、さすがの宇賀神も気づいたようだった。合田の協力を全面的に受け入れ、むしろ指示を仰ぐ兵隊のような実直ささえ見せている。合田としても異存はなかった。一度は諦めかけたが、それでは旧の木阿弥だと、すぐに立ち直った。自分は今でも不撓不屈の精神を標準で装備する高校球児なのだ、という誇りが、頽れそうになる彼の膝をぎりぎりのところで支え直したのだ。

 しばらく、スタンドからの歓声が途絶えていた。試合が淡々と進んでいる様子を想像しながら、彼は宇賀神と甲子園の地下通路を進んだ。


 その回の先頭打者の島袋は、体験したことのない種類の脅えに、その身体を石像のように硬直させていた。物体という物体を片端から吸い込んでしまいそうな暗黒が、目の前にある。自分も吸い込まれてしまうのではないか、そうなったら二度と出てこれないのではないか、という不安が、彼を木偶にしていたのだ。早く凡退し、この穴からできるだけ離れたい。それだけを考え、三振の宣告を待ち侘びた。

 それは続く七番の結城、八番の喜与川でさえも似たようなものだった。彼らは闘志を、根刮ぎもっていかれていた。塗李の攻撃回は、それですぐに終わってしまった。

 攻守が替わり、黒い穴がなくなる。塗李ナインが守備位置に散っていく。試合は七回の裏へと進む。


 ネクストバッタースボックスで片膝をつく兵頭に、田辺聡が歩み寄る。近づいていく自分が怒りを孕んだ形相となっていることに、彼は気づいていない。肩を掴み、振り返らせる。どうした? と兵頭が、怪訝な顔で彼を見上げた。田辺はなるべく自分を落ち着かせてから、兵頭の表情にどのような変化があるかを見逃さまいと、注意した。

「プ、プルトニウムって、どういうことだよ」

 それだけ言って、反応を待った。すると兵頭は、「なんだって?」と聞き返してきた。田辺は咳払いをしてから、もう一度言った。

「き、君は、君はCockbookで、プルトニウムを購入しているね? あれはいったい、ど、どういうことを意味しているんだい?」

 すると兵頭は、眉間に皺を寄せてから、「俺のiSchoolを見たのか」と、言った。

「君はそのタイガーホークに、プルトニウムを仕込んだ。だから先ほどの打席、君の打球は着弾目的地に大きく近づいた。違うか?」

 兵頭が黙っているので、彼は尚も続ける。

「非核三原則を知らないとは言わせないぞ。核の所有はこの国だけでなく、現在では国連も禁止している禁断の行為だ。それを君は、どこのテロリストから購入したのかは知らないが、個人で所有している!」

「プルトニウムは核燃料に成り得るかもしれないが、その物自体は核兵器ではないよな?」

「屁理屈だ!」

「つまりお前は、このタイガーホークにはプルトニウムが搭載されているから、これはバットなどではなく、核兵器だ、と言いたいわけだ」

「そ、そうだ! 君は自分がただの高校球児であるということを、そしてこの試合が純粋なスポーツ大会であるということを、忘れている!」

 すると兵頭はかっかと笑い、すぐに表情を最初に戻した。

「田辺。たかが試合に勝つために、発癌性が高く、暴発したら命を落とす危険まであるそんな物を、俺が使うと思うか?」

「そ、それは……」

「むしろ俺が訊きたい。俺がプルトニウムを購入するとすれば、どんなことに使うために、そしてそのことをどのようなタイミングで実行するのかをな」

 その時、スタンドが沸いた。先頭打者の山野が、セーフティーバントを成功させていた。兵頭鷹虎が立ち上がる。田辺には止めることができない。


 純粋なる関心にどす黒い疑惑の侵入。不気味なる亜空間投法の影響で、観客たちは熱気を失いかけていた。しかしこの宇宙には、不安や退屈を吹き飛ばすほどの、一点の明星というものがある。力強い足どりで打席に向かうのは、存在自体が掟破りの稲妻が産んだ革命児、大千世界を駆け抜ける時空を越えた神の化身、幻影にして鮮烈、明快であり芸術、暁のトゥインクルスター、兵頭鷹虎だった。観客たちはもう一度、その胸に夢を描いた。

(兵頭を、止めて……)

 と結城に願いを飛ばしたのは荒木昌美。しかしもちろん、スタンドからではそれ以上のことはできない。そんな彼女の祈りなどは知る由もなく、兵頭鷹虎は今度こそはと、着弾の成功を目論んでいる。

(この投手の投球は、コントロールニードルZをもってしても着弾に誤差を生じさせる。ならば、コントロールニードルZXを使用するまでだ!)

『コントロールニードルZX』は、通常のそれよりも十倍程度の過給圧をかけることのできる特殊針で、その使用は、タイガーホークを第三ステージまで押し上げるとも言われていた。しかしそれも、あくまで机上での話だ。使用者の肉体のその後を、些かも考量に入れない計算式においての、現場に出ない人間特有の戯言に過ぎなかった。しかし兵頭はこの打席、躊躇いもなくその針を装填している。彼の執念は、未だ閉じる気配を見せない。

(この試合に五打席目があると信じるほど、俺は楽観主義者ではない。どう足掻いてもこれが、最終テストとなるだろう……)

 それがまるで神聖な儀式だとでもいうように、タイガーホークを操作する兵頭鷹虎。着弾目的地は前回と同じ、表示板、『桜田翔平』の『翔』の字とした。

 HeadMobileに張り付いていた研究員を乱暴に(それは無意識だった)退かして、田辺聡はとり憑かれた様子で機械を操作し始めた。

「何をするんだ!」

 と研究員は憤慨したが、気にする素振りも見せずに彼は操作を続けた。見ると、今回の目的地設定も前回と同じだった。しかし、出力値が違う。前回の四二〇を更に大きく上回る、一〇〇〇近い出力値が設定されているではないか!

「頼むから退いてくれ!」そう叫ぶ研究員に、田辺は振り向いて尋ねた。

「タイガーホークの、コントロールニードルの秘密を教えてください」それは切実な声音だった。「あなたはさっき、僕から目を逸らした。何かを知っているはずだ」

 異変に気づき、またお前か、と木村が近づいてくる。しかし田辺は木村にも食ってかかり、「タイガーホークの真実を教えてください!」と叫んだ。「僕たちの知らない、何かがあるんでしょう!」

「君は何を言っているんだ? タイガーホークは皆が知っている通りの、おぼっちゃまにしか扱えない自動打撃装置だ」

「それじゃあ、一打席目と二打席目の違いはどう説明するんですか!」

 すると木村は少しだけ顔を顰め、

「うるさい奴だ」とため息を吐いた。「簡単に言おう。針は一種類ではない。硬度の高い金属を使用した針を使えば、更に多くの過給圧をかけられるというわけだ」

「動力源は?」

「通常の針と同じ、ニトログリセリンだ」

「それ以上の針があるはずだ!」

「しつこい! そんな物はない!」

 田辺はますます苛ついた。目の前の男が、現状の深刻さを全く把握していないように思われたからだった。

「あなたは、あなたは何年も兵頭君に付いていて、何も感じないのですか?」

「なんだと?」

「兵頭君は、」

 そこまで言って、田辺は口を噤んだ。たとえ相手が兵頭の直属の側近である木村と言えど、兵頭がプルトニウムを購入していたなどとは、迂闊に口にできることではなかった。

「それにしたって、出力値が一〇〇〇だなんて異常だ! 最大出力が一〇〇の通常針でさえ、病院送りにされた部員がいたではないですか! 兵頭君の身体の安全を、あなたは保証できるのか!」

「おぼっちゃまがやると仰るのなら、誰も止めることはできない。もしそれができるとしたら、それは兵頭財閥の総帥であられる、兵頭虎太郎様だけだろう」

 話にならない、と田辺は思った。自分で決断のできない永遠の二番手野郎め! 彼は心の中でそう毒突くと、地を蹴ってベンチに戻った。桜田と兵頭の三度目の対決が、今にも始まろうとしている。その延長線上を目で追うと、兵頭虎太郎の姿があった。世界の権力者をその眼に入れた時、彼は改めて、自分の無力さを痛感するのだった。


 敬遠を提案したかった。しかし皆は例の亜空間投法への脅えを引き摺っているのか、誰もマウンドに集まってこない。そして翔平自身も、思考が停止していたか。同じく考えを停止させたかのような堀のいつも通りのサインに、彼は気づいたら頷いていた。

 それを見た兵頭は、勝負を察知し、いよいよその腕に力を込めた。肉体がZXの衝撃に耐えられるかは、彼自身にもわからぬ未知への挑戦であったが、自身の目的を達成するためには、それは避けることのできない試練だった。ボールが、放たれた。彼は全身の筋肉をふっと緩め、インパクトに備えた。

 ソルジャーヘッドとタイガーホークが連動する。男が、動きだす。圧倒的な爆発がホームベース上を煙で包み込む。その中で、兵頭が、全身を貫く電撃のような試練を、跳ね返した! 煙の中から、針の刺さった白球が飛び出した。それはほとんど、弾丸だった。ボールは空間を切り裂きながら、彗星の如く極太の弾道を選んで突き進んでいく。そして僅かコンマ五秒の後、その彗星はバックスクリーンに激突した。破壊されたパネルが、いくつもの破片を撒き散らす。それらはきらきらと太陽光を反射し、真夏のダイヤモンドダストとなった。そしてその美しい現象が風に流されたあとだ。表示板が、その無惨な姿を現した。その破壊力を物語るのは、クレーターのような痕! 四番堀啓介、五番桜田翔平、六番島袋鉄平の名が消えている。その痕の中心が桜田翔平であることは、誰の目にも明らかなることだった。

 その異常なる光景に、観客は完全に歓声を忘れた。十一万人を収容した甲子園球場が、小鳥のさえずりさえも響くほどに静かになったのは、異様その物だった。その中心で、淡々とベースを踏んで回る兵頭は、前回とは違い、満足の表情をさえ浮かべている。その圧倒的な打撃の代償は、この時の彼には問題ではなかった。

(手首と膝の腱が少々やられたようだが、ZXの衝撃にもなんとか耐えることができた。そして設定通りの着弾、更にはあの破壊力。兵頭虎太郎、次の打席だ。最終回に訪れるであろうこの俺の第四打席で、貴様を、貴様を、木端微塵に……!)

 そのような彼を見て、

「なるほど、そういうことか……」と独り言ちたのは虎太郎だった。彼は鷹虎の態度、所作、表情などから、その動物的勘と豊富な人生経験で、全てを悟ってしまっていた。

(鷹虎の奴はこの俺に復讐心を抱いておったか。そして公衆の面前で、この俺を合法的に殺害しようと……)

 彼はそこまで思い至ると、残念そうな顔をしてから、億劫そうに一つ、ため息を吐いた。

「ようできた跡継ぎと思っておったのに、またしても馬鹿が出来上がりおったか」

 彼の悲しみはそれなりに深いものではあった。このくだらんスポーツ(彼はそう思っていた)にここまで付き合ったのは、彼が寵愛して憚らないその嫡子のためだった。その息子が、そのスポーツを利用して自分を殺そうとしていることがわかった。彼はたしかに、悲しかった。今度こそと信じていた息子が、成長の結果やはり失敗作となり、スクラップ置き場行きが決定したのだ。そのことが、甚だ悲哀に感じられた。もうこんな場所に用はない、と彼は思う。この場に居続けるのは、わしが最も忌み嫌う、時間の無駄、以外の何物でもないではないか。

 そして椅子から立ち上がろうとした時だった。かしゃんかしゃんという音が、老人の耳に聞こえた。最初彼はその音の正体がわからなかった。そしてしばらくしてようやく、彼は自分の手首や足首、腰などが拘束されたことに気づいた。

(なるほど……この椅子の仕掛けも、あの打球の破壊力でわしの身体もろとも粉砕し、証拠を残さずに万々歳というわけか……こざかしいことをしよる)

 こんなことで倒せると思われたことが、彼には余計悲しいことに感じられた。もう少し賢い子だと思っていたが、ただの頭のいい奴、であっただけのようだ。彼は嘲笑の笑みすら浮かべると、奥歯を舌で操作し、骨伝導電話で部下を呼び出そうとした。鷹虎の処分をどうしたものか、彼は既にそこまで考えていた。

 しかしなぜか、電話が繋がらない。何度試みても、繋がりそうな気配をみせない。そして横を見れば、袴田の姿も見えない。どういうことか。どういうことか。

「ふむ」

 と彼はなぜか、そう一度頷いた。前方に向き直った。それくらいしか許されていないことに、彼はここで、ようやく気づいた。


 ごおんごおんという工業的な音が聞こえる。ここだ、と合田は確信をもって、傍らの巨人を見た。宇賀神もそれと察したらしく、その顔つきを似合わない、緊張感のあるものに変えている。合田と宇賀神は、甲子園球場の地下六階にいた。甲子園球場に地下六階があることなど、この時になるまで知らなかった。

「この先に、亜空間をつくり出すとんでもない機械があるはず……」

 合田が言うと宇賀神は、命令を待つ犬のような目をして、「ど、どないしまっか?」と言った。合田もどうしたものかわからなかったが、とにかく目の前の扉を開けるしかないように思われる。彼はハンドルのような鋼の輪に手をかけ、「これを回してみよう」と言った。宇賀神がそれに手を貸す。ハンドルは、ぐぎぎ、ぐぎぎ、と嫌な音を立てながら、左に回転していった。

 何か、大きな金属の閂が外れたような音がした。二人は一瞬びくりとしたが、そのままハンドルを引き、扉を開けてみた。するとそこは、ただの暗闇だった。しかし、それが誤認であったことに二人はすぐに気づく。それは決して、ただの暗闇などではなかった。もっと深刻な、本当の暗闇であったのだ。二人は、直径三メートルはあるであろう、巨大な亜空間への入口を見ていた。


 兵頭鷹虎の二打席連続の二点本塁打により、スコアは五対四となって播磨灘高校がリードを縮めている。田辺聡はいつものように労いの言葉をかけようと、ホームに帰還した兵頭に歩み寄っていった。そして、「御苦労様」と言いかけた時だった。彼は思わず、その言葉を飲み込んだ。わだかまりがあったこともあるが、それ以上に、兵頭の様子がおかしかったからだ。

「どこか、怪我をしたんだね?」

 田辺はそう尋ねた。彼の歩行の仕方は、明らかにおかしくなっていた。

「いいや大丈夫だ。それより答えは出たか? 俺がプルトニウムを使用するとしたら、はたしてどの場面かと」

 それは純粋な質問のようにも聞こえた。しかし田辺は、それどころではないと判断し、医者を呼ぼう、と言った。すると兵頭、その美しい一重瞼をナイフのように尖らせて、

「おい田辺。もしお前の呼んだ医者が俺を出場続行不可と診断したら、俺はそれから、人生の目的をどこに定めればいい」

 田辺の知らない兵頭が、その面に表れる。「俺はお前を、一生恨むぜ?」

 兵頭が、ひょこひょことらしくない足どりでベンチに戻る。振り返れば五番の野木が、バッターボックスに入るところだった。


 ズズズズ、という音が、自分の革靴の底が擦れている音だと気づくまで、しばらく時間がかかった。そしてそれが、自分が亜空間へ引っ張られていることが原因だとわかると、合田は戦慄を覚えた。亜空間は、物質という物質を飲み込もうとしている! 彼はその身を振るわせると、そのおぞましい暗闇に背を向け、なんとか踏ん張る体勢を整えた。宇賀神も同じ姿勢で、反対側に踏ん張っている。

「ま、まずいズラ……」

 身体が大きい分、引っ張られる力も強いのかもしれない。「頑張れ! なんとか扉まで戻るんだ!」と合田は叫び、例の扉のハンドルを掴もうとそれを目指した。その時だった。扉の外、廊下の部分に、男が立っているのが見えた。男は眉間に皺を寄せ、二人を見定めるように交互に目をやっている。

「た、助けてくれ!」

 合田は言った。手を伸ばしてくれると、その時は疑わなかった。しかし男は、「でかい方は塗李の部員だな? で、お前は誰だ?」とあくまでも平静を崩さずに言う。

「それどころじゃない、身体が引っ張られているんだ! 手を伸ばして……」

「その制服……ほう、青田学院の生徒か。セイダーメトリクスはゴキブリのような偵察部隊で成り立っていると聞いたが、こんな所にも顔を出すとは、まさにゴキブリだな」

 必死に地を掴もうとする中、この男どこかで見たことがある、と合田は思った。

(そうだ、こいつはたしか、播磨灘高校のスポークスマンとしてよくメディアに……名はなんと言ったか……)

 少しずつ、扉側に進むことができている。しかし宇賀神は、さっきよりも後退しているように見えた。

「宇賀神!」合田は叫んだ。しかし宇賀神は集中しているのか、何も応えない。

「この部屋にくる前に、ジュラルミン製のアタッシェケースを見たな?」男が言った。

「ジュラルミン?」なんのことかわからない、といった顔で合田。

「嘘をつくな。アトミックニードルの入った箱だ。高偏差値で有名な青田学院の生徒が、ケースに書かれた『原子番号94』の表示に、ぴんとこないはずがないだろう」

「そんな物は見ていない!」

 合田の言葉を信じたかどうか、男はしばらく考える顔をする。しかしややもすると、

「ま、消しておくか」

 と、言った。意味がわからなかった。消す? 消しておくとはどういうことか。

 その時、彼の顔面を男の踵が突いた。えっ? と合田の頭に、クエスチョンマークが灯る。鼻が潰れたことよりも、自分の身体がふわりと後ろに流れたことの方が戸惑った。青黒い天井が見える。「合田はん!」という宇賀神の声が聞こえる。えっ? えっ? えっ?

 それは一人の少年が最期を締め括るには、あまりにも無垢な意思だった。何もわからぬままに、深淵の闇に飲み込まれていった。


 試合は八回の表に進んでいた。打席には九番の木戸。彼も皆と同様、亜空間に必要以上に脅え、及び腰になってバッターボックスの外よりに構えていた。投手の西川がボールを投げる。ボールは一つ目の黒い穴に入り、二つ目の出口から出てくる。光速を越える二点間移動到達時間。ボールはストライクゾーンを通過して、例によってストライクの宣告を受けた。

 その時、ボールと一緒にiSchoolのような物が出てきた。なんだろうと捕手の田之上がそれを拾い上げる。木戸も気になって目を向けると、その裏に、青田学院の校章があるのが見えた。木戸は聞いたことがある。青田学院野球部の偵察部隊はiSchoolを改造したiSpyという端末を肌身離さず持ち歩くことを義務付けられている、と。しかしそのiSpyが、なぜ黒い穴から? それは播磨灘の捕手にしても同じことのようだった。田之上が審判に渡す。審判は怪訝な顔でしばらくそれを見つめていたが、ボールボーイを呼んで、預けた。

 その後、木戸はあたりまえのように三振し、打順は一番の猿渡にまわった。


 観客が一人、また一人とスタジアムをあとにしている。試合の裏に隠れる不気味な何かに、無意識のうちに追い立てられているとしか言いようのない、それは説明のつかない退場だった。その中で、皆と同じように嫌な予感に嘖まれながらも、絶対に最後まで見てやる、と心に誓っている少女が一人。翔平の恋人、大宮可奈子だった。

(翔平さんが頑張っているんですもの、私がこんなところで見捨ててどうするの!)

 そう自分に言い聞かせながらも、震える脚を、どうすることもできずにいた。

 すると彼女のpinkSpyが、何かを受信した。ふと気づいて画面を見ると、それは太田花恵からの通話着信だった。大宮はすぐに出た。

「隊長……」

 その声は小さく、少しだけ響いている。どうしたの? と彼女は訊いた。すると太田は、脅えた様子で事情を話しだした。

「三十分くらい前、あたし、トイレにいきたくなってスタンドを離れたんです。そしたら、あたしの担当の宇賀神君が、地下に降りていくのをたまたま見かけて」

 それでどうしたの? と大宮はやさしい声音で先を促す。太田は震えているようだった。

「ベンチにいるはずの彼がそんな所にいるのが気になって……あたし、声をかけようと思って追いかけたんです。そうしたら彼、どんどん地下に降りていって、青田学院の制服を着た人と合流したりして」

 声が小さくて聞きとり難い。大宮は静かな場所に移動しつつ話を聞く。

「途中、見失ったんですけど、部屋から出てくるのが見えて。それであたし、どうしようかと思ったんですけど、やっぱり声をかけようと思って……だけど彼らがどんどん地下に潜っていくものだから、なかなか追いつかなくって。そしたら、迷子になっちゃって……」

 大宮はやさしいため息を吐いた。太田は少し、抜けているところがある。しかしそれも、彼女をチャーミングに魅せている要素の一つで、長所だとも思っていた。

「要するに、甲子園の地下で迷子になっちゃったから、迎えにきてってことかしら」

「違うんです。それもあるにはあるんですけど、違うんです。途中で、変なの見つけちゃって……」

「変なのって?」

「銀色の小さな箱です。鞄みたいなやつ。問題はそれについているマークで……たぶんこれ、プルトニウムのマークだと思うんです。映画とかで、ありますよね?」

「な、何を言ってるの? プルトニウムですって?」

「降りてきた階段の場所もわからなくなっちゃったし、目の前には変なのがあるし……隊長どうしよう、pinkSpyも通話はできるけど、なんでかGPSが馬鹿になっちゃってるんですよう」

「何階まで降りたかはわかる?」

「それはたぶん、六階だと思います。ちゃんと数えていたから」

「わかった、じゃあ今すぐいくから、pinkSpyの電源は入れておくのよ」

 と言ったところで、突然に通話が切れた。そのことを彼女は、特に不審とは思わなかった。不穏な空気を見せる試合と太田の物騒な話に対し、ため息を堪える方に彼女の気はいっていた。

 そのまま地下通路へと続く階段を探した。そしてなんとかその入口を探し当て、迷路のような地下の廊下に彼女がその白い足を踏み入れた時だった。地上では二番の高原が、この試合四度目の打席を迎えていた。その第一球だった。なんとまたしても、亜空間の出口からiSchoolのような端末が出てきたのだ。それは桃色だった。高原が目を丸くして仰天している。彼のステディーがいつも所持している、pinkSpyと同じ物であったからだった。捕手の田之上も首を傾げ、審判も不審に思った。しかし大宮はそのことを知らない。下に降りる階段を求めて、甲子園の地下を彷徨い始めていた。


 試合は八回の裏となり、八番の田之上が打席に入っている。その中で、ベンチに腰を据える監督に話しかけるは、万年補欠の田辺聡だった。

「亜空間投法はまだ不確実なもののはずだのに、なぜにあれを使い続けるのですか! ピッチングの種類はまだ他にもあるでしょう、催眠術投法とか、膝かっくん投法とか!」

 田辺にそう詰め寄られた監督の米田は、その右手でうるさそうに追い払う仕草をした。

「あれの使用は、この試合の前に科学研究クラブからGOサインが出ている。それに、どうせあと一回だ。問題はない」

「しかし、危険ではないですか!」

「危険などはない。たしかに、亜空間発生装置は膨大な電力を消費するそうだが、それも何度もテストが行われ、トリプルAの安全が確認されている」

「しかしあの穴に人間が吸い込まれたら」

「直径三十センチ程度のあの穴に、人間が入りようがないやろ」

 埒が明かない、と思い、田辺は今度はベンチ裏に向かおうとした。しかし、

「おい、なんでお前が監督に楯突いてるん。お前はただの補欠やろが」

 と島本に呼び止められた。「何か勘違いしてるんちゃうか?」

 周囲を見渡せば、他のナインも彼に冷たい視線を向けていた。しかし今の彼にはもう、そんなことは気にならなかった。

「君たちの邪魔をするつもりはない、僕だって優勝を願ってるんだ!」

 田辺の鬼気迫る表情に、播磨灘ナインは気圧された。田辺は、皆の視線を振り解くようにして、ベンチ裏に向かった。

 兵頭が、タイガーホークに新しいコントロールニードルを装填しようと、その蓋を開けているところだった。「木村、新しい針を頼む」と言った彼に、「次の打席もZXでよろしかったでしょうか……」と神妙な顔つきで木村が尋ねる。すると兵頭が、「構わん」と躊躇いもせずに言ったので、田辺はその表情を強張らせた。あからさまなため息を一つ吐いて、未開封を証明する研究クラブのシールが貼られた、鮮やかな朱色の箱を用意する木村。上部には黒色で、『ZX』というロゴが描かれている。前の打席で兵頭が使った、第三のコントロールニードルに違いなかった。

「もう既に、君の身体はぼろぼろじゃないか……」

 呟くように、言った。兵頭はそこでようやく、田辺に気づいたようだった。「なぜに君はそこまでして、正確な着弾を望むんだ? ホームランを打つだけならば、二打席目に使った針を使えばいいじゃないか……」

 すると兵頭は、その白金のバットを軽く一度撫でてから、顔を上げた。

「怖くなったんなら、おうちに帰ってもいいんだぜ?」

「話を逸らすな! 君は! 君は!」

 涙が零れそうになったのは、田辺にも理由がわからなかった。するとなぜか兵頭も、その頬を不自然に歪めた。それは悲しみにも似た微笑、何かを覚悟しているかのような、らしくない不明瞭な表情だった。

「決着をつけなくちゃならんことがある。人間だったらそういったことの一つや二つ、抱えて生きているもんだろ?」

 それを言った彼の迫力は、およそ人間のそれではなかった。人間を超越した人間、そのような剛毅が、その眼からは迸っていたのだ。

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