第48話
神奈川県立塗李高等学校一年 野球部補欠 宇賀神栄太郎
「それではここで、ごきげんよう」
バグスカウトからの受信状況をiSpyで確認しながら、合田高次はスタンドの歓声を甲子園の地下通路で聞いた。播磨灘の攻撃で何かあったか? と思い、彼はiSpyを操作してスポーツ速報を呼び出してみる。すると兵頭が、桜田からツーランホームランを放っていたことがわかった。動画を見ると、小さな2Dの画面でも、それが恐るべき打球であることがわかる。あの投球を攻略するとは……と彼は兵頭の天才性に改めて戦くが、彼は、自分が今やるべき仕事に集中することを選んだ。
グラウンドに尋常でない気流が発生していることは、観客席から見ても、元偵察部隊の合田にすれば明らかなることだった。そしてそれが人為的なものであることにも、すぐに気づいた。これほどの浜風が、選手が運動する低空にまで巻くことなど、球場の形状からもあり得ることではない。ならばなぜ、そのような現象が起きているのか。それは彼にとっても、俄には信じ難い驚くべき疑惑ではあったが、やはり答えは一つしかないように思われた。播磨灘は甲子園球場を改造している! そして塗李はそのことに逸早く気づいていたようだが、その強引な投球には手も足も出ない、というのが現状のようだ。それならば、と思ってからは早かった。甲子園球場を司る秘密の場所を暴いて、その機能を停止させるのだ。地下に下りてから、十五分あまり。バグスカウトから送られてくる情報を、慎重に取捨していった。
どん、とぶつかって、彼は舌打ちをしつつ顔を上げた。iSpyを見ながらの歩行だったため、前方不注意で壁にぶつかったと思ったのだ。しかし、彼がぶつかったのは壁ではなかった。たしかにそれは壁のように厚く、そして広大ではあったが、少し温かく、動きもした。それは『人』だったのだ。そのことを認識するまで、しばしの時間がかかった。そしてその『人』が、宇賀神であることに気づくまでは、更に数秒の時間を要した。
「宇賀神? なんでお前がここに」
そこまで言って彼は、宇賀神の方は自分を知らないということを思いだし、「塗李の宇賀神君だよね?」と言い直した。すると宇賀神は、「はい。私は塗李高校野球部補欠、宇賀神栄太郎であります」と、言った。
こんな口調だっただろうか、と訝しい思いだったが、そのことよりも何よりも、彼が試合中にこんな所にいることの方が不審だった。
「僕は青田学院の合田という者だが、宇賀神君、君はここで、何をしているんだい?」
と質問をぶつけてみる。「試合中じゃないか」
すると宇賀神は、合田になんの警戒心も示さず、
「青田学院さんの方でしたか、その節は大変お世話になりました。私は今、播磨灘高校を倒すために、独断で暗躍しているんです」
と、言った。
「暗躍?」
「そうです。私は先輩たちのおかげで、素晴らしい青春に巡り合うことができました。その先輩たちが、今、困っています。命を懸けて、助けなくてはいけない」
大袈裟だな、と合田は思ったが、彼の目的の方が気になった。
「何をするつもりなんだい?」
「播磨灘の、秘密を探っています」
「球場改造のことか?」
「ご存知でしたか。さすが高名な青田学院の方だ」
合田は、これは都合がいい、と思った。秘密の場所を見つけても、一人では心許ない。
「それなら僕も手伝うよ。少しは役に立てると思う」
すると宇賀神は、お気持ちは嬉しいのですが、と言って、この親切を断った。
「これは塗李と播磨灘の戦いです。他の人に手伝ってもらっては、ズルになってしまう」
何を今更、と笑いたくもなる。どちらも不正を駆使して、ここまできたのではないか。しかし宇賀神は大真面目で、合田の脇を通って先を急ごうとする。「それではここで、ごきげんよう」などと言って、爽やかな笑みを浮かべる始末だった。
どうしようかと逡巡したが、その時、一匹のバグスカウトが音声を上げた。それは合田が求めていた、いかにも有益そうな人声だった。
『どうやらこれで勝てそうやな。うちはもう二点とったし、このまま気流をつくっておけば、塗李も打てんやろ』
映像を見ると、何か巨大な装置の前で、男が二人、パイプ椅子を並べて座っているのが見えた。その映像を送っている、バグスカウトの位置情報を取得する。そこはどうやら、グラウンドに気流を巻き起こしている巨大な空調の制御室で、今いる所よりも更に、地下にあるようだった。
彼はそのことを、どうやって宇賀神に教えようかと考えた。するとiSpyの画面を、一つの壁が覗き込んでいるのに気づいた。その壁が宇賀神であることに気づくまで、合田は数秒の時間を要した。
「風が、止んだ?」
そのことに気づいたのは、打席に立つ堀だけではなかった。守備につく播磨灘の選手たちはもちろん、ベンチにいる塗李のナインもすぐに気づいた。しかし播磨灘陣営は、その事実をなかなか信じることができない。精緻なシステムを構築する科学研究クラブと、完璧な施工をする播磨灘建設の仕事ぶりを、幾度となくその眼で見てきたからだった。巨大空調が故障するわけがない、風が止んだのは気のせいで、ストリームピッチはこの回でも通用するはずだ。
しかし、投球はただの、投球となった。堀に正確に見極められ、ライト前へ運ばれると、続く五番の翔平にもヒットが出て、ノーアウト、一、二塁となった。バッテリーは、ベンチを見た。ストリームが起こせないのなら、もはやここは高校野球の聖地などではなく、ただの甲子園バッティングセンターではないか!
指示を仰がれた監督の米田は、慌てた。まさか気流投法までをも封じられるとは考えておらず、次なる作戦の準備を怠っていたためだった。そして、度重なる塗李の攻略の早さに、その小心を大きく揺さぶられると、こうなればもうあれを使うしかないのではないか、と彼は、五回にして最後の手段を投じることまで考えた。それは王者らしからぬ、スコアとは裏腹の、追い詰められた手負いの思考だった。
しかしその最後の手段は準備が間に合わず、この隙を突けとばかりの塗李の猛攻が始まった。六番の島袋は凡退したが、結城にヒットが出て一点を返した。そして喜与川、木戸と下位打線が繋がり、更には一番の猿渡にスリーベースヒットが出たことによって、塗李高校はこの回、一挙五点を奪うという逆転に成功した。これは播磨灘が、過去二年半の間に行われた公式試合において、初めて対戦相手にリードを許した瞬間であって、そのことを知る観客たちは大いに盛り上がり、球場を異様な雰囲気で包み込んだ。しかし二番の高原の放ったサードライナーが、兵頭のエンペラーキャッチによってまたしてもダブルプレーとされると、塗李の反撃はそこで終わってしまった。しかし五対二というスコアは、人々に塗李高校の優勝を現実のものとして考えさせるに、充分な数字であった。それは、本塁打を被弾したばかりの翔平にさえ、ささやかな笑みを浮かべさせたのだ。
逆転の責任を問われることに脅えた監督の米田は、言い訳をしようと兵頭に近づいていった。すると兵頭がなぜか、満足そうな表情をしていたので、米田は少し、驚いた。
「これで九回の裏がありそうだな。しかし米田監督。これ以上の失点はいらないぜ?」
兵頭はそう言った。どうやら、九回の表で試合が終わってしまうのを、彼は望んでいなかったようだった。米田は表情を引き締め、もう点は取られません、と、言った。
「科学研究クラブに、例の投球の準備をお願いしておきました。だからもう、失点はあり得ません」
すると兵頭は目を細め、感心した様子でこう呟いた。
「ほう。あの技術はもう、完成していたのか……」
五回の裏も播磨灘のバント攻勢は続いたが、この回は無事に、三者凡退に終えることができた。塗李ナインの士気は、逆転に成功したことと、バント処理に慣れてきたこととで再び上昇を始める。それを挫くべく、播磨灘はマウンドに西川という三人目の投手を上げたが、この投手もまた、実際には大した投手ではなかった。しかし彼の投げる球は、全ての目撃者を驚愕させる、戦慄とも呼べる破壊力をもっていた。
亜空間投法。
高校野球史上、最凶の投球である。




