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第47話

  私立播磨灘高等学校三年 野球部主将 兵頭鷹虎


  「決着をつけてやる」

 画面に映し出された解析結果を指差しながら、研究員が木村に説明をしている。木村はそれを受けて、顎を摩りながら大袈裟にため息を吐き、難しそうに頷いた。

「アロエや、ワカメなどの海藻エキス、そしてグリセリン……」

 最終的な結論を下すのに躊躇しているかのような声音だった。研究員が言葉を継ぐ。

「保湿目的を度外視した、潤滑に特化した化粧水……といったところでしょうか」

「要するに、ラブローションってことか?」

「はい。五感テレビで再現されないようにするためか、絶妙の配分で巧妙にごまかしてはいますが、検出された成分の三五%以上が、市販されている主なラブローションと一致しています。更には、この配分ですと、通常よりもぬるぬるがひどいはず」

「ぬるぬる度を増幅させている……いったい、塗李の目的はなんだ?」

 研究員は答えられない。そのような検証は、机の上でもしたことがなかった。

「とにかく、おぼっちゃまに早く知ら」

 言いかけた時、研究員は木村の背後に御曹司を見た。その視線で木村も気づき、彼は振り返って早速報告を始めた。

「おぼっちゃま、解析の結果ですが……」

「その必要はない。聴いていた。それよりも、ボールがぬるぬるになることによって、バットとの衝突時、いったい何が起こるかを早く検証するんだ」

 そうは言ったものの、兵頭には既に、だいたいの見当がついていた。

(なるほど……バットとボールの間に液体を一枚噛ますことによって、水面を高速で奔るモーターボートのような、危うい状態を強制的につくっていたというわけか。あの現象はなんと言ったか……十数年前に兵頭タイヤが排水に優れた新タイヤを開発して以来、ほとんど死語になったものだと思っていたが……とにかく、バットやボールに排水能力などは皆無。そこには必ず通常でない摩擦が発生する。コントロールニードルさえをも滑らせるその薬品を相手に、どうすればいい? 俺に、そしてタイガーホークにできることはなんだ……)

 兵頭がそう思案している間に、七番の下田、八番の田之上が凡退した。ローションベースボールは変わることなく、無敵の進撃を続けている。


 凡退した田之上は、補欠の田辺にヘルメットを預けた際、彼から、御苦労様、と労いの言葉をかけられた。しかし彼はそれを黙殺し、アナライジングバットを持ったままベンチ裏に向かった。田之上としては、自分が採取したデータによる報酬の方が重要だったし、田辺と話をするのは元々が好きでなかった。というよりも、田辺聡のような実力に乏しい選手がベンチ入りしていること自体、彼の気に入るところではなかったのだ。

 それは田之上に限らず、播磨灘野球部に所属するほとんどの選手に共通する思いだった。部員が三百名もいて、毎年、世界ドラフトから五名前後の指名選手を出すような播磨灘野球部の中で、僅か十八名にしか許されないベンチ入りという栄光を、誰よりも実力に劣る田辺のような選手が獲得したというのだからそれも仕方がなかったかもしれない。そしてその理由が、『キャプテンの兵頭のお気に入り』なだけだということが、彼らの不満に拍車をかけていた。彼らは田辺がベンチにいることが、いや、田辺の存在自体が、面白くなかった。

 しかし兵頭にすれば、田辺だけがチーム内での心の拠り所だった。兵頭は元々、野球の技術だけでなく、統率力においても突出した存在感を備えていたのだが、木村が、他の選手の心を掌握するためにと裏で報酬制度(練習時にも)を始めたのが、チーム内での彼の立ち位置をぐらつかせてしまった。木村にしてみれば善かれと思っての判断だったのであろうが、この点、木村は御曹司の実力を侮っていたことになる。これをきっかけに、兵頭鷹虎のカリスマは意味をなくした。選手は、小遣い稼ぎのために野球をするようになった。

 気づくのが、遅かった。兵頭が知った頃には、報酬なくして他の選手のモチベーションは保てなくなっていた。その時、完全なる孤立を感じ、失意の中に落とされた彼を元気づけたのは、報酬の受取りを断っていた選手の存在だった。それが、田辺聡だった。

 田辺聡は、木村の考えが間違っていることを木村本人に指摘した、唯一の部員だった。

「そんなことをしなくても、兵頭君はみんなから慕われています。兵頭君がいれば、チームは一丸になれるんです。そういったことをしますと、逆にチームワークを崩壊させる原因にもなりかねない」

 しかしその意見は一蹴され、更には木村は、このことを御曹司には決して言わないようにと、口止め料を渡そうとした。田辺はそれさえをも拒否し、

「僕は、スポーツマンなんです」

 と、言い放った。田辺に他意はなかった。補欠なりの矜恃を、ただ示しただけだった。しかしこのやりとりは、偶然にも兵頭に目撃されており、そしてその出来事は、兵頭に信頼を置かれ、重用される要因となる。田辺が兵頭の贔屓でベンチ入りしたというのは、紛うことなき事実だったのだ。

 田辺にしてみれば、その贔屓にも否定的な立場をとりたかった。しかし、兵頭が時既に遅しと判断し、木村の報酬制度に見て見ぬ振りを決め込んだこと、そして兵頭がキャプテンとして、既にチーム内で浮いてしまっていることまでをも理解していた彼は、兵頭鷹虎が活躍するために、ひいてはそれを最も必要としている播磨灘野球部のために、その贔屓を受け入れた。このことで最も苦しんでいたのは田辺だったかもしれない。そして兵頭はといえば、この一連の犠牲者が、そして救世主が田辺であるということを、きちんと理解しているただ一人の男だった。二人は、そのような関係だったのである。

 九番の植村に代打が出されたが、それも凡退した。攻守は交替となり、代わって村西(むらにし)という投手がマウンドに上がった。


 村西と田之上のバッテリーは、ストリーム投球を選択した。球場に人工的な気流を巻き起こし、不自然な軌道をボールに描かせるのだ。これには塗李ナインも手を焼いた。あからさまな球場の加担ではあったが、その分、攻略法が思いあたらない。四回の表も、塗李高校は三人で攻撃を終えることとなった。

 そして迎える四回の裏。播磨灘の監督の米田は、攻撃に移る前にナインに円陣を組ませると、その中央で薬品の解析結果を発表した。そして、それによって起こると思われる科学現象の簡単な説明を終えると、その先を兵頭に促した。皆が兵頭に顔を向ける。彼はゆっくりと自分の考えを述べ始めた。

「自動車での走行時におけるハイドロプレーニング現象の原因で、最も多いものはスピードの出し過ぎ、これに尽きる。それは、野球においても同じことが言えるだろう。バットとボールの間から液体が脱け出そうとする暇を与えないほどのスイングスピードが、その現象を発生させてしまっていたんだ。しかしあの球速、思い切り叩いて遠くに飛ばしたくなるのが人情ってもんだろう。それで今までの塗李の敵たちはやられてきた。ローションピッチ、良くできている」

 皆が黙って聴いている。兵頭は珍しく、興奮したように続ける。「その対策はただ一つ。スイングスピードをゼロにすることだ。そう、愚直にバントをし続け、相手のミスを待つしかない。そして俺の前にランナーが出れば、あとは俺がタイガーホークで……」

 兵頭はそこで切って、上体を起こして顔を上げた。そして、マウンドを均している桜田翔平を睨めつけると、静かに、それでいて勇ましい口調で、こう締め括った。

「決着をつけてやる」

 円陣が解かれた。一番打者が打席に向かった。兵頭はタイガーホークに、新しいコントロールニードルを装填し、漆黒のグリップを握って出番を待つ。


 播磨灘のバント作戦が始まると、俄に塗李は浮き足立った。これまで、翔平の一見軟弱に見える投球に対し、バントをしてきた打者など一人としていなかったからだ。最初は一塁線だった。ファーストの北田が出遅れたため、ダッシュした堀がなんとか捌いた。しかし、二番の本山のバントは絶妙だった。またしても一塁線に転がった打球を、今度は北田が処理にまわったが、ローションの拭き取りに手間取って、遂に出塁を許してしまった。

 爆裂打線と恐れられた播磨灘の、突然のバント攻勢に、そして更にはそれが、この試合初の播磨灘の出塁に繋がったことに、観客たちは歓声をあげたものかどうか戸惑った。その中で、不安そうな顔つきをした宮沢は、珍しい反応を示した観客のうちの一人だった。

(感づかれたか)

 塗李の秘密を知った状態で、もし今一度挑戦のチャンスを与えられたならば、自分も今の播磨灘と同様、バント攻勢でチャンスを待つだろう。そして播磨灘には、兵頭がいる。どうにかして彼の前にランナーを置いて、あとは天才の一撃でなんとか得点をと……。

 一人出塁したことにより、重殺がなければこの回のうちに兵頭の二度目の打席が巡ってくるということに気づいた観客たちが、ざわざわとどよめきをつくり始めた。そして、三番打者の送りバントが失敗に終わると、遂に、その時が訪れた。四回の裏、二死一塁。迷える子羊の解放者、バット一本で歴史を刻む剛の者、ダーウィンさえも予見できなかった進化論の最終証明、一千万$スター、兵頭鷹虎の登場である。

(どうするつもりだろう……)

 と見えない不安に嘖まれた少年が播磨灘ベンチに一人。田辺聡は兵頭の選択が見えずに、微弱に震える電流のような恐怖にその身を震わせていた。それは予感としか言いようがなかったが、それなりの根拠もないではなかった。タイガーホークは前の打席で敗北しているし、通常の使い方では同じ結果を呼び込むだけのはずだ。しかし、兵頭は何か策があるような様子だった。いったい、何をするつもりだ?

 田辺は、兵頭の様子をじっくりと観察した。兵頭はタイガーホークのグリップを、クラリネット奏者のような手つきでぺたぺたと叩いている。いつもと違う? 兵頭はソルジャーヘッドに、いつもと違う接触を試みている?

 田辺に、警鐘が鳴り始めた。兵頭のその所作は、暗黒の領域に踏み込む前の特別な儀式のようにも見え、彼の不安を必要以上に煽る、本能に訴える何かがあった。今、自分にできることはなんだろう。彼はそう思うと、気づけば踵を返し、ベンチ裏へと急いでいた。そして、HeadMobile前に張り付いている研究員に、ソルジャーヘッドの受信状況の開示を要求した。

「おぼっちゃまの許可がないと、お見せできません」

 田辺が御曹司のお気に入りであることを承知している研究員は、丁寧な言葉を遣ったが、その申し出は拒否した。「ソルジャーヘッドは、兵頭コーポレーションの所有する衛星ですから、その内部情報は、基本的には社外の人間にはお見せできないのです」

 自分がベンチ裏に入ることの許されない野球部外の人間であることは棚に上げ、研究員はそう言った。そのことを咎めるつもりなどはなかったし、断られることも想定していた彼は、兵頭君に頼まれているんです、と嘘をついた。

「兵頭君は、先ほどの打席の失敗から、ソルジャーヘッドの誤作動を心配していました。そしてそれをリアルタイムで確認していて欲しい、と僕に頼んだんです」

 研究員は逡巡したが、結局、自分の監視付きという条件で、それを許した。うるさい木村が不在でよかった、と田辺は思った。

 HeadMobileの画面に、タイガーホークからの命令系統のログが表示された。そこには本日の日付と、着弾目的地が二つ。前の打席のものと、今回のものとだ。一つは、マウンド上の投手の胸部辺りに、そしてもう一つは、バックスクリーン上部の表示板、『桜田翔平』の『翔』の字に設定されている。

(これは兵頭君がいつもやる、相手投手への最後通牒だ。圧倒的な実力差を見せつけることによって、対戦投手の士気を挫き、屈服させる。だけどそれは、最初の打席の失敗で、できないことがわかっているはずじゃないか!)

 追って情報を見ると、兵頭がマニュアル操作で詳細設定をしていることがわかった。

「出力値が、よ、四二〇だって? コントロールニードルの最大出力は、一〇〇が限界だったはず……い、いったい、どういうこと……?」

 顔を上げると、研究員が目を逸らしたように見えた。首を捻って、3Dモニターを見る。空間に具現された兵頭が、エンペラー打法の構えを見せていた。


(塗李の使用する薬品は、通常のコントロールニードルを撥ねつける。それならば、通常でないコントロールニードルを使用するまでだ!)

 コントロールニードルは使用する度に搭載し直さなければならないが、兵頭がこの打席の前に搭載していた物は、『コントロールニードルZ』と呼ばれる、通常のそれよりも四倍強の過給圧をかけることのできる特殊針だった。それは、桜田のような『通常でない投手』の出現を想定した上で用意された第二の針で、その使用は、タイガーホークの次なるステージを約束するものでもあった。しかしこのセカンドニードル、それだけの負荷をかけるだけあって、使用者への負担は計り知れないものがある。いくら強靭な肉体をもつ兵頭鷹虎と言えど、使用後の無事など、約束されるものではないのだ。

(できればこの打席で、テストを終えたいものだ……)

 兵頭は、エンペラー打法を構えた。鬼気迫る彼の瞳孔に、桜田翔平が反射していた。


 兵頭が放つ異様なオーラは、塗李ナインに、バントはない、と判断させるに、充分な迫力を伴っていた。堀からの指示で、皆が通常の守備位置に戻る。動かないのは、マウンドの翔平だけ。退くことが許されない、ピッチャーの宿命である。

 翔平は、無自覚に、戦いていた。最初の対決よりも、絶対的な何かが違っている。しかしその正体がわからない。それでも彼を、僅かな自信が後押しする。俺は一度、勝利している。あの兵頭鷹虎を、キャッチャーフライに打ちとっているのだ。それは彼の選択肢から、敬遠という概念を奪う根拠となった。何を怖れることがあろう、化粧水野球は無敵だ! どこまでもどこまでも突き進み、暴走の悦楽に溺れようかッ!

 桜田翔平が振りかぶった。そしてその手から、ローション塗れのボールが放たれた。人工衛星ソルジャーヘッドが、その投球を、タイガーホークの射程圏内を通過するものだと判定する。兵頭が動きだした。バットが、鋭角に切り出されていく。特殊針が、噴射される。その瞬間、兵頭の全身の筋肉が、軋む。エンペラースパイクが、大地を掴む。兵頭のアキレス腱が、悲鳴をあげる。しかし男は、ぎりぎりで耐えて、その悲鳴を咆哮に、変えた。そして、刺さる。ボールはうねるように発射され、センター方向にすっ飛んでいった。

 あっ。

 と声を発する暇もなく、打球は信州の山間を疾走するリニアモーターラインのように、それは不自然な真横への軌道を描き、バックスクリーンに激突した。十一万人の歴史の目撃者たちは、最初は、吐息のような声を洩らした。そして、今、目の前で起こったことが現実のことだとわかると、俄に正気に戻り、そして狂気の歓声を発した。大会ナンバーワン投手、桜田翔平の、最初の敗北の瞬間である。

 大歓声に包まれながら、ダイヤモンドを回る兵頭。彼は、複雑な表情を浮かべていた。自分の肉体がコントロールニードルZの衝撃に耐えることができたという安堵と、それによって得られた新たなる自信を、着弾が目的地から大きくずれてしまったことの不満が、相殺していたのだ。ボールは五メートルほど右にずれて、播磨灘高校の校名を表示する、すぐ横のパネルを破壊していた。

 何かの破片が、兵頭虎太郎に降りかかった。きらびやかな椅子に背中を預けたまま、鼻を鳴らし、男は独り言ちる。「目的はわからんが、鷹虎の奴、何かをしくじりおったな?」

 同時刻、突きつけられた結果に顔を青ざめさせるは、ベンチ裏に控えるチーフ研究員。

(ニードルZでさえも、確実に目的地に運べないのか……)

 その横で、別の意味で驚く少年は田辺聡。

(さっきよりも目的地に、大きく近づいている!)

 彼はその理由が知りたくなった。兵頭君は、何をしたんだ? この短時間で彼はいったい、どのような工夫を施したというのだ。

「ここで何をやっているんだ!」

 振り返ると、木村がいた。田辺は即座に言い訳をしようとしたが、

「ソルジャーヘッドへのアクセスは社外の人間には許されていない。すぐにHeadMobileから離れるんだ!」

 と物凄い剣幕で言われ、乱暴に退かされた。田辺はどうすることもできず、研究員を怒鳴りつける木村をただただ見ていた。その様子は慌てているようにも見え、やはり何かある、と彼に思わせた。

 ベンチに戻ると、兵頭が戻ってきていた。田辺は彼からヘルメットを受け取ったが、彼はどこか、心ここにあらず、といった様子で、いつもの彼らしい笑顔を見せなかった。脂汗のようなねっとりとした膜が、その涼やかな顔を覆っている。そのことがますます気にかかる中で、グラウンドに目を向ければ、この大会初の失点にがっくりと項垂れ、意気消沈したかのような塗李のエースがいた。しかしそれでも、彼の投球は変わらない。五番の野木がセーフティーバントに失敗すると、その回はそれで終わった。試合は、五回の表へ進む。

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