第46話
三宮ファイターズ ライパチ 生田寿男
「エンペラーキャッチだ!」
「兵頭君、これ」
田辺聡はそう言って、ワニ皮でできたエンペラーグラブを兵頭に渡した。すると兵頭は、微かに口角を上げて、被ったままだったエンペラーヘルメットを換わりに彼に預けた。
「田辺、お前は塗李を、どう思う?」
兵頭の突然の質問に、田辺は少し、戸惑った。攻守交替で時間もなかったので、現在の相手の心境を慮ることもできず、自分なりに思っていたことをそのまま口にするしかなかった。
「決勝の相手に相応しい、素晴らしい相手だと思うよ」
すると兵頭は、その笑みを少しだけ鋭いものに変えると、エンペラーリストバンド(タイガーホークの衝撃に耐え得る腕力を手に入れるために彼が科学研究クラブに特殊素材でつくらせた片方だけで重さ三十キロを超える超重量リストバンド)でこめかみの辺りを拭ってから、
「俺もそう思う」
と、言った。エンペラー手袋を後ろのポケットに突っ込んで、エンペラースパイクで甲子園の土を蹴り、守備位置に向かって走っていく兵頭鷹虎。その背中を見て、田辺は何か、嫌な予感のようなものが自分の背筋を伝っていくのを感じた。
(大丈夫だろうか、この戦い……)
打席に、塗李の七番、結城裕樹が入った。
播磨灘のバッテリーは、この回から地盤沈下投法を封印し、アメーバ投法に切り替えることを決定していた。アメーバ投法とは、甲子園のフェンスやスタンドから左右それぞれ四本ずつの参照光、物体光と呼ばれるレーザービームを放ち、それを交差させ、回折と干渉の原理を利用して光波の振幅と衣相の分布を記録し、それを一センチメートルごとの『気体によってつくられた仮定された平面という名の空間』に連続再生することによって、恰もボールがいくつにも分裂したかのように思わせる、ホログラフィーの技術を駆使した仮想三次元投影投法の一種だった。その投球の準備が終わると、投手の植村は投球モーションに入り、いつも通りのなんの変哲もない球を投げた。しかしやはり、ボールはアメーバのように空間で分裂を演出。打者の結城は、あたりまえのように空振りを喫した。
「仮想三次元投影投法だ」
これを一瞬で見破ったのは、九番バッターの木戸だった。「おそらくこれは、甲子園のフェンスやスタンドから左右それぞれ四本ずつの参照光、物体光と呼ばれるレーザービームを放ち、それを交差させ、回折と干渉の原理を利用して光波の振幅と衣相の分布を記録し、それを一センチメートルごとの『気体によってつくられた仮定された平面という名の空間』に連続再生することによって、恰もボールがいくつにも分裂したかのように思わせる、ホログラフィーの技術を駆使した仮想三次元投影投法の一種でしょう」
木戸がこのような完璧な推理ができたのは、もちろん、堀による『播磨灘高校甲子園球場改造疑惑』の前提があったからだった。これを受けた翔平は、「どうすればいい?」と木戸に尋ねた。すると木戸は、鞄から一つのサングラスを取り出して、自信たっぷりにこう答えた。
「これは、ホログラフィーを駆使したアダルト映像の部分修正を取り除くことのできる、通信販売で購入した特殊眼鏡です」
するとナインは一斉に息を飲み、ごくりと喉を鳴らした。なんでそんな素晴らしいアイテムの存在を今まで黙っていたんだ! という怒りが、その沈黙には含まれていた。その中で、最初に口を開いたのは高原だった。
「木戸、喜与川に渡してこい」
結城があえなく三振に倒れた。サングラスをかけた喜与川が、バッターボックスに入った。
「高校生のくせに、サングラスなんて生意気だ!」
そのような野次が、スタンドのあちこちから噴出した。しかし、喜与川は集中していた。結城の打席の時に見た恐るべき分裂する球も、木戸曰く、この眼鏡があればきっと見えるという……。
投手の植村が、振りかぶって投球を開始した。そして彼からボールが放たれた時、その場に居合わせた十万人を越える観客、そしてテレビ視聴する数千万人が、ボールが分裂する瞬間を目撃した。しかし喜与川だけは、真実を見ていた。本物のボールを確実に捉え、彼はその球を右中間に跳ね返したのだ。
幻の投球を見事打ち返した喜与川に、観客は興奮を隠そうともしなかった。先ほど野次を飛ばしていた者たちも、目を輝かせて打球の行方を追っていた。ボールは転々と転がり、フェンスにぶつかって踊るように跳ねた。それに追いついた外野手は、急いでそのボールを処理したが、その頃には喜与川は、悠々と三塁ベースに到達していた。
両チーム合わせて、この試合初のヒットに、場内は騒然となっていた。その中で、バッターボックスに悠然と向かうのは木戸崇。彼は自前の眼鏡を人差し指で軽く押し上げると、フレーム右横についたボタンで何かの操作をした。
(愛用の眼鏡の方にも導入していてよかった。この打席で、先制点はいただきだ!)
観衆の注目は数カ所にばらけている。マウンドの植村、打席の木戸、三塁ベース上の兵頭、リードを僅かにとる喜与川。その、一瞬静まり返った球場の間をついて、兵頭鷹虎に喜与川八郎太が話しかける。
「最後じゃけえ言うとったるがのう……追われる者よりも追う者の方が強いんでえ。そがあな考え方しとったらあ、隙ができるど」
自分の考え方を発表した覚えはなかったが、兵頭はとりあえず、今の局面に集中した。アメーバ投法を攻略したのは塗李が初めてだ。田辺の言う通り、彼らは本当に、決勝の相手に相応しい最高のライバルなのかもしれない。兵頭はそう思うと、牽制球、スクイズ、バスターなどのあらゆる可能性を想定しつつ、まるで一個の惑星のように、独立したゾーンへと入っていった。
そして植村の投球。冷汗をかきながら、バッテリーは今回もアメーバ投球を選択。その第一球だった。インコースに沈んでいった本当の球を、木戸がジャストミート。その打球は三塁線上の僅か内、高さにして五メートルほどのライナー性の打球となった。打球音がした瞬間、それを目撃したほとんどの者が、長打を、そして塗李の先制点を確信した。その時だった。まるで海老のように仰け反った黒い影が、その打球をがっちりと掴んだ。そしてその影は、驚異的な高さから着地するとすぐ、ベースから二メートルほど飛び出して固まっている喜与川にタッチし、あっという間に二つのアウトをとってしまった。
「エンペラーキャッチだ!」
という少年の声が、スタンドのどこからか聞こえてくる。呆気にとられてあんぐりと口を開け、茫然と立ち尽くす喜与川八郎太に、その黒い影、即ち兵頭鷹虎が、お返しとばかりにこう囁いた。
「播磨灘を甘く見るなよ? もっと高みにこい! そして本当のライバルとなるのだ」
ベンチに戻る兵頭。喜与川は男のスパイクから、黒煙が噴き出しているのを見た。




