第４５話
三宮ファイターズ ライパチ 生田寿男
「エンペラー打法だ！」
「エンペラー打法だ！」
一人の少年がスタンドで、叫び声を上げた。それはマスコミが名付けた、鷹虎のバッティングスタイルだった。腕をゆらりと上方に上げ、バットを寝かせて大上段に構える。剣道の達人が敵を威圧する時に見せる、一撃必殺のスタンスに似ている。
掘が股の下で、一本指を出した。それはローション投法のサインだった。翔平はローション投法しか投げられないから、サインはいつも一本指だ。しかし掘は、いつもそのサインを出した。なぜなら、股の下でサインを出すのが、かっこいいと思っていたからだった。
翔平はそれを見て、こくりと静かに頷いた。彼はいつも、このこくりを欠かさなかった。それは彼が、捕手のサインに頷くのがかっこいいと思っていたからに他ならず、しかしそれは余談であるから、ここでは詳しく触れない。
翔平はそのこくりのあと、いつものように適量の、それでいていつも以上にぬるぬるの、宮沢から贈与されたスペシャルローションを噴出させた。そして、制御ぎりぎりの危うい予感を心の隅で楽しみながら、慣れた手つきで白球をその掌に転がすと、遂に彼は、大きく振りかぶって、運命の第一球を堀の構えるミットに向かって投げ込んだ。するとボールは、固唾を飲んだ大観衆の見守る中、するすると空間を漂い進み、何事もなくストライクゾーンを通り過ぎた。
ストライクのコールが響くと、観衆が一斉にため息を洩らした。兵頭はその眼で、球筋を見極めただけのようだった。打席を外し、彼らしくない、深呼吸のような動作をしてみせる。それはまるで、悲壮の決意をする直前のような、深刻そうな所作にも見えた。
（なんの変哲もない。平凡な球のように見える。やはりこの投手は、ボールに何かを付着させることによってここまで伸し上がってきたのだろう。解析は間に合わなかったが、どうしたものか……ここは結果を待たずして、玉砕を覚悟で挑むべきであろうか）
彼は、そのバットのために頭髪を失った科学者たちのことを思った。「失敗をしない限り進歩はない」とは、彼ら科学者の口癖のようなものだが、しかしここで敗北（たとえそれが一時的なことであろうとも）を喫することは、彼らを裏切ることになりはしないだろうかと、躊躇いの思いに足踏みしたのだ。
しばしの逡巡の末、彼はいつもする癖のような恰好をしてみせて、何かの操作をした。パーフェクト・タイガーホークで、ソルジャーヘッドにアクセスしたのだ。兵頭のその動作を見て、いよいよと息を飲んだのは他の播磨灘ナインだった。コントロールニードルは一撃分しか搭載できない。一打席に一振り。エンペラー打法はまさに、一撃必殺を宿命としていた。それを知る彼らは、優勝旗を手にできるかどうかが、兵頭の次の一振りにかかっていることを悟った。最強の矛と最強の盾の激突の瞬間を、一コマたりとて見逃さまいと、彼らはその身をベンチ前まで乗り出させた。
堀のサインを受けて、翔平はこくりと頷くと、大きく振りかぶって、二球目のセクシーボールを投じた。その瞬間、ソルジャーヘッドは瞬時に分析と計算を終え、その結果を送信、それを受信したタイガーホークは、自動操縦でスイングを開始した。兵頭の三角筋が軋む。その大きな足が大地を掴む。彼の総てのエネルギーは、タイガーホークを支えることに集約され、そして遂に、彼はボールを捉えた。その刹那、コントロールニードルが芯から噴出。その特殊針の先端はボールに突き刺さり、ボールを統治下に、置いた！
はずだった。しかし、それはやはり、事故となった。スペシャルローションによってミクロ単位のハイドロプレーニング現象が発動し、不完全な形でボールに突き刺さったコントロールニードルは、その名も虚しく制御不能のままにジェット噴射を開始して、ボールを垂直方向に打ち上げた。そして、七百メートル上空までボールを運ぶと、その姿を完全に失い、ボールをその束縛から解放した。自由の身となったボールは、今度は重力に従うことを開始し、数十秒をかけて、人々の肉眼で確認できる所まで落ちてきた。堀は、黒く焼け焦げた、小さく歪んだ球を見た。そして数秒後、彼は半信半疑の思いで、その球体をキャッチャーミットに収めた。すると主審が、しんと静まり返った球場の真ん中で、厳かにアウトを宣告した。その瞬間だった。甲子園が、爆裂した。
今大会初の凡退を喫したプリンス・オブ・ハリマナダを見て、観衆の興奮は早くも絶頂に達した。塗李の実力を信じていた者たちや疑っていた者たちが、年来の播磨灘ファンやアンチ播磨灘が、無敵艦隊撃沈のきっかけを目撃したことで、歓喜、或いは落胆の思いを交錯させたのだ。人々は、自分たちがつくり出した熱狂の大波に、我を忘れて飲み込まれていた。その余波は球場を零れ、入場に溢れた四十万人が敏感にそれに呼応すると、そこから五十キロ以上も遠く離れた京都市内の一つのベンチで、酒に酔った一人の浮浪者がびっくりしてしゃっくりを止めた。瞬間視聴率は一五％まで跳ね上がり、大会はいよいよ、日本史上最大のイベントへと昇華し始めた。
信じられない結果を突きつけられた科学研究クラブの科学者たちは、口をあんぐりと開けて茫然としていた。最初の選別から六千万回にも及ぶレベル２の反復精度テスト、そして最終調整から準決勝の実践に至るまで、パーフェクト・タイガーホークは文字通りパーフェクトであり、一度として目的地点にボールを着弾させることができなかったことはなかったのだ。それが今、初めて失敗した。まさか御曹司が目的地点を頭上にあるどこかの惑星に設定するはずもなく、それはどう考えてみても、失敗のようであった。
ベンチに戻ると兵頭は、無言のままにタイガーホークを研究員に預けた。研究員は直ちに、タイガーホークとHeadMobileを繋ぎ、異状を調べた。しかし、タイガーホーク自体に問題はなさそうであった。それから彼は、ソルジャーヘッドにアクセスして命令系統のログを確認した。研究員は、思わず息を飲んだ。その理由は、パーフェクト・タイガーホークの初めての失敗を本当に起こった事実として受け入れざるを得なくなったこともそうだが、設定された目的地点がピッチャーズマウンドの少し上、桜田翔平の心臓部分に設定されていたことの方が大きかった。
もしタイガーホークが命令通りミッションを遂行していたら……相手投手はマウンド上でその短い生涯を終えることになっていただろう。研究員は、御曹司の凄まじい執念にたじろいだ。おぼっちゃまはそこまでして、この試合の勝利を欲している！
しかしそれは、誤解ともいえた。たしかに、それで桜田が死亡するようなら所詮はその程度の相手だったわけだ、という挑戦的な無情さもないではなかったが、彼にしてみればこの打席の失敗は想定内であり、次への糧にするために基本的な打撃姿勢、ピッチャー返しをしたまでだった。不正と不正の正面衝突の結末は、まずはローションベースボールに軍配があがった。が、しかし、兵頭はもちろん、敗北を認めてはいない。試合終了までに謎の投球を攻略し、得点し、そして最後に、兵頭虎太郎を殺害できればそれでいいのだ。
五番の野木、六番の木下も凡退した。試合は、三回の表に進んだ。
