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第43話

  私立播磨灘高等学校教員 野球部監督 米田米継


  「か、格が違う……」

 播磨灘の先発投手は、植村(うえむら)という名の二年生ピッチャーだった。播磨灘はそれまで、三人の投手の分担できていたが、植村は今大会初出場で、予選大会でも数イニングしか登板していない、播磨灘でも四番手あたりの控え投手だった。この大事な決勝戦で、その起用は不可解だったが、試合は既に動きだしているのだから、一番打者の猿渡としても打席に入るしかない。

 植村の最初の投球を見た時、猿渡は、いける、と思った。宮内の迫力に比べればなんてことはないし、伊達の投球のような常軌を逸したトリックもなさそうだ。しかし彼は、空振りを繰り返した。ボールがホップしたような錯覚に襲われ、気づいたら三球三振に倒れていた。

 首を捻ってベンチに戻る猿渡。高原が尋ねた。

「どうだ?」

「大したことはないと思うんですが……」

 猿渡は釈然としなかった。捕えたはずであったのにバットは空を切らされ、それでいて伊達の投げるような変化球でもないようであったからだ。

 高原も、続く北田も、猿渡同様の違和感を覚えた。二人共ポップフライに終わり、一回の表はそれで終わってしまった。

 一回の裏、翔平は最初のマウンドに立つと、タンクから新ローションを掌に落とした。兵頭以外の他の打者は旧ローションでもよいかと思われたが、慣れておく必要があったし、同時に二種類のローションをタンクに入れられなかったというのもあった。彼は小さく振りかぶると、いつもより慎重にボールを投げ込んだ。腰の調子は上々で、いつも通りの投球ができた。

 翔平のローションピッチにたった一球で凡打に打ちとられた播磨灘の一番打者は、たしかにその手応えに奇妙な印象をもちはしたが、自分の仕事には満足していた。彼は二番打者の本山(もとやま)とすれ違うと、にやりと笑ってベンチに引き返した。本山はそれに笑顔で応えて、そのまま打席に入った。二番打者の彼も、一番の島本(しまもと)同様、アナライジングバットを手にしていた。

 播磨灘のベンチ裏には、調査部の面々が待機していた。調査部とは、兵頭コーポレーションが出資している木村直属の『科学研究クラブ』という組織の一部署で、播磨灘野球部への尽力にその活動は特化していた。調査部の責任者は、島本からアナライジングバットを回収すると、バットの先端にあるUSB28.0の差込み口にコードを差し込んだ。そしてコードのもう一方をHeadMobile(CPUだけでなくディスプレイからタッチパネルまで全てがアミノ酸でつくられた株式会社兵頭精密機器が誇る世界最先端のモバイルコンピュータ)に接続すると、バットが採取したミクロレベルの情報を速やかに吸い出させ始めた。

「すぐにとはいきませんが、本山君も情報を取ってきてくれるでしょうし、三番の山野(やまの)君ならしっかりとミートしてきてくれるでしょうから、ひょっとしたら次の回の鷹虎様の打席までには、簡単な解析結果を出せるかもしれません」

 責任者の説明を聴き終えた木村は、採取してきた島本に御苦労と声をかけると、ぽち袋を腰のあたりで、それとなく手渡した。島本はベンチに戻る際にこっそりと中を覗いた。中には『中の評価』を意味する、五千円札が入っていた。

(ちっ……中か。まあミート仕損なったからしゃあない。今度こそはしっかり捕えて、『高の評価』を貰うぞ)

 彼はぽち袋を鞄に仕舞った。凡退した本山が、ベンチ裏に向かうところだった。

 堀はいつも通り、相手打者のバットに付着したローションを毎回綺麗に拭き取っていたが、それでもアナライジングバットは、微量の手掛りをしっかりとキャッチしていた。そしてHeadMobileが、微かな薬品の反応があったことをディスプレイに表示すると、播磨灘のベンチ裏で、それは控え目な歓声が上がった。

「やはり奴らは、ボールに何かを仕込んでいたんだ!」

 調査部の責任者から、早速その報告を受けた監督の米田(よねだ)は、すぐさまその証拠を高野連に提出し、試合を終わらせたい衝動に捕われた。そうすれば塗李は、即刻失格になるだろうし、それは播磨灘の五連覇の決定と、同義でもあったからだ。

(そしてその全てで指揮をとってきた私は、アマチュア野球界の奇跡の指導者として永遠に語り継がれることとなるだろう。だけでなく、ひょっとしたら手腕を評価され、プロの球団から大型の契約の話があるかもしれない。或いは、栄達の道は別の方向に開き、知事選に出馬するチャンスが巡ってくるかもしれない!)

 とまで、彼はその一瞬で考えていた。しかし、彼の一存ではそれは決められなかった。このチームは彼のチームではなく、兵頭鷹虎のチームであったからだ。

 米田は、ネクストバッターズサークルに立つ兵頭に近づいていった。そして、すぐ近くまで辿り着くと、彼はおずおずと話しだした。

「ひょ、兵頭君、アナライジングバットの方から、何か薬品のような物が検出されたそうなのですが……」

「ほう……」

 兵頭はそれだけ言って、顔は前方を睨んだままだった。

「どうしましょうか?」

「どう、とは?」

「い、いや、ですから、大会主催者に報告すれば、試合はその時点で終了すると思われるものですから……」

「終了して、どうなる?」

 兵頭の表情に、米田は怯んだ。何も答えられずにいると、兵頭鷹虎は静かに続けた。

「その薬品とやらが何かもわかっておらぬのに、試合の中止を、塗李の失格を申請するのかね? それがただのスポーツドリンクであったり、傷薬であったり、鎮痛消炎剤であったりしたらどうするつもりだ? 試合を中断した責任を、君にとる覚悟はあるのか」

「い、いえ、しかし、そのような薬品であればHeadMobileはすぐに答えましょうが、まだ解析をしているようですから新しい何かかと……」

「私がアナライジングバットの使用を指示したのは、桜田翔平を真正面から攻略し、この試合に勝利するためだ。姑息な手段でこの鷹虎の有終の美を汚したいのなら、米田監督、あなたの好きにするがいいさ」

 それで米田は、何も言えなくなった。格が違う、と三十四歳の米田は、その十七歳の少年に震えた。彼は目の前の少年が、自分と同年輩などとは、露ほども疑っていなかった。

 三番の山野も凡退し、攻守は交替となった。二回の表、塗李の攻撃。四番、堀啓介の打順である。堀はこの打席で、一つの攻略の糸口を見出すことになる。播磨灘野球の、あまりにもスケールの大きな、俄には信じることのできない恐るべきその下地に、彼は気づくこととなるのだ。

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