第42話
兵庫県西宮市在住 フリーター 本田淳吾
「兵頭虎太郎だ!」
二〇六〇年八月二十三日。第一四二回全国高等学校野球選手権大会決勝が、阪神甲子園球場にて始まろうとしている。ミステリアスな野球でもってセンセーションを巻き起こし、前代未聞のライバルたちを次から次へと打ち破ってきた県立塗李高校を迎え撃つのは、史上最強の噂名高い、前人未到の五連覇を狙う私立播磨灘高校だ。千年に一度と言われるこの好カード、そして十年に0.01人の逸材と言われるスーパースター兵頭鷹虎を見るために、人々は朝も早くから、仕事を放り出してまでこの聖地に集まった。中には、準決勝が終わった直後から並び続けていた人もいたほどだった。
金に目の眩んだ高野連は、午前十時の時点で、消防法違反の八万人を入れている。試合開始直前には、入場者数は十一万人にまで膨れ上がった。入場希望者はそれでも跡を絶たず、四十万人を越える人々が球場を外から囲んだ。
試合開始の十分前、即ち午後一時二十分。十一万人の観客が、この日二度目のどよめきを発した。一度目は、前の試合で負傷した桜田翔平が先発のマウンドに立つことが発表された時だったが、それをも上回るこの二度目のどよめきは、次のような出来事が原因だった。観客の入ることが許されないはずのバックスクリーン中央に、宝石の鏤められた豪華絢爛たる玉座がまるで場違いな様子で設置されていたのだが、そこに一人の老人が、ゆっくりと歩み寄り、いかにも大儀だと言わんばかりにどっしりと鎮座した。それに気づいた一人の青年が、望遠コンタクトレンズでその老人を確認し、「兵頭虎太郎だ!」と叫んだのだ。十一万人の観衆は、それをきっかけに、津波のようなどよめきをつくりだしたのだった。
虎太郎が観戦を決めたのは、招待状が送られてきたからだった。差出人は鷹虎で、それには手紙が添えてあった。手紙には、次のようなことが書かれていた。
『 拝啓
父上。この夏はいかがお過ごしでございましょうか。今夏は大変な猛暑続きで、平均最高気温が五十年振りに更新されたそうでございます。いつまでもお元気な父上とはいえ、八十三歳のご老体にはさぞお辛かろうと想像しております。
さて、そのような状況の中で、子にあるまじき不躾なお願いを申し上げますことを、どうかお許しください。来る八月二十三日、午後一時三十分。阪神甲子園球場にて行われる野球大会に、私、鷹虎めが出場致します。たかが球遊びと父上はお笑いになるかもしれませんが、我が青春、最後の球遊びでございます。最愛の父上に、是非その晴れ姿を御覧になっていただきたいのです。
つきましては、鷹虎から父上に、招待状を同封させていただきます。世界に君臨される父上に相応しい、最上のお席でございます。鷹虎、最後の我儘でございます。どうか当日、球場にお越しになってくださいますよう。
敬具 』
電話一本でダウ式平均株価を操り、メール一つで中東の軍事に干渉し、急にパーティーを開いてはベッドに入ったばかりのローマ法王を問答無用で呼び出すこともある、現人神と形容される稀代の傑物、兵頭虎太郎も、息子、鷹虎に、『最愛の父上』などと呼ばれては、悪い気がしないでもなかった。逆に言えば、この男に自分の野望を気づかせない、鷹虎の細やかさも相当のものである。
「なかなかええ椅子やないか。涼しい風がきよる」
虎太郎は独り言ちると、扇子をぱちりと閉じて、着物の袂に仕舞った。
時間がくると、両チームそれぞれの部員が整列した。桜田翔平の目の前に、兵頭鷹虎がいる。そして兵頭鷹虎の目の前に、桜田翔平がいた。お互いが相手を、史上最大の難敵だと認識している。大会前、この二人の関係をそのように見た者がいただろうか。しかしこの時、この瞬間、その場にいた全ての者がそれを理解していた。審判から選手、そして十一万人の観客に至るまで、全ての人間が二人の激突に期待を膨らませ、或いは不安を抱いていたのだ。先攻、塗李高等学校。後攻、播磨灘高等学校。播磨灘ナインが、フィールドに散っていった。永遠に語り継がれることとなる、高校野球の金字塔、第一四二回全国高等学校野球選手権大会決勝の、戦いの火蓋が切られようとしている。




