第4話
神奈川県立塗李高等学校一年 野球部左翼手 島袋鉄平
「なんかぬるってる」
桜田翔平のポジションはサードだった。その彼が何も言わずにマウンドに向かったので、塗李ナインの他の八人はどうしたんだと首を傾けた。
すると翔平が、
「誰かバッターボックスに立ってくれ」
とそれだけ言って、マウンドを静かに均し始めたので、皆は皆、顔を見合って、しばらく戸惑いの表情を浮かべた。翔平の鬼気迫る表情が、全員に緊張感を分け与えていたことだけは確かだった。
戸惑うナインの中で、黙ってバッターボックスに向かったのは北田だった。桜田改革に文句を言いつつも結局未だ部員として残っている北田は、この時既に、戦友のような友情を感じつつある同級生の翔平に、信頼をもって何も尋ねなかった。彼がメタルバットを手にして左のボックスに入ると、キャッチャーの役割には、同じく二年生の堀が入った。
全部員が突然に始まったこの対決に注目していた。桜田の球速が大したものでないことは全ての部員が知っていたし、器用さにも欠ける彼が変化球を一つも投げられないということも、周知の事実だった。それだけでなく、相手をするのが塗李野球部最高のクラッチヒッターである北田ときているのだから、本来ならばこの対決は話にならない。だというのに、全員が目を見張って、これから始まる対決に何かを予感していた。それは主将である桜田翔平の、本気の眼差しが彼らをそうさせたのかもしれなかった。
翔平は、どきどきしていた。もしこの投球が通用しなかったら、また袋小路だ。しかしもし、これが俺の理論通りならば……。
(四の五の言っていても始まらない、俺の青春は今この瞬間に懸かっている、さあ北田よ、俺の全身全霊を、迸るこの稲妻を、お前の最高のスイングで応えてみせろ!)
翔平は振りかぶった。北田がリラックスした様子で構え直した。翔平の手から白球が放たれる。それに合わせて北田が始動する。ボールが頼りない軌道をもってストライクゾーンに向かう。北田のスイングがそのボールを完璧に捕える。ボールは打ち上がった。ボールは、完璧に捉えられたはずだのに、打ち上がった。
ショートとレフトの守備範囲が重なるあたりに、ボールはぽとりと落ちた。まあこんな結果もあるだろう、と多くの者たちが思ったが、北田だけは、こんなはずはない、と奇妙な感覚に襲われていた。俺は完璧に捉えていたはずだ。あれだけ完璧だったのに、平凡なフライだと?
「もう一球だ」
北田はそう言って、バットを構え直した。翔平は頷いて、篭から新しいボールを取り出し、再び投球モーションに入った。先ほどと同じふらふらと頼りない軌道。パーフェクトなタイミングで風を巻き起こす豪快な北田のスイング。結果は同じだった。打球は平凡な、内野フライとなった。
「な、なんでだ」
北田が肩を落としていると、他の選手も異変に気づき始めた。次は俺に打たせてくれ、そう言ったのは堀だった。堀がバッターボックスに入る。翔平が投げる。結果は同じだった。平凡な内野フライだった。
そのあと、数人の選手が翔平と対戦したが、いずれも一球目の絶好球を打ち上げるという結果となった。ボールがなくなったので、グラウンドに落ちたままになっているボールを、一年生の島袋鉄平が拾いに走った。そして彼が、落ちたボールに手をかけた時だった。
ぬるっ。
と彼の手から、ボールがドジョウのように逃げていった。
島袋は顔面を蒼白にさせ、こう呟いた。
「なんかぬるってる」
「どういうことだ、説明してもらおうか」
ぬるぬるしたボールを手にして、北田が言った。北田だけではない、翔平以外の全員が、ぬるぬるしたボールを手にしていた。そして全員が、翔平に真実を求めていた。
翔平は震えていた。いける。これさえあれば、俺たちは驀進できる。
「もちろん、説明させてもらうよ。そのためにお前らに打席に入ってもらったんだから」
堀が待てない様子で急かした。
「これは、このボールに付着しているのは、なんだ?」
翔平は勿体振らずに答えた。
「ローションだよ、わかるだろ? あの、ローションだ」
「ローション……」
全員が絶句した。それは思いも寄らぬ、桃色の名詞だった。北田が言った。
「まあそんなところだろうとは思った。だけどなんで、ボールにローションを塗ったりなんかしたんだ? それが俺たちの凡打と、関係があるとでも言うのか?」
するとここで、堀が独り言のように呟いた。
「ハイドロプレーニング現象だ……」
「ハイ、ド、ロ?」
北田が、狐につままれたような顔をした。「なんだそりゃ」
「車なんかで、水溜りの上を走る時、タイヤと路面の間に入る水は、通常、タイヤの溝から排出されるんだ。だけど水溜りへの侵入があまりにも高速だった場合、その溝からの排出が追いつかなくなる時がある。そうなると、車は水の上を滑るようになっちまって、ハンドルやブレーキをどうやっても、思ったように制御できなくなるんだよ。それが、ハイドロプレーニング現象だ」
堀は説明を終えると、翔平の目を見て、言った。「だよな?」
翔平はこくりと頷くと、堀の説明を引き継いだ。
「これはピッチングにも応用できるんじゃないか、と俺は考えたわけだ。ボールに当たる瞬間のスイングに唸るバットは、言わば高速で移動する車だ。とすれば、ローションの塗ってあるボールは水溜りのある路面と同じ、と言えるだろう。しかしバットには元々溝がない。たとえそのスイングが高速でなくとも、最初からローションの逃げ道などはないんだよ。そうなると、ぶつかり合う二つの物体は、どうなる?」
翔平がナインを見渡すと、一年生の一人が、恐ろしい物でも見たかのような顔つきになって、言った。
「制御が、利かなくなる……」
翔平は頷いた。
「ハイドロプレーニング現象は、そういった特性から、多くの交通事故の原因にもなっている。要するにだ、ボールにローションが塗られた時点で、それはもうバッティングではなくなる、事故になる、即ち、たとえどんなに優れたバットコントロールを備えた好打者でも、もう自由にはできない、ということになるんだよ。これが俺の編み出したローション投法のメカニズムってわけなんだけど、半信半疑の机上の理論を、今回、お前らが証明してくれたってわけだ。まさかこんなにうまくいくとは、自分でも思っていなかったけどな」
「ローション投法……」
誰かが呟いた。前代未聞の奇想天外なピッチング方法に、戸惑わない方がおかしいのかもしれなかった。皆が皆、言葉を失っている。その中で、搾るようにして声を発したのは、堀だった。
「これなら、優勝も夢じゃない……」
皆の表情に、少しずつ力が漲っていくのを翔平は感じた。この機を逃してはいけない、と彼は思った。彼が求めるものは、一人では決して得ることのできない、全員野球のカタルシスなのだ。
「しかしこのローション投法、最大の弱点がある、俺だけでは駄目なんだ、みんなのサポートが必要なんだ、俺に協力してくれ、俺を信じて、ついてきてくれ!」
これに最初に応えたのは、北田だった。
「どうすればいい、言え」
それは彼らしい、力強い口調だった。「俺の青春をお前に預ける。さあ、言うんだ、俺たちは何をすればいい」
翔平は、主将になってから初めて、真の仲間を得た心持ちがした。涙が込み上げてくるのをあわやというところでなんとか堪え、彼は平静をとり戻してから、言った。
「俺たちはまず、ローションベースボールの確立を急がなくてはならない」
ローションベースボール。
それは魅惑の響きをもっていた。そこにいた全ての少年が、その魔法の言葉にとり憑かれ始めていた。




