第37話
私立真田高等学校二年 背番号1 『伊達昌幸』
「あたし、待ってる!」
美しい敗者に大衆は魅了される。それは源平の時代から続く、この国の慣習のようなものだ。ミステリアスな魔球でもって塗李を手玉に取りながらも、勝利を目前に力尽きた小さな大投手伊達昌幸に、大勢の記者たちが集まったのはむしろ当然のことだろう。
しかし彼は、いや彼女は、言葉少なだった。敗軍の将、兵を語らず、ということなのか、真田高校の監督も発言に消極的だった。記者たちは思うようにコメントを引き出せず、質問に工夫を凝らしたがそれも無駄に終わった。
記者泣かせだったのは結城裕樹も同じだった。サヨナラの三点本塁打を放ち、ヒーローとなったはずのこの少年も、心ここにあらずといった様子で早くその時間を終わらせたがった。その中で、唯一まともな受け答えをしたのは塗李高校の救世主、宇賀神栄太郎だった。準ノーヒッターを成し遂げたこの大男は、堂々とした語り口で記者の質問にこう答えている。
「先輩方の指導があったからこそ、今日のような活躍ができました。私のことを仲間だと認めてくださったその先輩方のためにも、なんとか役に立ちたかった。少しでも恩返しができたかと思うと、感無量の思いです」
更衣室のモニターでこの様子を見た他の塗李の選手たちは、人が変わったような宇賀神のその口調、そのコメントの内容に唖然とした。ユニフォームから学校制服に着替える手を止めて、あんぐりと口をあけて固まってしまった者もいたほどだった。
着替えを終えて控え室を出ると、塗李ナインは後の決勝の相手、これから準決勝に向かう播磨灘の選手たちとすれ違った。播磨灘高校、ベンチ入り十八人の選手が、三塁側ベンチに入るために廊下を進んでいたのだ。彼らのスパイクが鳴らすかちゃかちゃという音は、他の高校のそれよりも重低音に響くかのようで、いかにも王者といったその堂々たる風采は、それだけで草食動物を震え上がらせるような、獰猛な迫力を醸し出していた。それでいて、ネコ科の動物を連想させる彼らの筋肉の躍動は、獲物に忍び寄る暗殺者のそれと似た、なんとなく無機質の、非情な気配を思わせる。そんな、十代とはとても思えぬ集団の先頭を歩くのは、播磨灘の主将、野球の申し子、兵頭鷹虎だ。兵頭は、猛り狂う寸前といった阿修羅のような形相をしていて、それを間近で見た島袋などは、一瞬で震え上がった。
「おい見たか、あいつらのユニフォーム。あれが噂の、ルーダゴのオートクチュールだぜ」
猿渡が感心しながら島袋に話しかけた。新鋭のフランス人デザイナー、ジャン=ピエール・ルーダゴが、播磨灘野球部のためにパリ・コレクションで発表し、補欠部員に至るまでオートクチュールで仕立てたという、一着二十万円はすると言われるユニフォームのことは、マスコミにもとり上げられていて有名だった。「だけどやっぱり、野球のユニフォームで乳首が透けて見えるってのはどうかと思うぜ……」と猿渡は続けたが、島袋はほとんど聴いていなかった。彼は小便を漏らしていた。なんだあの男は。なんだあの眼は。もし奴らが決勝に上がってきたら、俺たちはあんな化物と戦わなければならないのか……。
島袋が恐れたのも無理はなかった。兵頭はこの時、まさに怒髪天を衝くといった心境で、視界に入るもの全てを皆殺しにしてやりたいという激情を、なんとか自制しているといった危うい状態だったのだ。
(俺は三十分前に木村に天気を調べさせた。木村は、雨が降ることはない、と言った。稼働から昨年までの十一年間、九五%以上の確率で予報を的中させ続けてきたアメデゴザンスが、今日に限って、それもこのわかり易い天気の中、あの雨を予測できぬはずがない。気象介入だ。誰かが一時的に、そして局地的に、気象をコントロールさせたのだ。それはなぜだ? 天候が勝敗を左右することを知っていたからだ。それをやったのは誰だ? 勝負所を正確に見極め、たかがアマチュアの、たかが高校生のボール遊びのために、アメデゴザンスの気象介入機能を発動させてまで、勝敗を操ろうとした人間は誰だ? そんな酔狂な人間など、そしてそれだけのことを実際に実行できる人間など、他に誰がいるというのだ。面白い! 兵頭虎太郎! 貴様はこの俺の決勝の相手に、塗李高校を選んだというわけなのだな? それならそれで結構! そもそもがこの俺の真の目的は、貴様を殺すことなのだ。公衆の面前で塗李もろとも、叩き殺してくれようぞッ!)
残忍そうな赤い目を、残酷な角度に吊り上がらせて、口角を上げたかと思うと不敵な笑い声を洩らした。通用口から差し込む白い太陽光は、先ほどの降雨が嘘のように晴れ上がっていることの証明だ。彼は、背負ったバットケースに手をかけると、超凶悪な破壊力を誇る彼専用のバット、『タイガーホーク』をやさしく撫でた。透けて見えたユニフォームの、ピンクの乳首のその奥で、『人間を超越した人間』の暗黒を秘めた心臓が、どくりどくりと静かなる爆音を奏で始めている。
ナインが送迎バスの所まで着いた時だった。バスの前に、翔平が立っていた。
「御苦労!」
と彼はそう言うと、皆の肩を一人一人叩いて歩いた。呆気にとられる中、なんとか声を出したのは副主将の堀啓介。
「大丈夫なのか? お前……」
すると翔平は、にっこりと微笑んでこう答えた。
「お前らの勇気ある戦い、寸分逃さず見させてもらった。宇賀神、お前は本当によくやった。おかげで俺はしっかりと休養をとることができたし、腰の方もばっちりだ。それにしてもお前ら、よくあんなピッチャーを攻略できたな」
すると北田が、伊達攻略の功労者、結城を称えようと話しだした。
「今回は完全に結城の手柄だったぜ。こいつがいなかったら、どうなっていたことやら」
彼はそう喋りながら結城を探した。しかし、肝心のその結城を見つけることができない。その頃結城は、一塁側にまわって、『伊達昌幸』を探していたためその場にいなかった。
目的が終了したことを悟っていた。昌美はまだ二年生であったが、兵頭のいない来年の高校野球界には用がない。あとは真繁奇術団を有名にするために、女であることと真田野球の正体を告白するという最後の仕事をやるだけだ。大騒ぎになるだろうが、それで一家が繁盛するのならそれもいいだろう。
それでいて、茫然とした。数日後の決勝で、兵頭がどのような結末を歴史に刻むことになるのかは想像もつかないが、今となってはどうすることもできず、それが彼女を虚脱感に包んでいたのだ。座り込み、未だ一人、着替えを済ませずに佇んでいた。
すると彼女の前に、三年生の部員たちが集まった。中央には、捕手の稲田が立っていた。
「伊達……お前がいたからこそ、俺たちはここまでこれた。俺たちはこのチームの一員であれたことを、本当に誇りに思っている。マジックベースボールの理解度をもっと高めて、来年こそは、俺たちの叶えられなかった夢を、実現させてくれ。とにかく、ありがとう」
稲田はそう言って彼女に握手を求めた。すると他の三年生も次々とそれに倣った。そしてそれらが終わると、今度は同級生や後輩の部員たちが彼女の所へ集まってきて、来年への決意を誓ったりした。敗北に肩を落とすでもなく、明るい明日を約束するかのような儀式めいたその光景を自然とつくり出した彼らに、監督や部長は笑顔をとり戻した。それを見て、彼女は例の告白をマスコミにしていいものか、わからなくなってしまった。
「ちょっと、トイレにいってきます」
そう言ってなんとか、彼女はその場を離れた。第三準備室の脇にある女性用トイレへいって、考えを整理しようとしたのだ。するとすぐのことだった。今度はまた別の声が、彼女を呼び止めた。
「昌美ちゃん……」
結城だった。昌美はそのことにすぐに気づくと、荒木昌美としてか、それとも伊達昌幸として振り向くべきかどうか、迷った。そんな彼女の葛藤をその後ろ姿に察したか、結城は彼女が振り返るのを待たずに、言った。
「事情は知らないが、君がこの大会にどんな思いを抱いていたかは、今日の試合で充分にわかった」
彼女の揺れる背番号を見つめながら、結城は続ける。「俺は決勝にいくよ。俺たちじゃ播磨灘は倒せないと思ってる? だけどね、神奈川の県予選に敗れた野球部員たちや、萩大工学、薄野桃腿、青田学院や西東工の連中が、俺たちの背中を支えてくれているんだ。だから、たとえ播磨灘が絶望的な強さを見せつけてきたとしても、俺たちはベストを尽くさなくちゃいけない。できれば真田高校の皆にも、そして何より『伊達昌幸』にも、支えてもらいたいと思ってるんだけど、どうかな?」
昌美の肩が震えた。それは惜別の感傷を伴っていた。それを見た結城は、少し寂し気な声音になったが、それを振り払うように笑顔をつくって言った。
「甲子園に蘇った今ジャンヌ・ダルク。背番号1に相応しい、最高の投球をありがとう。決勝は大変な戦いになると思うけど、もし無事に帰還することができたなら……」
昌美は唾を飲み込んで、次の言葉を待った。しかし、結城の言葉は途切れたままだった。どぎまぎして続きを待って、やきもきしてそれでも続きが聞こえず、彼女は遂に勇気を出して、結城に振り返った。伊達昌幸の仮面を脱ぎ捨て、プリンセス昌美として、いや、荒木昌美として振り返ったのだ。すると結城は、背を向けてその場を立ち去ろうとしていた。
「結城さん!」
無意識のうちに、声をかけていた。小さくて、それでいて切実な、運命を手繰り寄せるような叫びだった。それは、二人が恋人としての再会をはたすために必要な、最後の手順であったかもしれない。結城が肩をぴくりと震わせ、ゆっくりと振り返る。二人の視線は、すぐに、絡み合った。
吸い寄せられるように結城が近づいていく。しかし昌美はそれを一度突き放す。
「あなたはこの戦いが終わるまで、あたしのことなんて忘れなくてはいけない。播磨灘は、兵頭は、それほどの覚悟がない限り、触れることすら許されないような強敵よ」
そう言って、歪な形をした尻から、一輪の薔薇を取り出した。
「播磨灘を倒して! それができるのはあなたたち、塗李の戦士たちだけ! あたし、待ってる。そしてあなたたちがこの世界に真の平和をもたらした時、その時、あたしはあなたの……」
二人の間に、メゾピアノ線などはないはずだった。しかしその薔薇は、するすると空間を漂った。それは運命の赤い何かが、二人を繋いでいたからかもしれなかった。結城の手元まで辿り着くと、再び重力の支配下に戻される真紅の愛の裏付け。結城はそれを優雅な軌跡で口元へ移動させると、軽く横に銜えてから、力強くこう応えた。
「この戦いが終わったら、君に結婚を申し込もうッ!」
結城がパンと手を叩いた。昌美がかちゃんとスパイクを鳴らした。そして二人は、タンゴを踊りだした。ああ情熱のアルゼンチン・タンゴ。時に麗しのコンチネンタル・タンゴ。ときめきの絶頂に導かれた、一人の少女のその尻で、出番のなかった四匹目の白鳩(名はピーター)が、ばたばたと二人を祝った。




