表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/55

第36話

  神奈川県立塗李高等学校三年 野球部三塁手 高原利久


  「おい、こんなことってあるか?」

 七回、八回と試合が進行するにつれ、昌美は走者を許すようになった。長く続いた緊張からか制球が定まらなくなり、エラーや盗塁などが絡んだのもあって、幾度となく得点圏に走者を進められることとなったのだ。しかしそれでも、両校にとっての決定的な瞬間は訪れなかった。塗李ナインはホームへの帰還を許されず、じりじりとした焦燥の中、彼らの戦いはとうとう、最終回へと突入していった。

 宇賀神の方は四回以降、出塁を許したのはたった一人という、初出場とは思えない驚異的な結果を残していた。そして九回の表も順調に二死まで辿り着き、打席に九番バッターの伊達昌幸を迎えると、彼は大きく息を吸い、そして小さくそれを吐いた。冷たい脂汗にコーティングされた宇賀神のその顔は、もう何回も前から、無表情のお手本といったものになっていた。真田打線はその様子をだいぶ以前から不気味に感じていたが、それは昌美も、同じことだった。

(この人、こんなに怖い顔だったかな……)

 昌美にはもう、打つ気はなかった。早くこの打席を終わらせて、次の回に臨みたい。そして今日はゆっくりと、何も考えずに休みたい。そんなことすら考えていた。それまでのペースを些かも崩さず、淡々といった様子でモーションに入る宇賀神。両者の思惑は一致したか、カウントはすぐにツーストライクとなった。

 怒鳴られたような、予定にない音を聞いたのは気のせいか。昌美は少し驚いて、打席を外して辺りを見回した。しかし変わった様子は何もない。少し暗くなったくらいか。そこで気づいて、まさか、と思いつつ、顔を上げた時だった。彼女の頬に、ぽつりと何かが当たった。灰色のスモッグが、上空を覆い始めていた。

 生温い雨粒が、グラウンドに斑点をつくり始めた。この土壇場で、天が背を向けたのだ。審判に促されるままに茫然と打席に入る。三球目を見逃して三振のコールを受けたが、肩を叩かれるまで気づかないくらいだった。

 三球の消える球を有効に使いたい。塗李は死の球を警戒してリードをしないから、分身の球や爆裂の球でツーナッシングまで追い込んで、最後に消える球で仕留めるというのが残された唯一の組立てだ。そうやってなんとか、ここまで塗李を凌いできた。しかし雨が、その投球術を無効化する。マウンドに立った昌美の様子は、一点のリードをしている投手のそれではなかった。

「お、おい、こんなことってあるか?」

 高原が言った。「この雨じゃ中止にならない。い、いけるぞこれは……!」

 打席に、この回の先頭打者の北田が入った。すると真田高校の三人の野手が、セカンドベースに集まった。そして伊達昌幸がモーションに入ると、三人の野手がそれに倣う。北田は分身を覚悟した。しかしその時、彼はマウンドに伊達昌幸を見た。今までは夢幻の彼方にいたはずの、呪術師の正体をそこに見たのだ!

 分身しない分身の球は、あまりにも無力だった。北田がその投球をジャストミートすると、打球は本来ならば二塁手の定位置であるはずのその場所を、猛烈な勢いで抜けていった。ライト前ヒット。ノーアウトランナー一塁。打席に、四番の堀が入った。

 もはや昌美に、為す術はなかった。愚直なまでに分身しない分身の球を投げるしかなく、堀にも初球をレフト前に運ばれた。続く五番の宇賀神はなんとかファーストライナーに抑えたものの、消える牽制球の弊害もあってダブルプレーがとれない。六番の島袋を迎えた頃には、矢も盾もたまらなくなって、三球しかない消える球をここで全て使ってしまった。

 三振。一、二塁のままではあるが、なんとかツーアウトまで漕ぎ着けた。あと一つ、なんとかあと一つのアウトをとって、私たちは決勝にいくのだ。濡れるマウンドに独り、一縷の望みに懸けて顔を上げた。バッターボックスに宿命の相手が立っていることに、昌美はその時になって初めて気づいた。


 結城は、昌美は爆裂球で挑んでくると考えていた。しかしこの雨だ。ボールは火花を失い、通常の球となるだろう。最後の打者となるか、逆転の結末を呼び起こすか。いよいよ決着をつける時がきたのだと、結城裕樹は『伊達昌幸』を睨めつけた。

 昌美は結城の目論見をその目に見た。彼は私の最高の球、爆裂投球を待っている。そして実際、今の私にはそれしかない。このそぼ降る雨の中、通常の火薬の量では痛打を喰らうこととなるでしょう。それならば……。

 観客の視線が一点に集まった。伊達昌幸が振りかぶった。その手には、火薬の仕掛けられた高校野球の公式ボールと、発火に必要なリンが握られていた。五百八十六コマの超性能カメラでも捕えることのできぬ、天才にしか許されないテクニカルなボール捌き。手から離れた瞬間、ボールは、火の玉と化した。

 それは雨を物ともせず、火竜となって空間を突き進んだ。そしてストライクゾーン手前で爆裂すると、跡形もなく消滅した。結城のメタルバットが空を切る。ストライクのコールが響くと、観衆の喝采も爆発した。

 昌美が、通常よりも多くの火薬を使用したことに、結城は気づいていた。しかしそこで彼が危惧したのは、自分の未来ではなかった。敗北に砂を噛んでいるかもしれない一分後の自分を差し置いて、勝利を掴むために危険を顧みず、悪魔の領域に片足を踏み入れつつある、プリンセス昌美の身の上を心配したのだ。彼にとってはやはり、伊達昌幸は伊達昌幸ではなく、荒木昌美だった。君はこれ以上、その球を投げてはいけない。そのためにはどうすればいい? そうだ、次の一球で終わらせることだ!

 このような彼の想いが、ツカサに届いたかどうか。終決を約束するかのような大粒の水滴たちが、ぼとりぼとりと大きな音を立ててフィールドに舞い降り始めた。そして、正午に近づいた甲子園の雨空に、白金の雷光が彼方から閃くと、数秒遅れで届けられた骨までも響く轟音が、伊達昌幸、最後の投球のスタートの合図となった。更に火薬の足された渾身の爆裂投球が、彼女の指先を、焼いた。

 しかし、篠突く雨がその指先を守った。突然に力を増した雨粒の連続放射が、火の玉を火の玉でなくしたのだ。魔を除けられた爆裂の球が、叩かれて巻き起こる土煙の中を、健気にも真っ直ぐと突き進んでいく。それに合わせて動きだした、結城裕樹という少年は、この世界でたった一人の、彼女の理解者であったかもしれない。いずれかの夏が終わることを知りながら、儚い影を大地に揺らし、予てからの約束の、紅の青春を鳴らしにいくのだ。そして、衝突。透き通った金属音がスタジアムに反響すれば、一点の白球が、空間に躍り上がった。それは見る者を青く照らす、一人の少女の流星だった。狂おしいほどのエクスタシーの中で、ボールはスタンドに飛び込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ