第33話
私立真田高等学校三年 野球部捕手 稲田信夫
「死の球、だと……?」
(俺は何を迷っているんだ、昌美ちゃんが奇術を駆使しているのは明らかだ、そのことを早くみんなに教えなくっちゃ)
結城は、宇賀神の掌を見た瞬間から、大きく動揺していた。自分に出番などはまわってこないかもしれないのに、桜田の代わりなどは誰も期待していなかったのに、奴は奴なりに大会前から馬鹿みたいな準備をしていた。なんだあの掌は? ぬめったボールをうまく扱うために、自らの手を傷つけるだって? どうかしてる、本当の馬鹿野郎だ。それなのに、俺ときたらどうだ。今まで一緒にやってきた仲間を、裏切ろうとしている!
二回の表、宇賀神はまたしても制球を乱し、二死満塁から押し出し。それでも彼は、弱音を吐く素振りさえ見せなかった。少なくとも結城には、宇賀神がそう見えていた。
(この頑なまでの闘志はなんだ。ただでさえでかいのに、いつもよりでかく見えやがる!)
結城の喉元を詰まらせる胸焼けのような何かが、ますます大きくなって彼を困らせる。相手の四番打者がサード側のファウルゾーンに打ち上げた。高原がそれを無難に処理する。ぜいぜいと肩を上下させてベンチに戻る宇賀神。攻守は、交替となった。
(塗李打線を侮っては駄目)
と何度も自分に言い聞かせるのは荒木昌美。宮内を攻略していく彼らの記憶が新しい彼女としては、一瞬の隙も見せたくはなかった。全力でいくことを、皆にも伝えていた。
「稲田先輩、分身を使いましょう」
稲田は、ごくりと唾を飲んだ。初回に使った止まる球といい、分身の球といい、これらの魔球は今まで封印されてきた。伊達はそれらを、一気に解放する気だ。それを悟った稲田は、塗李の潜在能力を間接的に思い知った。
(伊達昌幸をここまで本気にさせるとは……塗李、まさかお前らは、播磨灘と肩を並べるポテンシャルを……)
稲田は頭を振って邪念を振り払った。気概で負けては、決してならない。ハイレベルな戦いの中では、体力や技術の他に、目に見えないパワーが勝敗を左右するのだ!
打席に立ったのは堀啓介。二点のビハインドを背負った今、攻略にあてられる時間には限りがある。それでも堀は、この打席に限っては結果を捨てていた。
(重い球、止まる球、消える球。どれでもいい、正体を見抜いてやる!)
伊達昌幸がマウンドの土を蹴り上げた。その瞬間、彼は、いや、彼女は、消えた。
『魔球・分身の球』の正体は、蜃気楼のそれだった。捕手の稲田からサインが出ると、セカンドとショート、センターの三人がセカンドベース付近に集まる。そして昌美の投球モーションに合わせ、彼らもモーションに入るのがこの魔球の下準備だ。蹴り上げた左のスパイクから、昌美が50ccの冷水を霧状に噴出させると、それによって灼熱の大気に温度変化がもたらされ、直進するはずの光が幾重にも屈折する。そうやってつくり出された人工的な蜃気楼が、『伊達昌幸』を、消す。そして代わりに表れるのは、セカンドベース付近に集まった三人の野手たち。その幻想の奥から、本当の投手、伊達昌幸の投じた球が忽然と空間に出現する。この奇跡のエフェクトが、『魔球・分身の球』の真実なのだ。
その幻の投球に眩惑しながら、堀は推理のきっかけさえ掴めずに凡退した。しかしその奇跡の現象を目撃したのは、堀や捕手の稲田、主審の青島貫一やバックネット裏に座る観客たちだけで、他の人間には、ただの凡退に見えた。
「おい、なんであんなのが打てないんだ」
喜与川が堀に言った。堀は自分の見た現象を、なるべく興奮を抑えて説明しようとした。するとその時、バックスクリーン下方に設置されたオーロラ3Dビジョン(兵頭電機開発)に、バックネット裏から撮影された先ほどの堀の打席が映し出された。場内、またしても騒然。ベンチの隅で北田広太が、ぼそりと独り、呟いた。
「俺たちは、思っていた以上に、強大な敵と戦っているのかもしれない」
昌美が、晒しに巻いた胸をタッチした。それを見た稲田は、驚いた。
(死の球、だと……?)
打席に入った宇賀神を見た。この男はたしか、予選でも試合に出ていないはずだ。そんな打者に対し、伊達は『魔球・死の球』を使うという。播磨灘とやるまでは二種の魔球だけでいくと言っていた。それが決勝を前に、連続完全試合の記録を捨ててまで、七色の魔球を全て出し切るつもりなのか。稲田は震えた。伊達は塗李に、何かを感じている!
『魔球・死の球』が伊達から放たれた。宇賀神はデッドボール。真田の伊達昌幸が、今大会初の出塁を許した瞬間だった。次の打者、島袋が打席に入る。昌美はセットポジションから、一塁に牽制する仕草をした。
この時、『魔球・消える球』が、昌美とファーストの鬼塚の間で発動。宇賀神、あっさりと牽制球アウト。すごすごとベンチに戻り、頭を掻いて言い訳をする宇賀神。『魔球・死の球』の最初の被害者となったことに、宇賀神栄太郎は気づかない。
たった二球(投球は一球)で宇賀神を打ちとったあと、昌美はすぐに次のサインを出した。
(平和、か……)
ここまでくれば、稲田ももう驚かない。指笛を鳴らした伊達を確認すると、彼はマスク越しに上空を見上げ、共演者のスタンバイを確認した。
『魔球・平和の球』は、『魔球・止まる球』同様、メゾピアノ線を使用する。しかしその使い方は大きく異なる。それは共演者と昌美を繋ぐ、一筋の信頼の絆となるのだ。プリンセス昌美が指笛を使うと、彼女の忠実なる下部、白鳩のピースとジェニーとキャロラインが、どこからともなくマウンドの上空五十メートル付近に現れ、待機する。そこで器用にホバリングする彼らが垂らす三本のメゾピアノ線にボールを絡ませ、彼女は彼らに、それを運ばせるのだ。もちろん、ボールの変化は彼らの主人である昌美の意のままだった。彼女はさりげなくメゾピアノ線にボールをセットすると、白鳩らと絶妙の連携をみせて、その魔球を投げ込んだ。遥か上空でボールを運ぶ昌美の部下たち。ふらふらとあり得ない軌道を見せるそのボールは、あたりまえのように直前で恐るべき変化を見せ、打席に入った島袋を翻弄した。三球三振。この回もあっさりと、塗李は攻撃を終わらせることとなった。
次々と披露された新魔球に、場内は拍手喝采となった。もはや甲子園球場は、伊達昌幸のワンマンショーのような様相を呈してきた。




