第32話
社会人野球隈手組 元監督 海江田敏彦
「大きいお尻ですねえ」
(全く、本当に不思議なチームだ)
第二試合の出場チームが控える甲子園球場第四準備室で、兵頭鷹虎は備え付けの3Dテレビを観ながら、ハプニングを乗り越えつつある塗李高校に率直な感想をもった。
(あの桜田とかいうエースが降板した時は、さすがに俺も昌美との対決を覚悟したが、宇賀神とかいうこの大男、フォームが固まってきた。見た目には桜田同様、やはり大したピッチャーには思えないが、制球が安定してきたら、この試合、どうなるかわからんぞ)
「おぼっちゃま。まだあのバットはお使いになられませぬか」
場違いの高級そうな背広を着た初老の男が、兵頭鷹虎に話しかけた。男は、名を木村といった。木村は兵頭が十歳の頃からの、彼専属の教育係兼執事だった。
「決勝の相手が昌美なら必要はなかったが、桜田や宇賀神が相手なら使うことになるやもしれぬ。今日、試しておくか。木村、メンテナンスをしておいてくれ」
兵頭は木村からドリンクボトルを受け取ると、それをストローで吸い始めた。中には、QPS(クイックプロテインスポーツの略。短い時間でプロテインを体内に取り込むことができる、兵頭製薬開発のアスリート御用達即効性スポーツドリンク)が入っていた。
連続四球で一死満塁から押し出し。得点を一つ許したところで制球が安定し始めた。ストライクゾーンを通過する宇賀神の投球は、桜田のそれと全く同じ効果をもっていた。真田の六番打者はそのボールをジャストミートしたが、それはやはり、バッティングではなく、事故となる。打球は暴走気味に回転しながら、宇賀神の右すぐ横を通過していった。
処理にまわったのはショートの結城だった。彼はその打球をなんなく捕球すると、神をも欺く圧倒的なスピードでローションを拭き取り、セカンドベースに入った木戸に即座に送球した。6、4、3、の美しい連携プレー。ボールは無事一塁の北田のミットに収まり、塗李高校はこのダブルプレーで、ようやくこの回を終わらせることができた。
まさかの実力を見せた宇賀神に集まり、その彼に激励の言葉を投げかける野手らの中で、「結城ちゃんナイス!」と結城の肩を叩いたのは北田広太。「これなら宇賀神も安心して投げられるってもんだ」と彼は続けた。しかし結城には、まだ迷いがあった。彼がこの時いつも通りの完全なプレーができたのは、それがほとんど癖のようなものになっていたからかもしれない。
皆がベンチに戻ると、堀が言った。
「ようし、御手並拝見といくか」
彼の視線の先には、マウンドを均す昌美がいた。結城は、堀ならすぐに『伊達昌幸』の謎を解いてしまうのではないか、と思った。それは本来、嬉しいことのはずであったが、なぜかそのことに不安を感じている自分に、結城は戸惑っている。俺は仲間を裏切ろうとしているのか? 俺はこいつらと優勝を目指して、ここまでやってきたんじゃなかったか。
バッターボックスに一番の猿渡が入った。伊達昌幸元い、荒木昌美がマウンドでそれを迎える。驚異のマジックベースボールの、開演の時間である。
昌美が最初に選んだ球種は、『魔球・重い球』だった。彼女と対戦し、この魔球を体験した者たちは、皆が皆口を揃えて「球質が重く感じました」と記者の取材に答えている。それも当然だった。これは公式球(一四五グラム程度)を別の物にすり替え、実際に重い球(三キログラム程度)を使うという荒技だったのだ。
「大きいお尻ですねえ。彼は小柄ですが、充分に一流選手の条件を満たしています」
とテレビの解説者は言ったが、その不自然に膨らんだ臀部には、マジックに必要な道具一式が隠されている。彼女はさりげなくそこへ手をやると、目にも止まらぬ早業で公式球をすり替えた。サインを送って、捕手と意思の疎通をはかる。『伊達昌幸』は第一球を、自信をもって投げ込んだ。
円盤投げのような肘を曲げないフォームで投げられたその『重い球』は、山なりに近いなだらかな軌跡を描いた。猿渡、一瞬の戸惑いのあと、タイミングをとり直してジャストミート。しかしボールはすぐに勢いを失い、結果はピッチャーゴロとなった。猿渡は、その重い球を実際に体験し、驚愕した。
(なんという重い球質。あれをヒットにするなんて、相当のパワーがいるぞ……)
続く二番の高原には、『魔球・止まる球』が選ばれた。昌美は猿渡を打ちとったあと、捕手との間に誰にも気づかれずに三本のメゾピアノ線(ピアノ線の千分の一の細さでほとんど肉眼では見ることができない。それでいて強度は四倍であり、その使用には危険が伴うので一般の人間には購入が許されていない。無論、3D五感テレビでも再現不可能)を張っていた。球速を完全にコントロールするためだった。今度は彼女は普通のフォームで投げた。時速一〇〇キロほどで直進するボール。高原はタイミングを合わせてスイングを開始した。しかしボールは、直前でぴたりと止まった。ただただ、空間に浮かんだ状態で静止したのだ。高原はつんのめり、バットを完全に振り抜いてしまった。するとボールは、するすると再び進みだした。ボールは四次元的なタイムラグを演出してみせて、結局はキャッチャーミットにまで到達した。この公式戦初披露の魔球に、スタジアムは騒然となった。そんな騒ぎの中、高原は三球三振。ベンチに戻りながら、彼は冷や汗を垂らしていた。
(物理学的におかしいだろう……あんなスーパーチェンジアップ、誰が打てるっていうんだ……)
次の打者は北田だった。前の試合でヒーローとなり、自信を深めていた彼は勇んで打席に入った。球質が重かろうが、俺にはパワーがある。球が止まったとしても、ボールをよく見れば対応できるはずだ。そういう彼に選ばれた球種は、伊達昌幸を一躍スターダムに伸し上げた、『魔球・消える球』だった。
この魔球の正体は、投げていない、というだけのことに過ぎない。ボールを投げる振りをして、一瞬で手の中に隠す。錯覚と小道具を駆使するそのやり口は、数百年前から存在する奇術師の常套手段だ。奇術師一家に生まれ、物心ついた時から英才教育を受けてきた昌美には、そして多くの観客の前で幾度となくぎりぎりのステージをこなしてきたプリンセス昌美には、たとえそれが衆人環視の中でも、その程度のことならば朝飯前のことだった。しかしそれだけではこの魔球は完成しない。投げていないことを疑われるからだ。そこで活躍するのが、このパズルを完成させるためのもう一つの不可欠なピース、真田野球部のナンバー2、捕手の稲田信夫だった。昌美が消える魔球を投げる度、彼はミットに別のボールを忍ばせ、恰も何かをキャッチしたかのようにその左手を唸らせる。そして『バスン』という到達音をポータブルプレイヤーで発し、主審から「ストライク」のコールをいただくのだ。最初この投球は物議を醸した。ボールははたしてストライクゾーンを通過しているのか、という議論が、審判団によって行われたのが原因だった。しかし稲田の絶妙の仕草が、その投球をストライクにさせた。まさに、昌美一人では完結させることのできない、マジックベースボールの真髄だった。
「こら! 北田! ボールをよく見ろ!」ベンチから喜与川がメガホンで叫んでいる。
(うるせえ! よく見るも何も、)
と心の中で言い返しているうちに、北田は続く二球を見逃し(見逃すも何も見えていない)、何もしないうちにその打席を終えることとなってしまった。
(今まで鍛えてきたこのリストも、動体視力もバットコントロールも、何もかもが役に立たないじゃないか!)
たった一打席で自信を失った。これはまずい。根本的な何かを解決しない限り、この投手からヒットを打つことはできないぞ。それは北田だけのことではなかった。そのような疑念が、全てのナインの頭の中を占領し始めていた。




