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第31話

  私立生情井女学院三年 ウグイス嬢アルバイト 上原由香


  「五番、ピッチャー、宇賀神君。背番号、付け忘れ」

 着替えをするということで沢井に席を外してもらい、桜田翔平から秘密のローションタンクが外された。そしてそれを、宇賀神栄太郎のその大きな背中に装着させる。そのサイズは彼の身体からすればかなり小さくはあったが、装備不可、ということもなかった。しかしナインの心配は消えない。宇賀神に、あの宇賀神に、桜田の代わりができるはずがないのだ。それでもその立候補を却下できなかったのは、宇賀神の尋常じゃない気迫と、彼ら自身の体内に残る、勝利への未練だった。

「本当に、大丈夫か?」

 堀が言った。「ローション投法はかなりのセンスがいる。お前の人並み外れた握力は、この場合、逆効果になるんだぞ」

「わかってまっさ」

 宇賀神は、自信と不安が半々といった顔つきで言った。事実、彼の内心はまさに、対極するそれらの感情の陣取り合戦といった様相だった。しかしそれでも、彼は前へ進まなければならなかった。ここで立ち向かわなかったら、僕は一生友だちができないだろう。僕にはできる、僕にはできる。僕にはみんなを笑顔にできる、特別な才能があるんだ!

 宇賀神は、その巨大な掌を先輩らに見せた。

「このギザギザの掌が、何もかもを、がっちりと掴むとです」

 その場に居合わせた九人の布王子が、一斉に息を飲んだ。


 球場に、アナウンスが流れた。

『塗李高校、選手の交代をお知らせ致します。ピッチャーの桜田君に代わりまして、宇賀神君が入ります。五番、ピッチャー、宇賀神君。背番号、付け忘れ』


 大会屈指のエースの降板劇に、観衆が渦のような大きなどよめきを起こした。その中で、

「宇賀神……!」

 と叫ぶような声を洩らした男が一人。青田学院の、合田高次だった。

(お、お前のあの、糞みたいな屁みたいなどうしようもないあの努力が、今ここに……!)

 合田高次、男泣き。宇賀神、俺がついているぞ、お前のコントロールは立派なものだ、自信をもって真田打線に立ち向かえ!

 真田高校の二番打者がバッターボックスに入った。マウンドには身長二メートル、体重百キロの胴長短足リリーフピッチャー。全ての観衆がその巨躯の一挙手一投足に注目した。初めての出場、初めてのマウンド、初めての大観衆。そして何より、初めての主役。宇賀神は今、世界の中心にいるような気がして、目も眩む動揺に完全に我を忘れていた。異常な脈拍が異常な発汗を誘う。彼は深呼吸をして、NG項目を一つ一つ、その小さな頭脳に思い浮かべていった。

(デッドボールは駄目、ワイルドピッチも駄目。とにかく、ノーバウンドで堀先輩の所まで投げるんだ)

 再開の合図を受け取って、彼はプレートに足を載せた。ボールをグラブの中に入れ、宇賀神栄太郎は慣れない手つきで右腰の金具を引く。十分前にあけられたばかりのグラブ中央の錐穴から、少し多めのローションがホースを伝って飛び出した。ボールは、ぬるぬるになった。

 人生初の公式戦。だけでなく、夏の甲子園準決勝という大舞台でのローション投球。彼はそろそろと両手を上げ、ひどくぎこちないフォームで、その第一球を投げ込んだ。すると彼の投球は、審判の頭上のあたりに向かってすっ飛んでいった。堀が飛び上がってなんとかキャッチする。場内、またしても騒然となった。

『おいおい、大丈夫かよあのピッチャー』

『球速も遅いしコントロールも悪いじゃあな』

『桜田の代わりなんて最初から無理に決まってるんだ』

 そのような声が、観客席のあちこちから噴出した。しかし、やれる! と思った男たちが九人。宇賀神以外の塗李ナイン、布王子たちだった。

(初めてのマウンドで、しかもぬるぬるピッチだってのに……お前って奴は!)

 医務室で横になりながら、中継映像の宇賀神を見つめて翔平は思う。あの大男が、あの愚直なだけの大男が、何も知らずに初めて部室の扉を叩いた時のことを。

(栄太郎! 思う存分やれ! もしお前がとちっても、全責任はこの俺がとる!)

 宇賀神本人は、それどころではなかった。マウンドの傾斜が、彼にとっては計算外だった。塗李神社にはこんな山はなかった。ボールが上擦ってしまう。どうすればいいんだ。

 それでも、この任務を中途で放棄するつもりはなかった。彼は人生で初めて、目の前の隘路に本気で取り組む決心をしていた。なんとかストライクゾーンに投げようと、手首や踏み出す脚の感覚に気をつけた。そして、第二球を酷暑に揺らぐ、陽炎のような運命に向かって投げ込んだ。

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