第30話
神奈川県立塗李高等学校三年 野球部主将 桜田翔平
「触るなこの野郎ッ!」
テントを訪ねても昌美はいなかった。結城は途方に暮れてとぼとぼと帰路についた。宿舎に戻った頃には、時刻は既に午前零時を過ぎていた。大部屋に入ると、室内は真っ暗になっていた。
「おい結城、女か?」
暗闇から声がかかった。高原の声だった。すると他からも、次々と声が飛んできた。お前意外とやるな、沢井先生ごまかすの大変だったんだぞ、結城先輩の彼女かわいいですか。結城は苦笑した。彼らの声を聞くと、不安が消し飛ぶようだった。
「彼女というかさ、こっちで好きな子ができたんだ」
どこまで話したらいいか、と迷った。その子が次の対戦相手のエースだなんて知ったら、みんなはどんな顔をするだろうか。すると皆がこぞって、秘密の告白をし始めた。実は俺もなんだ、と言い、彼らは次々とiSchoolを開きだしたのだ。暗闇の中に、それぞれの愛しのステディー(と言っても桃腿ハニー)の画像が浮かび上がる。宇賀神までもが紹介を始めたので、暗闇に笑いが広がった。昌美のことで困惑していた結城も、一時の安らぎを覚えることができた。
しかしそれでも、彼は昌美の画像を皆に見せることができなかった。見せたら、昌美の正体が伊達昌幸だと気づく者がいるかもしれず、そうなると、次の試合で何かしらの影響が表れてしまうかもしれないからだ。昌美に迷惑はかけたくない。しかし、野球部の仲間にも、その思いは同じだった。
八月二十日、午前九時三十分。準決勝第一試合、真田高校対塗李高校の開戦を告げるプレイボールが、主審の青島貫一によりコールされた。ピッチャーズマウンドに最初に上がったのは、後攻の塗李のエース、桜田翔平だった。
(あと一つで決勝、そして最後には化物打線の播磨灘高校と戦うことになるだろう。しかしあとのことは考えるな、今は目の前の敵、真田打線に集中するんだ)
翔平はそう自分に言い聞かせると、ベルトの右側から顔を出した小さな金具を、右手で軽く引き絞った。グラブからローションが飛び出す。ボールは、ぬるぬるになった。
振りかぶると、サイレンが球場に轟いた。早い時間だというのに、球場は既に多くの観客で埋め尽くされている。翔平のこめかみから一筋の汗が流れ落ちた。照りつける太陽光線が、彼の皮膚を、じりじりと焼いた。
(俺の中に滾るこの熱い血潮! 受け取れ真田打線! 俺たちの血管には、血よりも赤いローションが流れている!)
翔平はボールを投げ込んだ。真田の一番打者が、初球から手を出した。ハイドロプレーニング現象は今日も起こり、打球はセカンドフライとなった。がっくりと肩を落とす真田の一番打者。今日も快調な滑り出し。あとは五試合連続の完全試合を達成するのみだ。
しかしなぜか、彼の眼前は土色だった。しばらく、何が起こったのかわからなかった。
観衆は、マウンド上で起こった見慣れない光景に目を剥いていた。塗李のピッチャーが顔から突っ伏して、尻を突き出してもがいている。いや、正確には、もがくことすら許されていない、といった有様だ。ぴくぴくと、不規則な痙攣を起こしているではないか。
翔平がたった一球で無力化したことに、塗李ナインでさえもすぐには気づかなかった。喜与川などは、この大一番でふざけるなんて相変わらずお茶目な奴だ、などと、センターの守備位置で笑っていたほどだった。ところが、翔平がなかなか起き上がらなかったことにより、さすがの彼も不安を覚え始めた。マウンドに倒れた少年がぴくりとも動かないので、五万を越える観衆もどよめきをつくり始めた。
「どうしたんだおい?」
マスクを取って駆け寄った堀が、翔平を抱き起こそうとした瞬間だった。
「触るなこの野郎ッ!」と翔平が叫んだ。驚いて、ぱっと飛び退く堀。続々と集まるナイン。脂汗に塗れながら、翔平はなんとか声を絞り出した。
「いたいよー」
桜田翔平に、ぎっくり腰が発動していた!
そのことを知ったナインは、それと同時に、塗李高校の戦闘力が限りなくゼロに近い一、になったことを悟った。あっけなく終わった。俺たちの夏は、こんなにもあっけなく終わってしまったのだ。皆が肩を落とす中、部長の沢井が、声を張り上げてやってきた。
「よくやったわ、みんな本当によくやった。桜田君はこの前の試合でたくさん投げたんですもの、もうこれでいいじゃない」
彼女は涙を流していた。係員が医師を伴って担架を運んでくる。そして医師が、彼を診察しようとした時だった。
「触るなこの野郎ッ!」
と翔平がまたしても叫んだ。しかしすぐに平静をとり戻し、彼は言い直した。「いやすいません、でも僕は、仲間に担架に乗せてもらいたいんです。一緒に戦ってきた仲間ですから、どうせなら最後も、彼らに送り出してもらいたい」
面倒臭い奴だな、と喜与川などは思った。しかしそれは、背中のローションタンクに気づかれるのを恐れた、翔平の咄嗟の言い訳だった。そのことをすぐに察した堀や島袋が、翔平の身体をそっと担架に移した。彼は苦痛に顔を歪め、獣のように呻いた。
ベンチ裏まで運ばれた彼は、そこでも医師の診察を拒否した。
「まだ試合は終わっていません。彼らと少し、話をさせてください」
そう言って、医師らに退出を求めた。医師らはそれを許可しなかったが、翔平が強情を張ったので、五分という条件つきで退出した。
「もう試合は終わったも同然だ。どうしろって言うんだ」
それを言ったのは北田だった。これに沢井が同調した。
「そうよ、みんな頑張ったわ。もうこれでいいじゃない」
しかし翔平は認めない。試合を終わらせてなるものか、という気迫が、彼をぎりぎりのところで支えていた。寝そべりながら、苦し気な声で、言った。
「なんのために宇賀神がいるんだ、俺はまだ諦めないぞ、日本一になるんだ、それが目標だったじゃないか」
痛みに耐えながら、翔平は続ける。彼は倒れた瞬間から、頭の中で作戦の変更を組み立てていた。
「宇賀神、お前はサードに入るんだ。拭き取りは迅速に、そして慎重にやれよ。そして高原をサードからショート、ショートの結城がピッチャーだ」
「待て、俺にお前の代わりはできない」
結城の弱気に、翔平が叱咤した。
「馬鹿言うな、お前は一年前まで、ピッチャーだったじゃないか」
「だからって」
そこまで言って、彼は沢井のことを気にしてから、言葉を濁らせて小声で言った。「あの状態のボールを、お前みたいにしっかりとコントロールなんてできない。やってみたことはあるが、どうしてもうまくいかなかった。俺には無理だ」
翔平は痛みに耐えながら、なるべく声を励まして、言った。
「馬鹿野郎、お前以外に誰がいるんだ、今、この窮状からチームを救い出すには、それ以外にないんだぞ」
そう言われても、結城には自信がなかった。ローションの付着したボールを思い通りに投げるには、相当のセンスがいる。強く掴めば飛び出していくし、やさしく掴んでも飛び出していくのだ。ローションとは、そういった性質の液体なのだ。更には、本大会に入ってからは、宮沢に贈与された宇宙規格の物を使っている。破壊力が増した分、取扱いの難易度も上がっていた。もし暴投でもしようものなら、それだけで全てが露顕することになるだろう。そうなれば、敗北以上の屈辱が待っているに違いない。そんな重大な責任を負う、心の準備もできていなかった。
「お前ならできる!」
翔平の励ましにも、結城は応えられなかった。皆が下を向いている。ほぼ全員が、不戦敗を覚悟し始めていた。
その時、
「わいが投げまっさ」
と出し抜けにそう言ったのは宇賀神。何を言いだすんだ、という皆の視線が集まる中、宇賀神は些かも怯まずに続けた。
「人生を懸けたんでっしゃろ。失敗したら、みんなで恥かけばよか」
それは彼らしくない、意外にも力強い語気だった。塗李のゴーレムが泥の中で、感情の炎に揺らめいている。




