第26話
藤岡猛鍼灸院 院長 藤岡猛
「俺たちは、あの少年の熱量に気圧されている!」
二十五回、二十六回、二十七回と、塗李高校はそれまでと変わらず、攻撃をたった九人で終わらせていた。しかしその凡退は、それまでとは決定的に違う意味をもっていた。ある程度の故意、が、その凡退にはあった。
九人に投じられた球は全部で三十二球。その全てで宮内は、グラブから飛び出した右手の人指し指で、アンダーシャツの上から左腕を触っていた。木戸ご自慢の鼈甲フレームの眼鏡が、その動きをズームアップ撮影している。眼鏡とiSchoolを赤外線で繋ぎ、映像を呼び出して解析を行うのだ。
触れている場所が毎回、微妙に違うことがわかった。その動きと投球内容を、皆で照合していった。そして動作別に整理をしていくと、驚くべきことに、同じ投球の前には必ず同じ動作が行われていたことがわかった。サンプルは僅か三十二球しかなかったが、球種とコースに関しては、ほぼ正確と思われる分析結果が出た。
「スイッチを押してるってこと? ロボットだってこと? そんなの、反則じゃない!」
驚きの表情で騒ぎだした沢井を、高原がまあまあと宥めた。
「先生、違うんです。ロボットみたいに毎度正確に同じような癖を見せる選手がいる、って話なんです。そこを突いていくのも、このスポーツの醍醐味なんですよ」
それを聞いた沢井は、すっかり感心してしまった。なんて奥の深いスポーツ! きっと相手チームも、桜田君の癖を盗んでいることでしょう。
ナインとしても、相手の反則を咎めるつもりなどは毛頭ない。たとえ相手が機械でも、彼らにはローションベースボールがあった。反則対反則の正面衝突。甲子園は準々決勝に入り、いよいよ爆裂的な迫力を帯び始めた。
二十八回の表。この回から塗李は、データに基づいた積極的な攻撃に転じることを決めていた。最初の打席に入ったのは、一番打者の猿渡。捕手のサインに頷いたあとに左腕に触れた宮内を見た彼は、一塁コーチャーの木戸に目をやって、球種とコースを伝えるサインを受け取った。スクリューボール。彼は膝下に沈む凶悪な宮内のスクリューを思い描くと、スイングのイメージをそれに合わせた。そして宮内が投球を開始し、ボールが放たれると、懸命にそれを打ちにいった。結果、猿渡はファーストゴロ。しかしナインはそれで、大きな手応えを掴むことができた。コースも球種も正解であり、それがわかれば対応できるということが確認できたからだ。続く二人も内野ゴロに倒れたが、ナインの士気を上げるに、それは充分な内容だった。
三者連続でバットに当てられたことにより、宮内は焦りを覚えだしていた。どういうことだ? 対応されてきてるのか? たしかに十回り目に突入してはいるものの、それで捕まるようなレベルの投球をした覚えはなかった。しかし続く二十九回の表に、堀、桜田、島袋にも連続でバットに当てられると、彼はその原因をやはり、自分の投球の質に求めた。自信が揺らぐ。動揺が加速する。桜田を打ち崩せない味方打線の腑甲斐なさは、彼の中では敗北の言い訳にはならない。そして三十回の表。先頭打者の結城に執拗にファウルで粘られると、彼は遂に、我慢ができなくなった。アンダーシャツの上から『SasakiTark』のコントロールパネルを開き、鋼鉄の左腕に禁断の指示を出したのだ。
「おい佐々木、まさかあいつ……」
藤岡は言いながら、宮内の左腕と同期をとっている小型の端末を開いた。「やっぱりそうだ。あの馬鹿、バットに当てられ始めたことで、焦ってやがる。リミッターを解除して、動力源に最大の負荷をかけるつもりだ……」
佐々木はマウンドを見つめたまま、その顔を青ざめさせている。
「圧をかけ続けたら、お前に残された本当のお前の部分も、破壊されることになりかねんのだぞ……」
潜在する高出力を抑え、低中回転時の安定したパワーを常用するのが機械の基本だ。そのため、宮内の左腕も本来のポテンシャルを抑え、五五馬力という仮の限界値が設定されている。それを、外した。だけでなく、宮内は過給圧を加え、未知の領域に足を踏み込もうとしている。問題は宮内が、完全な機械体ではない、ということだ。彼はあくまで人間であり、人体の限界と機械の限界は、別なのだ。
もちろん、宮内もそのことを知っているはずだった。それでも彼がその決断をしたのは、それだけ塗李に追いつめられているということなのだろう。そしてそのことを認めてしまった彼は、改造人間のくせにムキになっているのだ。しかし、そこまでわかっていても、藤岡は宮内を止めることができない。それは隣りに座る佐々木も同様で、彼らは少年の束縛(実行力という意味においても)を放棄していた。大事な選択は本人に決めさせてやりたい。それが彼らの、かつての自身の体験からくる言い分であり、それは越権を常習とする未成年を指導する者たちに対する嫌悪、そして意地、の表明でもあったのだ。
(俺は、俺たちは、あの少年の熱量に気圧されている。少年の不幸を恐れているはずだのに、それと同じくらい、あの少年の笑顔を望んでいるのだ!)
宮内が直球を投げ込んだ。ボールがキャッチャーミットに炸裂する。直球とわかっているはずの結城が大きく振り遅れる。電光掲示板を見ると、球速が一七三キロと表示されていた。観客がどよめく。ベンチで、堀が呟いた。
「なんかわからんがあいつ、次のステージに上がっちまったぞ」
せっかく球種とコースを正確に読めるようになったところで、仕留める前に、力で捩じ伏せにこられた。塗李ベンチの雰囲気は、再び通夜のように落ち込んだ。
続く喜与川の打席も木戸の打席も、宮内は超速球で挑んだ。二人とも未知のスピードボールに完全に振り遅れ、結局塗李は、三者連続三振。再び宮内の奪三振ショーが始まったかと思われた。しかしそれは、消える直前に激しく燃え上がるロウソクの炎のそれだった。宮内はベンチに戻ると、『SasakiTark』がフリーズ直前になっていることに気づいた。
(畜生、どうしたっていうんだ、これくらいのことで、もう限界だっていうのか)
彼はベンチ裏にいき、誰にも気づかれないところで左のアンダーシャツの袖を捲ると、そっと画面を覗いた。すると、『ダブルタイフーン』のバックグラウンドで、アンチウイルスソフトが勝手に起動していたことがわかった。
(アダルトコンテンツを落とす時に導入したやつか。驚かせやがって)
彼はその常駐ソフトを、一時的に停止した。そして袖を元に戻すと、再びベンチに戻った。すると西東工の攻撃は、その短時間で既に二死となっていた。彼はバットを握って、十度目の打席に向かった。
(やれやれ、いつまで続くことやら)
宮内も、すぐに打ちとられた。
そして三十一回の表、先頭打者の猿渡を一七七キロの速球で三振にとった時だった。またしても彼の左腕が、鈍い反応を示した。
(なんだよ、ブーストアップが解除されてやがるのか? どころか、クールダウンに向かっているようだ。どうしたっていうんだ、クソ!)
彼は、シャツの上から各アプリを操作できるスキルを身につけていたが、コンピュータの不具合の確認までは、衆人環視の中ではすることができなかった。どうするか、と少しだけ逡巡したが、仕方なく、この回だけは変化球を駆使して凌ごうと思った。
しかし、二番打者の高原に投げたカーブは、今までにない力のない球だった。それを痛打され、彼はこの大会初の、二塁打を許してしまった。もう一度ブーストアップを指示する。しかし彼の筋肉は、高負荷時に発せられる例の独特の熱を、その左腕から感じとることができなかった。不安が高まっていく。敗北の予感が彼を襲う。しかし彼は進む。改造ピッチャーに生まれ変った今、投げることを拒否することは、死を選ぶことと同義なのだ!
宮内志郎は、全身を巡る異常な発汗に気づかぬまま、塗李一のクラッチヒッター、北田広太を打席に迎えた。




