第25話
神奈川県立塗李高等学校一年 野球部補欠 宇賀神栄太郎
「まるで機械みたいズラ……」
宮内を初めて体験した時、北田広太は自分の考えの甘さに打ちのめされた。リニアモーターラインのような超速球のあとに、買物帰りの主婦の操る自転車のようなチェンジアップ。ボールがキャッチャーミットを鳴らしてからスイングを始めたり、スイングをすっかり終えてから悠々と通過していくボールを眺めるなどは、屈辱を通り越して面白ささえ感じられる、いつまでも信じ難い驚異の体験だった。その迫力はあまりにも異次元過ぎて、彼はまるで世界最大の瀑布を発見した冒険者のように、あんぐりと口を開けてただただ圧倒された。遅れて彼は、不意に目を輝かせる。アンパイアがスリーアウトチェンジの宣告をしたあとも、バッターボックスでしばらくその余韻に浸るほどの放心だ。
「北田はん、ほれ」
宇賀神にファーストミットを渡されて、北田はようやく我に返った。ああすまん、と彼は言って、ヘルメットとバットを宇賀神に渡した。彼が守備位置に着いた頃には、既に内野でボールがまわされていた。桜田がマウンドをならしている。北田は内心で話しかけた。
(今日は長丁場になるかもしれないぞ。俺たちが奴を攻略するまで、お前が投げ続けられるかどうかだ)
西東工の一番打者がバッターボックスに入った。この時、この試合の行方に一抹の不安を覚えていた者は三人。猿渡と高原と北田、そう、宮内の体験者たちだった。しかしその人数は、一回の裏が終わった頃、倍となる。そう、桜田の体験者たちも、これに加わったのだ。彼らは北田と、全く同じことを考えた。
(今日は長丁場になるかもしれない。宮内のスタミナは無尽蔵だが、なるべく早く、この謎の投手を攻略しなければ)
試合はあっという間に三回裏まで進み、二死になって宮内が打席に立った。彼は九番打者だった。元々は打撃も得意であったが、左腕の重量が右腕の1.75倍になったことにより、フォームのバランスを崩して打撃の調子を落としている。『打撃タイフーン』はない。打席では自力で戦わなければならない。
そして桜田のピッチングを見た時、彼は素直に驚いた。全ての球がストレートで、球速は時速一二五キロ前後。そして全てが、ストライクゾーンを静かに通過していく。だのにこれまで、甲子園でこの投手からヒットを打った者はいないという。宮内は、面白い、と思った。どんな仕組みかはわからんが、おそらくこいつも俺と同じ、反則投球の実践者。英雄はいつの時代も倫理と法律を無視していく。決して越えてはいけないと言われる非情なる黒の一線を、罪悪感を塵ほども感じずに猛々しく跨いでいくのだ。そして『自分』を、新しい『ルール』とする。ナポレオン然り、織田信長然り、そして兵頭鷹虎然りだ。兵頭が反則野郎なのかは知らないが、奴が英雄になりかけていることには間違いがない。そして奴を倒すのはこの宮内志郎の反則投球、鋼鉄の左腕(実際は鋼鉄は使われていない)以外にはあり得ないと俺は信じる。桜田翔平、お前はどこを目指している? 兵頭を倒して、真の英雄になる覚悟はあるのか? もしそうでないならば、俺を前に今ここで、早々に膝を屈するべきというものだ!
彼はあっさり打ち上げた。三回の裏が終了した。宮内を含めた、この試合の出場選手全員が、甲子園史上最長の投手戦が始まるのを、密かに予感し始めていた。
九回を終えて、両校共にノーヒット。連盟によるルール改定により、高校野球は二〇二七年より、決着がつくまで延長戦が行われるようになっている。この時点で、宮内の球数は九十二球。奪三振数二十二。桜田は五十一球。奪三振数はゼロだった。
試合はプレイボールからずっと膠着状態といった様相で、それは延長戦に入っても変わらなかった。試合は淡々と進んだが、それでいて観客は奇妙な緊張感に包まれ、試合の行方に固唾を飲んだ。テレビ視聴率は五%(この時代、チャンネル数は五千を越えていて、紅白歌合戦で八%、スーパーボウルでさえも一〇%がせいぜいとなっている)まで跳ね上がり、茶の間や通信端末で、試合の行方に息を飲む者が増えていった。
延長十五回。喜与川がぼてぼてのゴロで内野安打。これが塗李打線の初めての出塁となった。しかし続く木戸のショートゴロにより、ゲッツー。
延長十九回。ボールをよく見た西東工の二番打者が、見逃し三振。桜田翔平、甲子園大会で初めての奪三振を記録。
延長二十回と二十二回。堀がテキサスヒット、高原がバントヒット。しかしいずれも後続が凡打し、ダブルプレー。少しずつ宮内のスピードボールに慣れてくるが、球威に押されるのはどうしようもない。
延長二十四回。宮内もほとんどボール球を投げなかったし、桜田の方はほとんどの打者を二球以内に仕留めていたから、ここまで試合が進んでも、プレイボールから二時間ほどしか経過していなかった。変化に乏しい戦いなのにも拘らず、観客は注目を続ける。しかし両チームお互いが、まだ攻略の糸口すら掴めておらず、勝敗を左右するものがあるとすれば、それは両投手の体力の残量だけかと思われた。
(体力勝負になったら俺の勝ちだ。何しろ俺の左腕には、体力も糞もないからな)
宮内は捕手のサインに頷くと、左腕のタッチパネルをシャツの上から操作し、コースと球速と球種を設定した。投球が始まる。唸るような剛球が七番結城の体に向かって直進していく。しかしそれは直前で急激なシュート変化を見せると、腰を引かす打者を嘲笑うかのようにストライクゾーンへと路線を変更した。何度見ても慣れない。結城は歯を噛んで悔しがったが、今回も、何もできなかった。
「全然球威が落ちていない……」
ベンチの片隅で木戸が言った。「たしかにイニング数にしたら異常な球数の少なさだけど、それでも宮内は既に二百三十九球を投げてる。それなのに、序盤と比べて全く勢いを失っていない……」
誰に言うでもない木戸の言葉に、誰もが反論できなかった。その中で、「まるで機械みたいズラ……」と言ったのは宇賀神。それは、機関車のように驀進し続ける宮内志郎に対する、宇賀神なりの率直な感想だった。
しかし、この言葉に反応した男がいた。それは、非力ながらも塗李の四番を任され続けてきた、副主将の堀だった。
「宇賀神、今、なんて言った?」
「え?」
「今なんて言ったんだ」
宇賀神は怒られるのかと思い、頭を抱えてごまかした。
「いや、なんも言っとらんですハイ」
「嘘をつけ! お前は今、機械みたいだ、と言ったんだろう!」
聞こえてるやおまへんか、という言葉をぐっと堪え、宇賀神は頷いた。
「だってそうでっしゃろ。宮内はんは左腕だけ別の生きもんみたいに、ずーっとへんてこなフォームで投げてます。機械みたいやって、ずーっと思てましたんや」
「なんで早く言わないんだ!」
堀の剣幕に、皆が気づいて集まってきた。どうしたんだ? と翔平が尋ねると、堀は静かに話し始めた。
「最初から気になっていたんだ。宮内は毎回、捕手に向かって頷いている。ここから、配球を決めているのは宮内でも監督でもなく、捕手だということがわかるだろう。しかしなぜか、奴はサインに頷いたあと、自らもサインのようなものを出す。グラブから出ている右手の人差し指で、左腕のあたりをちょこちょこっとやるんだよ。何をしているんだろうって、ずっと気になってた」
さすが堀だ、とナインの皆が思った。堀は相手投手の癖などを盗むのが得意で、予選大会で六割、本大会に入っても四割五分を越える打率を残してきた、頭脳派の強打者なのだ。その堀のアドバイスで、皆もだいぶ助けられてきた過去がある。北田が、待ち切れないといった様子で、結論をせがんだ。
「早く言え。現状を打開する、最後の希望かもしれねえぞ」
すると堀は、落ち着け、と手で制した。
「俺も答えがわかっているというわけじゃない。しかし宇賀神の発想を聞いて、まさかとは今でも思うが、朧げながらも攻略のきっかけが見え始めた。まずは奴の投球フォームだ。昨年までの宮内は、全身を使ったダイナミックなフォームをしていたな? しかし今はどうだ、左腕一本で投げているような素人みたいな投げ方じゃあないか。それでいてあのコントロールとあの球威、そしていつまでも落ちる気配のない体力。宇賀神の言う通り、奴は機械なんじゃないかと疑いたくなるぜ。そこでだ。最低でもあの左腕だけは機械でできているんだと、そう仮説を立ててみてもいいんじゃないか、というわけだ」
皆が絶句した。結城が凡退に終わり、打席に喜与川が向かう中、堀は自らを落ち着かせるように、ゆっくりと話を続けた。
「奴は捕手が要求するボールを機械の左腕に毎度命令している。そう仮定して、攻略をしてみよう。喜与川の次は木戸だったな? いいか木戸、この打席は捨てろ。奴の右手が左腕に命令する動作を覚え、その時のコース、球速、球種をしっかりと頭に叩き込んでくるんだ。もちろん、ベンチにいる俺たちもそれをやらなくちゃいけない。そして充分なデータが集まったら、しっかりと検証し、確認をとる。たしかにあれはただの癖で、無駄になるかもしれない。しかしこのまま黙ってやられているよりかは、意味がありそうだろ?」
堀の言葉に、木戸が眼鏡を押し上げた。
「僕がこの時代に未だ眼鏡を愛用しているのは、こういう時のためなんです」
そう言って、ネクストバッターズサークルに歩いていった。打席では喜与川が、ツーストライクまで追い込まれていた。




