第21話
私立札幌薄野桃腿学園三年 ハニートラップ隊隊長 大宮可奈子
「なまらかっこいい!」
羽ばたけぬるり
輝くぬるり
ぬるり ぬるり
おお 我らが 塗李高校
八月十一日の第一試合終了後、阪神甲子園球場にて、二度目の塗李高校校歌が高らかに斉唱された。札幌薄野桃腿学園を相手に、二試合連続の完全試合を達成した塗李高校のエース、桜田翔平は、インタビュアーに現在の心境を訊かれ、こう答えている。
「僕だけでなく、ナインは皆、心身共に気力が漲っています。それもこれも、桃腿学園の関係者である、皆様方のおかげなのです」
この答弁の模様をpinkSpyで視聴した大宮可奈子は、アルプススタンドの片隅で、なまらかっこいい! と心の中で叫んだ。敗者の気持ちを思いやれる心やさしい人間が、あたしの初めての彼氏になるなんてことはどんな確率かしら。そしてその彼は、甲子園という大舞台で優勝するの。こんなすてきなことが、この世界のどこにあるというのでしょう。
ふと我に返ると、涙を流すハニートラップ隊の面々が目に入った。大宮は、彼女らを集め、やさしく語りかけた。
「涙を拭きなさい。そして誇りに思いなさい。たしかに私たちの夏は終わってしまったけれど、私たちを倒したのがあのような勇者たちであったことに、感謝するべきだわ。今の私たちにできることは、勝者を称え、尊敬することです。無念の想いを桃色に変え、感謝の気持ちを込めて、あの栄光の戦士たちに伝えにいきましょう。そして彼らに、これまで以上の勇気を吹き込む必要があります。それこそが、敗北者である私たちの、正しい姿勢なのだから」
隊員の一人、丸山清美が言った。
「隊長、これじゃああたし、SPDに入れないかもしれません」
大宮はやさしい口調を崩さなかった。
「そんなことはないわ。あなたはかわいらしく、そして心の強い、現代に蘇ったナイチンゲール。あなたは担当の木戸君と、今日もデートの約束をしているわね。それは元々は、試合に集中させないための私たちの作戦だった。しかし今は違う。そのデートは、彼らに明日への活力を与えるという、新しい重要な意味をもったの。そしてもし、彼らがこの大会の頂点に立ったなら、それはイコール、あなたの実績にもなるでしょう。なぜならそれこそが、本当の意味においてのアイドルの存在意義だから。違う? あなたはまず、木戸君のアイドルになることから始めるべきだわ」
そうやって大宮は、それぞれの隊員たちに慰めの言葉をかけていった。その最中でも、彼女はずっと桜田のことを考えていた。ああ、翔平さん、私は今、恋の奴隷なの!
ドーピングコントロールによる塗李ナインそれぞれの採尿検査の結果が、試合終了の数時間後に部長の沢井のもとに届けられた。
「熊川先生、あたしよくわからないんですけど、全員が『蛋白+』って出ているんです。ドーピングに関しては問題なかったようなんですが、これって健康的に、大丈夫なんでしょうか」
すると熊川はこう答えた。
「何を今更沢井せんせ。彼らはいっつも蛋白+。予選の時もそうだったし、大会前も一回戦も、彼らはいっつも馬鹿みたいに蛋白を垂れ流していたわよ」
「そ、それって、何が原因なんでしょうか……」
「そうねえ。それはおそらく……」
熊川の推理を聞いて、沢井は部屋を飛び出した。そしてナインの集まる大部屋に入ると、検査結果を彼らに突きつけた。
「あなたたち、恥ずかしくないのッ」
青田学院の宿舎に向かう合田高次は、この時既に、塗李ナインの検査結果を裏ルートで入手していた。それによると、やはり彼の予想通り、彼らは蛋白を失っていた。アスリートが、激しい運動をする直前にこれだけの蛋白を失っていては、パフォーマンスが大きく低下するのが通常だ。しかし彼らは、それでも試合を物にした。投手桜田だけでなく、打線の奮起は一回戦をも上回り、一二対〇で完璧な勝利を収めている。
(桃腿の戦略を知った時には慌てたが、まさかローションでそちらの方も鍛えていたとはな……俺の心配は初めから杞憂だったわけだ。それにしても死角がない、恐るべし、塗李のローションベースボール。そして遂に、奴らは我々青田学院と対決するところまできた。さて、どうするか……)
合田の心は、この期に及んでまだ、揺れていた。青春とは、いったいなんだろう。この俺の屈折した信念を、塗李、お前たちは打ち倒してくれるのか。
青田学院は、神戸市内のシティホテルを、滞在先に選んでいた。そのホテルのラウンジで、ソファーに座り、コーヒーを飲みながら他校の資料を読んでいたのは、野球部監督の徳川三郎だった。その彼がウェイターにコーヒーのおかわりを命じた時、扉の向こうから連絡のつかなかった合田高次が現れた。徳川は、ほっと安堵の息を吐いてから、ふてぶてしく彼を迎えた。
「お前、今まで何をやっていたんだ。他の奴を塗李の偵察に向かわせようかと思っていたところだ」
「すいません、塗李の秘密をずっと探っていました」
「それで、わかったんだろうな? あの屁みたいな投球しかできない投手が、ノーヒッターを繰り返している秘密を」
合田は言い淀んだ。彼は未だ決断ができず、まずはバッティングの方から報告しようかなどと、肝心の瞬間を先送りにすることばかりを考えていた。すると徳川が、お前に限ってまさか何も掴んでいないということはあるまいな? と笑ってみせた。
「お前は野球のセンスはまるでないが、盗撮や盗聴という姑息なことをやらせると、異常な才能をみせるからな。だから参加校の多い神奈川にお前をやったんだ。お前みたいな落ちこぼれでも、能力にあった仕事を見つけてやれば、間接的に戦力にできる。これこそがセイダーメトリクスの合理性であり、真価の発揮のしどころだというわけだ」
これはかつて何度も聞いた、徳川独自の理論だった。これに関しては、合田を含め他のスコアラーも、納得しているところである。しかし今、改めてこの言葉を咀嚼してみると、彼は不快な真実の輪廓を遂に感じとってしまった。その言葉は、彼の心に以前から燻っていた釈然としない何かが、胃から食道を一気に逆流し、大事な何かを破壊するために鼻の奥を通って脳髄に向かっていくような、そんな恐怖を合田に喚起させた。勇気をもって打開しなければならないと考えた。彼は、今まで訊くことのできなかった肝心なことを、徳川の口から直接聞くことを決断した。
「監督、報告の前に、教えてください……」
「なんだ改まって」
徳川が怪訝な顔で彼の顔を覗き込んだ。この時、合田自身、徳川の答えはわかっていたのかもしれない。そしてそれを聞いてしまったら、自分の青春が無駄であったことを認めなくてはならなくなるということまで、彼は承知していたのかもしれない。それでも彼は、その欲求を抑えることができなかった。俺に最後通告をしてくれ。そういう心境だった。
「僕は……僕は……仲間なのでしょうか……」
「何?」
「僕はみんなに、必要とされているんでしょうか、みんなに、期待されているんでしょうか、僕は、僕は、青田学院の、野球部員なんでしょうか!」
この合田の震えを、徳川は微塵も感じることができなかった。彼の不安を、彼の願望を、少しも汲み取ることができなかった。何を言っているんだあたりまえじゃないか、という顔をしてから、徳川三郎はこう言った。
「お前は野球部員だ。そういうことにしておかないと、交通費も宿泊費も出ないだろ」
この言葉を聞いて、合田はむしろ、爽やかな顔つきになった。俺は解放されたのだ。俺は俺という呪縛から、やっと抜け出すことができるのだ。彼は、いかにも清々しいといった呼吸を一つして、言った。
「ああ、やっと決断できたよ。俺はこうなるのを望んでいたのかもしれない」
「なんだと? どうしたんだ、お前……」
眉を顰める徳川に、合田は逆転の最後通告を言い放った。
「俺は今、この瞬間をもって青田学院野球部を退部する。そして徳川三郎、あんたのセイダーメトリクスは、塗李高校の全員野球を前に、完全なる敗北を喫することになるだろう」
呆気にとられた顔の徳川を置いて、合田は踵を返し、そのままホテルを出ていった。笑いながら泣いている彼を、ホテルの従業員が戸惑いながら見送った。外に出ると彼は、灼熱の夏の空を見上げた。入道雲が、グラブのような形をつくっているように見えた。
彼は歩いた。彼の足は自然に、甲子園球場に向かっていた。第三試合がちょうど終わる頃だろうか。とにかく、俺の夢があそこにあることには間違いがない。さあ塗李よ、あとはお前たちが、俺の夢を叶えるだけだ。




