第20話
私立札幌薄野桃腿学園教員 野球部監督 草刈和正
「七十分! 九十分! 七十分!」
(なんとかしなければ)
と大宮可奈子は焦っていた。このままでは隊長の肩書きも形無しだ。どういう手段が桜田に効果的なのか、それをもう一度検討し直さなければならない。
彼女は朝から桜田をマークしていた。午前中の桜田は、調整程度の軽い全体練習に汗を流し、宿舎に戻って昼食を食べては、午後はストレッチなどをしてゆっくりと過ごしているようだった。地区予選からの激戦の疲れもあってか、休息に重きをおいているようなスケジュール。それらの様子をpinkSpyで覗きながら、早く一人にならないか、と大宮可奈子は焦るのだ。
焦っていたのは、大宮だけではなかった。結城裕樹を担当する川島かおるも、実は前日の作戦で失敗していた。昨日の結城は、神戸市内に一ヶ月限定で訪れている奇術団の興業を見物していた。その客席の混み具合が凄まじく、どうしても彼に近づけなかったのだ。
宇賀神栄太郎を担当した太田花恵も同様だった。宇賀神は、人気のない公園で何やら棒のような物を掴み、うおううおうと怪物のような奇声を発していた。その様子に太田は怯み、昨日はとうとう、宇賀神に近づくことすらできていなかった。
日が傾き始めた頃、ナインが、今日も自由行動を、と沢井にせがみ始めた。沢井は、彼らからの感謝の眼差しが忘れられず、それでも自分では決断ができず、結局、いつものように熊川に相談することにした。熊川は、沢井と泊まっているツインの部屋にいた。
「駄目に決まってんじゃない」
と熊川は、便器に顔を突っ込んでは嘔吐しながらそう言った。「ガキにはまだ、大阪ナイトは早過ぎる」
さすが熊川先生、と沢井は思わざるを得ない。子供たちに気に入られようと、なんでも許可してしまうような甘さを見せない。これぞ教師! 飴と鞭の黄金比率! 彼女は尊敬の念を抱きつつ、大部屋に戻った。
「外出は許可できません。あなたたちはまだ高校生、しかも大会中です。基本的には大会主催者も良しとしていませんし、出場停止になどなりたくないでしょう?」
彼女の言葉を聞いて、ナインの心は沈んだ。沢井はすぐにそれに感づいたが、彼女は教師として、けじめのつけ方というものを示さなければならなかった。
「いくら野球が上手でも、こういうことが守れないようでは駄目なの。あなたたちは今、人間としてとても大事な時期を迎えているのよ」
これに対して、ナインは、わかりました、と言った。全員が素直な表情でそう言ってくれたので、沢井はあわや、涙が零れそうになってしまった。教員になってよかった。彼らという素晴らしい生徒たちに巡り会えて、本当によかった。私は教師であるはずだのに、生徒である彼らに教育してもらっているの。ああ、お父さんお母さん、私は今、まさにそのことを実感しているのです!
夕食を終えて一時間後の午後七時。塗李野球部十人のうち、桜田翔平を除いた九人が、次々と宿舎を抜け出していった。
風呂から上がって大部屋に戻ってきた時、まだ七時を過ぎたばかりだというのに、部屋が暗くなっていることに翔平は驚いた。みんな疲れているのかな、と最初はそう思った。しかしすぐに、人間の気配がまるで感じられないことにも気づいたのだった。
(みんな無断で外出したのか……)
大会の真っ最中だというのにみんな少し弛み過ぎなんじゃないか、と翔平は思う。しかし、皆には自分の夢に付き合わせるため普通の高校生活を捨てることを強いてきた、という気兼ねもあるにはある。それと合わせて、自由行動が許された時の皆の喜びようを思いだすと、次の相手は弱そうだしまあいいか、と翔平はそんなふうにも考えてしまう。みんなの布団は、奇妙な膨みをみせていた。翔平は出し抜けに笑いだした。こういう馬鹿な奴らが仲間じゃなかったら、あんな大胆な野球は初めからできていなかったかもしれない。俺も外出してみようか、と彼は、開き直ってそんなことを思ったりした。
塗李の泊まる宿舎の前に、古い電柱が一本立っている。東京や大阪、その近郊の大きな都市ほど、電線を地下に移す計画が滞るものだ。その電柱の陰から、大宮可奈子は全てを見ていた。堀、北田、高原と、塗李の主力の選手たちが、次々に罠に向かって宿舎を飛び出していくのを。
甲子園出場チームのメンバーが、こんな時間にばらばらになって外出している。その事実を高野連に密告しただけでも一騒ぎ起こせそうなものだが、ハニートラップという仕事に言わば職人のようなこだわりをもち始めている大宮可奈子に、その発想はなかった。彼らはそれぞれのハニーに逢いにいくのに違いない。となれば、もう一度自分にもチャンスが巡ってくるかもしれない。彼女は期待に胸を膨らませた。今度こそ最高の演出で仕留めてみせると、大宮は独り、不敵に微笑んだ。
その時、彼女のpinkSpyが何かを受信した。それは差出人不明のメールだった。なんだろうと思って開いてみると、そこには、草刈和正の昨日の行動の記録がびっしりと書き込まれていた。
『十六時、試合会場から宿舎に戻る。十七時、部員を並べて説教。十七時半、控えの選手にスクワット千回を命じる。十八時、シャワーを浴びて宿舎を出る。十九時、福原到着。十九時半、ソープ。二十一時、ソープ梯子。二十三時、スナックにて年増のママをしつこく口説く。二十四時半、諦めて宿舎に戻る。二十五時、起きていた生徒を見つけ、三十分間正座させる』
(誰だか知らないけど、嘘ばっかり!)
大宮は腹が立った。なんでこんな嫌がらせをするのだろう。草刈先生に限って、そんな馬鹿なことがあるわけないではないか。全く根拠のな
何か動画のようなものがメールに添付されているのに気づいた。大宮はため息を吐きつつ、一応、開いてみた。すると彼女の眼に、悪い意味で、決定的な場面が飛び込んできた。それは草刈の、いかがわしい店への入店の瞬間だった。
「七十分? 七十分でこれは高いよ、九十分にしろよ」
なんの話かはわからなかったが、間違いなく草刈の姿、そして声だった。続くスナックの場面では、彼はやらせろを三十三回も言っていた。大宮は、目を見開いて、しばらくその動画を見つめるばかりだった。この誰かからの密告の内容が、本当に起きたことだという現実を受け入れてしまうと、彼女はもう、何も考えることができなくなってしまった。
『ソープ! ソープ! ソープ!』
『七十分! 九十分! 七十分!』
『やらせろ! 一回くらい! 減るもんじゃないし!』
草刈の声が、彼女の頭の中にこだました。それは立体的な文字となって、螺旋の軌跡を残しながら、心の底に向かってひらひらと落ちていった。
(だからなんだというの。草刈が私の恩人であることに変わりはないじゃない。私はハニートラップ隊の隊長として、最高の仕事をするだけ……)
無理に考えようとする度、無意識の悲しみが彼女を襲い、涙が溢れてきてどうしようもなくなった。彼女は電柱の陰に頽れて、声にならない、静寂とも言える不思議な慟哭を洩らし始めた。それは辺りを寂然と震わせ、通りがかる者に奇妙な印象を残した。
「どうしたの?」
そう声をかけられても、初め彼女は、そのことに全く気がつかなかった。しかしその声の主がもう一度その言葉を発すると、彼女はようやく我に返って、いかにもその場合に相応しいだろうというように、びくりと肩を震わせた。そして、なんでもありません、と言ってゆっくりと顔を上げると、彼女はそこで初めて、自分に話しかけていたのが知っている人間であったことに気づいた。彼女の顔を覗き込んでいたのは、桜田翔平だった。
結城は、昨日の舞台の主役を飾った、プリンセス昌美に逢いたかった。彼女の奇術は種が全くわからないほどに素晴らしい出来だったし、観客の拍手喝采を一身に集めたそのかわいらしいパフォーマンスは、人々を一瞬で虜にするほどの、究極的なキュートさがあった。また観たい、その一心だった。彼は再び、興業の行われている仮設テントを訪れた。
舞台は、この日も最高だった。またしても心を奪われた結城は、夢遊病患者のようにふらふらと楽屋口に向かった。しかしそこも混み合っていて、彼は仕方なく表に出た。そして静かな裏口にまわって、ただ茫然とステージを振り返っていた。
裏口から一人の少女が出てきたのは偶然だった。彼はふと目を上げて、その少女に一瞥をくれた。少女は、今化粧を落としたばかり、というような、さっぱりとした顔をしていた。その少女がプリンセス昌美であることに、結城でも俄には気づかないほどだった。
「ちょっと待って、君、プリンセス昌美さんじゃないか?」
彼は慌てて声をかけた。しかし少女が身構えたのがわかったので、結城はなるべく穏やかな表情を心懸けた。「やっぱりそうだ。素顔もかわいらしいね。舞台もすてきだけど、今の方がずっと綺麗だ……」
少女の顔が、尋常でないほどに赤くなっていくのがわかった。
後に、思わぬ場所で運命の再会を果たすことになるこの二人だが、この時はお互いに、そんなことは予感すらしていなかった。結城は結城で、純粋に恋をしていたし、少女は少女で、今、目の前の男から放たれた言葉に、衝撃すら覚えていた。
『今の方がずっと綺麗だ』
そんなことは、子供の頃から言われたためしがなかった。あのキザったらしい(彼女はそう評価している)兵頭鷹虎でさえ、彼女にそのような言葉を述べたことはなかった。数々の魔法を舞台で実演してきたプリンセス昌美ではあったが、舞台上以外で女性として扱われたことなど一度としてなく、それが今、目の前の男によって突然に実現してみると、それこそが本当の魔法のようにも、彼女には感じられたのだ。
本当はノーマルな、一人の少女であった。年頃の女の子がそうであるように、彼女も異性を意識する、本当の少女だった。しかし、家でも外でも、周囲の人間は彼女をそう扱わなかった。それは彼女の外面を、その意思に反して、男勝りに仕立て上げてしまった。それだけに、あたりまえの女の子として生きたい、という簡単な告白が、できなくなってしまっていた。そんな彼女なのだから、結城の率直な物言いが、天地を揺るがすほどの『事件』となったのは、仕方がなかった。彼女のときめきに、直線的な結城の眼差しが突き刺さる。通常の動悸を維持することなど、到底できそうになかった。
そんな二人を遠くから眺めて、
(なんだか知らないけど、私が何かする必要はなさそう)
と安堵したのは、この二人の様子を遠くから眺めていた、桃腿の川島かおるだった。彼女は嘘の報告書を作成し、宿泊先のビジネスホテルに戻った。
宇賀神栄太郎は、昨日と同じ公園に向かっていた。太田花恵はそのあとを尾けて、声をかけるタイミングを見計らっていた。しかし、その機会を掴めずにいるうちに、宇賀神は公園に着いてしまった。太田は昨日と同じ場所で、宇賀神の様子を見守った。
宇賀神はやはり同じように、おおうおおうと何かを握って唸り声を上げていた。太田もやはり恐ろしくなって、どうしても近づく気になれなかった。しかしこのままでは、ハニートラップ隊のトップメンバーから外されてしまう。トップメンバーの地位を保持し続けていれば、SPD(札幌パフォーマンスドールの略称。北海道を席巻する大所帯のローカルアイドルグループ)の追加オーディションで有利になると言われている。SPDに入るのは、彼女の小さな頃からの夢だった。だから彼女は勇気を振り絞って、宇賀神栄太郎に近づいていくのだ。
「何をしているの?」
と声をかけた。すると宇賀神はびくりと反応し、驚いた顔を彼女に向けた。彼女は宇賀神の手元を見た。宇賀神は、鉄の鑢を左手に持っていた。
「な、なんでもなか!」
慌てて言って、すぐにそれを隠そうとした。太田はその手を掴み、見せてごらんなさい、と子供を諭す母親のような口調で言った。左手はなんともない。どうやら右手の方に何かをしていたようだ。
「だ、誰でっか、おまいさんは……」
戸惑う宇賀神を無視するように、右手も見せなさい、と彼女は言った。宇賀神は怪力だったが、彼女の口調には、従わなくてはならない、という不思議な響きが込められているようで、彼はあっさり、右手を開いてしまった。太田は、はっと息を飲んだ。宇賀神の右手は、ぎざぎざと言おうか、ぐちゃぐちゃと言うべきか、新しくできた傷であったり治りかけている傷であったりで、とにかくひどい状態だったのだ。
「あ、あなた、な、何をしているの、これはなんなの」
赤の他人にそんなことを訊かれても、宇賀神栄太郎に答える義務などなかった。しかし彼は、愚直にもこれに答えた。
「いざという時に、みんなの役に立つためにやってるんでさ、ほっといてけれ!」
彼はそう言って、鑢を鞄に仕舞って、公園を出ていってしまった。
(せっかくの援護射撃を無下にしやがって!)
と地団駄を踏んでいるのは合田高次。彼は、桜田さえ守れば塗李は無事だと、彼を担当する大宮を潰しにかかった。そしてそれは、半ば成功していた。それなのに、桜田は道端で泣き崩れる女に気づいてしまい、だけでなく自分から話しかけ、更には情に絆されてしまった。そして今となったらどうだ。二人は恋人同士のように寄り添い、抱き合い、慰め合い、ちゅっちゅちゅっちゅして、お互いに将来を誓い合っているではないか! バグスカウトが合田のiSpyに二人の会話を届けている。
『愛しているよ可奈子』
『あたしもよ、翔平さん』
『この戦いが終わったら、結婚しよう』
『なんてすてきなのかしら。あたし、夢の中にいるみたい』
なんということだ! と合田は思った。ここまで自分の好意が裏目に出るとは思いも寄らなかった。大宮可奈子は任務を放棄し、桃腿への忠誠心さえも捨てていたのに、しかしそのあと、自分のやったことが逆の効果をもたらしてしまい、二人は余計に密接な関係になってしまった。こいつら二人がどうなろうとそれは構わない。しかし、このままでは桜田の蛋白が、蛋白が……!
合田の心配をよそに、二人の会話は続いていた。
『明日も逢えるね?』
『もちろんよ』
『明後日の試合、応援してくれるね?』
『もちろんよ。私は桃腿の人間だけど、塗李を応援するわ』
そういって二人は、再びちゅっちゅちゅっちゅした。羨ましい! と合田は思った。
そして二人は最後に、また愛の確認をし合って、名残惜しそうに別れた。
大宮は、本当に恋をしていた。恋は彼女にとって、いつの時も美しい感覚だった。そしてその対象は、いつの時も美しい存在だった。翔平さんが汚らわしい行為などをするわけがない。彼は戦士であり、草刈などとは全くの別の人種。あの男はただの獣、翔平さんは英雄。あのビチグソファック野郎がよだれを垂らして死肉を貪っている時、翔平さんは白馬に乗って、アルプスの山々を越えていくの!
そんなことを考え、無邪気に破顔して帰っていく大宮が、合田には憎たらしく思えて仕方がなかった。そして足取り軽やかに、時折スキップを交ぜながら宿舎に戻る桜田を見て、もう終わった、と彼は全てを諦めた。




