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第2話

  神奈川県立塗李高等学校二年 野球部新主将 桜田翔平


  「俺はみんなと一緒に、甲子園で優勝したいと思っている」

 二〇五九年七月、塗李高校は地区予選の二回戦で強豪校にコールドゲームで敗れた。塗李高校の野球部のレギュラーは、三年生がその全てを占めていて、彼らはその現実に些かも動揺しなかった。

「まあこんなもんだろ」

「六回までもったんだから去年よりはましじゃね?」

「彼女きてたからちょっと恥ずかしいけどな」

 その言葉を聞いた、当時二年生の桜田翔平(さくらだしょうへい)は、猛烈に怒りに震えた。

 俺は、俺の大切な青春の一部を、こんな奴らと共に過ごしていたのか……。

 しかし、一人だけ悲しんでいる三年生が彼の視界の隅に入った。それはキャプテンの千葉(ちば)だった。独りユニフォームを着替えることなく、控え室で寂しく背中を震わせていた。

 翔平はその哀愁を見て、これまでに捧げた一年半という自分の青春に、少しだけ得心がいった。しかし彼の思いは既に、このチームから離れつつあった。ぼんやりと、今後のことを考えた。このまま三年生と一緒に退部するか、そして大学進学を早々に目指し、予備校にでも通うか……。千葉の声が聞こえたのは、彼がそう決断しようとした、まさにその瞬間だった。

「桜田……」

 翔平は我に返り、キャプテンの千葉を改めて見た。千葉はベンチに座り、握った白球を見つめたままの姿で、彼の方を見ていたわけではなかった。

「先輩……」

 かける言葉がなかった。千葉は、千葉だけは、入部してから二年半という間、たとえ独りになっても熱心に練習を繰り返してきた男だった。その彼の、最後の夏が終わった瞬間にかける言葉など、翔平に思いあたるはずもなかった。

 すると千葉の瞼から一雫の水滴が零れた。それは頬を伝って一旦顎に溜まった。その液体はなんとか千葉の顎で踏ん張ろうとしているかのように、少なくともその時の翔平にはそう見えた。しかし願い叶わず、雫は顎から静かに離れ、空間に一筋の光を伴って、着地点を千葉の握りしめる白球へと選んだ。その瞬間、千葉が顔を上げた。彼はいつの間にか、力強い顔つきをとり戻していた。彼はスパイクを鳴らして立ち上がり、向き直って翔平に近づくと、自身の涙を受け止めた白球を、その右手で翔平に突くように渡し、言った。

「今日から、お前がキャプテンだ」

 桜田翔平の青春は、もう一年、延長された。


 塗李高校は普通の公立校だった。スポーツに特別に力を入れているわけでもなく、野球部に伝統があるわけでもなかった。OBの支援もほとんどなく、部員以外で顔を出す者があるとすれば、アイスを食べながら偉そうにちょっかいを出してくる卒業後二、三年の進学も就職もしていない暇で無粋で威張る所が他にない頭の悪そうな元野球部の先輩、くらいだった。監督もマネージャーもおらず、部長も、野球の知識をまるでもたない、沢井美加(さわいみか)という名の女性の英語教師だった。新生ナインを率いることになった桜田翔平は、まずその情けない現状を改めて思い知らされた。全ての、まさに全てのことから、やり直しを計らねばならなかった。

 彼はまず、チーム共同の目標を設定することから始めた。一年生まで含めた、部員総勢二十六名を集め、彼は自分の決めた目標を、大きな声で唱えた。

「俺はみんなと一緒に、甲子園で優勝したいと思っている」

 その言葉に、少なくともこの時は、心を震わせた者は一人としていなかった。同志だと思っていた(ほり)北田(きただ)までもが、彼の掲げた大きな目標を嘲笑した。

 お前は突然何を言いだすんだ、頭がおかしくなっちまったのか、そんなことできるわけがないだろうが。

 しかし、翔平は怯まなかった。彼は自分の熱量を、少しでも仲間に伝染させたかった。

「それじゃあ、なんのためにお前らは野球部に入ってるんだ? 何を目標に引退までを過ごそうというんだ。ただ運動のためか? ボール遊びをしにきているだけなのか? 俺は違う! 俺はこの野球部に青春を懸けている! もっと激しく言えば、俺は人生を懸けて、この偉大なる挑戦に臨もうと考えているんだ。俺はお前らに問う! 男が人生を懸ける時、夢以外の何にその魂を載せればいいんだ!」

 二十六名いた部員が、十七名になった。

 彼は練習内容にもてこ入れを始めた。早朝練習をとり入れ、午後の練習も夜の十一時までするようになった。学校の校庭では思い切った練習ができないことに気づいた彼は、活動費がもっと下りるよう学校側と交渉し、OBに寄付を募ったりもして、市営の専用グラウンドを借入れるところまで漕ぎ着けた。しかし、そのてこ入れは禁断のてこ入れだった。厳しい練習は部員の数を更に減らす効用をもっていた。部員は、十一名になった。

 それでも彼についてきてくれたチームメイトたちに、彼は結果で応えなければならなかった。しかし、結果は伴わなかった。秋の大会の一回戦で、県立の弱小高校に四対五で敗れたのだ。その虚しい成果をまのあたりにして、部員はとうとう、九名になった。

 あいつの空回りが今まで楽しかった野球部をつまらなくした。

 なんでこんなことになっちまったんだ前のままでよかったのによ。

 あああ、俺も辞めようかな。

 そんな陰口が今にも鼓膜に飛び込んできそうで、翔平は自分のやってきたキャプテンとしての仕事に、自信を失いかけていた。

 それでも彼を見捨てず、彼の熱意に動かされた人間がいた。部長の沢井美加だった。彼女は、活動費を元に戻そうとしている学校に対して、彼女なりに奮闘した。そして、表情を固くしながらもなんとか自分の方針を貫き続けている翔平を、黙って見守っているのだった。


 結果を出さなきゃ駄目だ。でないと、みんなの心が離れていってしまう。だけどどうやったら試合に勝てるんだ? どうやったら、自分たちと同様に馬鹿みたいに練習している相手を、打ち破ることができるんだ?

 翔平の苦悩の日々は続いた。

 それは秋雨に震える、気温の低い日のことだった。室内練習場などはもたない塗李野球部は、校舎の廊下でストレッチや筋力トレーニングに励んでいた。部員たちの疲れきった顔を見た翔平は、彼らの士気をとり戻すため、その日の練習を早々に切り上げることを決断した。部員たちは大喜びし、すぐに制服に着替えて学校を飛び出した。彼らは彼らなりに、それぞれの思惑通りに休みを謳歌するのだろう。

 翔平はそうはいかなかった。練習量が結果に伴わない現状に、彼は悩み抜いていた。彼は真っ直ぐに帰宅したが、自宅に着いてもその悩みは消えなかった。

 彼の家は中流家庭で、両親は共働きだった。大学生の兄も不在で、家には誰もいなかった。そういえば、と彼はふと思いつく。兄は高校時代、ハンドボールで国体に出場したことがある、スポーツは違うが何かヒントがもらえるかもしれない。彼は兄の部屋で、その帰宅を待つことにした。

 兄の部屋のベッドには、ファッション雑誌が無造作に置かれていた。それを捲りながら待っているうちに、彼はファッション雑誌に興味がないことを悟った。もっと自分に興味のある物はないか、と彼は考え、俺が興味があるのはなんだ、そうだあれだ、あれがあるとしたらどこだ、ベッドの下に決まっているじゃないか、という結論に至った。彼はベッドの上のマットを軽く持ち上げた。案の定、いかがわしい品々が姿を現した。

 それは、ホログラムで空間に映像を立体的に映し出す、今となっては時代遅れのメディアに対応したソフトだった。居間にある規格のハードに対応していれば、デジタルで映し出された立体の偶像に直接触ることもできたが、その古い規格では兄の部屋にある古いハードでしか再生ができないから、触れなかった。残念だ、他にないか、と思い、彼は再びマットを持ち上げた。すると、筒のような物が、ことり、と床に落ちた。

 なんだろう、と彼は思い、それを手にとった。その筒は透明だったが、中に、ピンク色のとろとろとした液体のような物が入っている。

「こ、これは……」

 それは、ローションだった。名前は聞いたことがあったが、彼が実物を見たのはそれが始めてだった。彼は恐る恐るその筒の蓋を外し、容器を傾けて中身を掌に落とした。とろり、という不思議な肌触りが、彼の触感を妖しく舐めた。その瞬間だった。じわりじわりと大波のような予感が彼の背筋を震え上がらせ、最終的にその予感は、一つの結晶となって結実した。彼の脳裏に、稲妻のようなアイデアが閃いたのだ。

 彼と、彼の仲間を高校野球界の頂点に導く、ローションベースボール誕生の瞬間である。もちろん、これは言うまでもないことではあるが、彼はその夜、野球に魁けて、別の意味で頂点に達している。

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