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第15話

  私立青田学院三年 野球部偵察部隊神奈川県担当 合田高次


  「なんかぬるってる」

 宮沢は、青田学院の野球に対し、予てから批判的な立場をとってきた。まだ未成熟な高校生にあのような野球を強いることは、スポーツの楽しさを生徒たちから奪う以外にも、間違った道徳心を植え付ける要因にもなりかねない。雁字搦めのクラブ活動から得られるものなど何もないのだ、というのが、セイダーメトリクスに対する彼の見解だったのだ。彼は、訪問者が青田学院の者だとわかった瞬間に、相手が十七歳の少年だということを忘れた。塗李は最高の野球をした、とだけ言って、それ以上とり合おうともしなかった。

 しかし、訪問者が帰ったあと、宮沢は不安になった。もし塗李が、甲子園で青田学院と対戦するようなことにでもなったりしたら、彼らの野球はセイダーメトリクスによって丸裸にされてしまうのではないか。塗李野球の正体を知った青学の徳川が、そのことを暴露しないはずはないし、そうなると、彼らは野球部としての保護者をもたない(女性の部長がいるようだが彼女はおそらく何も知らないだろう)から、マスコミの矛先は彼らにそのまま向けられることとなり、晒し者にされたり、或いは謝罪を強制されたりして、騒ぎの全責任を負わされることになりはしないだろうか。もちろん、彼らには最初からその覚悟があるのだろうが……。

 宮沢は、自分にできることは何か、と考えた。そしてしばらく思案すると、高校に隣接する宇宙科学大学にいって、院生らが篭っている『野球部専用研究施設・高校の部』の門を叩いた。彼はなぜか、自分を負かした塗李の子供たちに、父性のような感情を抱いていた。


 青田学院が全国で嫌われているのは重々承知していたはずであったが、まさかあそこまで門前払いに近い扱いを受けるとは思ってもみなかった。気をとり直し、

(他に方法はないか)

 と合田高次は考える。他にも方法はあるはずだ、他に答えを知っている者は誰か、他に……。

 スパイ活動をしている時に、忘れがちな真実があった。それは、敵の秘密を最も知る者は敵自身である、ということだった。彼は早速端末を開いて、塗李ナインそれぞれのプロフィールを呼び出した。塗李ナインが十人いることを、そこでようやく思いだした。

「宇賀神栄太郎……」

 彼は、宇賀神の試合成績を見た。出場試合数0回。全ての試合でベンチを温めている。顔写真を見ると、頭の悪そうな面々ばかりの塗李ナインの中でも、飛び抜けて間の抜けた面をしていた。こいつだ、と思い、合田は宇賀神にターゲットを定めた。

(待っていろ塗李! 俺がこいつから真実を暴き出してやるぞ!)


 塗李高校の練習場は、学校近くの市営のグラウンドだった。塗李野球部が鉄のカーテンで見学希望者をシャットアウトし、非公開練習を貫いていることは合田も知っていた。しかし、偵察部隊の合田にすればそんなことには慣れている。彼は近くの雑木林に身を潜めると、直径三センチの昆虫型カメラ『バグスカウト』を鞄から取り出して、電源を入れて数体、空に飛ばした。バグスカウトは羽を伸ばし、ぶーんという音を立てて、雑木林を勢いよく飛び出していった。

 情報端末iSpyから直接衛星にアクセスし、三体のバグスカウトの位置情報を取得した。少し、方向がずれている。彼はそれぞれを直接操作し、定位置に向かわせると、そこでホバリングするよう命じた。資金の少ない塗李野球部のサイバーセキュリティーは脆弱だった。バグスカウトによる鉄のカーテンの突破は、いとも簡単に成功した。

 続いて、バグスカウトに六本の脚を切り離すよう命令する。長さ十四ミリのそれは、三体で全十八本、グラウンドに万遍なく飛び散った。これでグラウンド上の音はほとんどが拾われ、iSpyに送信される。合田はカメラの位置を調整し、映像の方も呼び出した。三つのウインドウが開くと、イヤホンからナイン同士のかけ声が聞こえてきた。彼はその中から、まずはキャプテンの桜田を探した。


 翔平は、ナインのローション技術についてはもう心配はしていなかった。彼が懸念するのは、今、この瞬間、自分さえも飲み込みつつある油断という大敵と、そして塗李の怪物、宇賀神栄太郎の取扱いだった。宇賀神が貴重なバックアップメンバーであることは疑いようがなかったし、彼の素質(パワーという意味のみにおいて)と努力に、目を見張るものがあることも認めていた。しかしそれでも、現在の状態では宇賀神は使い物にならなかった。それくらい、九人と宇賀神の間には、隔絶した技術の差があったのだ。

「みんな集まってくれ」

 翔平は練習を中断し、皆を一堂に集めた。九人の中には、だらだらと足を休めている者もいれば、俯いたり、どこか別の所に注意を向けている者もいたほどだった。翔平はまずそのことから、解決していかなければならないと思った。

「北田、俺たちの目標はなんだった?」

 突然指名された北田は、少しだけ返答に窮した。

「優勝、だろ? 甲子園、優勝じゃなかったかな」

「そうだ、俺たちの目標は、甲子園本大会での優勝だったはずだ」

(優勝……だと?)

 雑木林の中で、合田が独り、驚いた。

「俺は、俺が一年前に宣言した途方もないこの目標を、未だ皆と共有できていることに猛烈に感動している」

(一年前から……だと?)

 昨年までの塗李の実績を知っている合田としては、ここでも、驚きを禁じ得ない。

「しかし、今のみんなの弛みようでは優勝は難しいんじゃないか、と俺は考えている。俺も人のことは言えないかもしれないが、例えば北田、最近のお前は少し、だれているんじゃないか?」

「なんだと? 皆がなあなあになっているのは俺の責任だって、そう言いたいのか?」

「そうじゃない。ただ、北田は自分の存在感というものをわかっていないんじゃないか、と思うことはある。俺にはキャプテンという肩書きが一応あるが、元々そんな器じゃあない。俺はみんなの協力があってこそ、ここまでやってこれたんだ。そこへきて、俺なんかよりも親分肌のお前がそうだれていると、俺程度では歯止めを利かせられないほどに、そういった気分が蔓延してしまうことがあるんだよ。それだけの影響力があるということを、お前にはもっと自覚してもらいたい。でないと、このチームはがたがたになってしまう」

(うまい)

 と合田は思った。(はっきりと自分の意を伝えているにも拘らず、相手の自尊心をくすぐることによって反論を防いでいる。更には、責任感を植え付けることも忘れていない。プライドを些かも傷つけないその話し方は、性格を完全に把握しているからこそできる芸当であり、最初に北田という男を選んだのも、チーム内での彼の立ち位置をうまく利用するためだろう。桜田翔平、キャプテンとしての資質を充分に備えている!)

「それから木戸、お前のコラムは毎回楽しみにしているが……」

 翔平はそうやって、一人一人に気を引き締めることを促していった。そして最後に、その内容は宇賀神に及んだ。

「もし、九人のレギュラーのうち誰か一人でも欠けたら、俺たちは一年前とほとんど変わらぬ、取るに足らない弱小校にまで落ちてしまうだろう。全員野球を切り離して考えることができないのが、俺たちの野球の強みであり、そして儚さでもあるんだ。そのことは今更説明せずとも、皆もわかっているとは思うが……」

 翔平はそこで一息つき、その視線を宇賀神に向けた。

「しかし、俺は万全を期したい。優勝までは六試合もあるからな。そこで重要なのが、宇賀神だ」

 全員が宇賀神を見た。宇賀神は、ひいっ、と素っ頓狂な声を発し、急いで両手でばってんをつくった。

「わてなんかにゃ無理でさ。道具運びは一生懸命やりますさかい、期待せんとってもらえまっか」

 すると堀が言った。

「前も言ったよな? 俺たちにはお前が必要なんだ」

 これに結城が続いた。

「お前みたいなド下手クソが、ここまで期待される場所なんてどこにもねえぞ?」

 二年の猿渡が言った。

「播高の兵頭(ひょうどう)だって、先輩らにこんなに言ってもらったことはないだろうな」

 続け様に言葉を浴びて、宇賀神は困り果て、ほとんど泣きそうな顔になった。

「そんなの無理っちゃ、素質がないっちゃ」

 するとどこからともなく、静かな声が聞こえてきた。

「人生を懸けたんじゃなかったのかい?」

 夕陽に向かって目を細める、喜与川八郎太のダンディズム。

「悪鬼羅刹を向こうに回し、不倶戴天の戦いに臨む。開闢以来、人間の歴史に一度だってこんなスリルがあったか? 栄太郎! 今こそが、男の物語に参加する潮だ!」

 翔平は皆を見渡し、満足した表情を浮かべた。いつものみんなが戻った。これなら、俺たちは本当に、日本一になることができるかもしれない。


 それから始まった宇賀神栄太郎の特訓の様子を、合田は、バグスカウトからの映像で数時間に渡って見続けた。驚くべきことに、その練習は、甲子園での戦いを一週間後に控えたチームのそれではなかった。ゴロを取る時の腰の落とし方から、スローイング時のボールの握り方など、あまりにも基礎の基礎の、初歩的練習の反復だった。ボールを取って投げる前に、何か意味不明な仕草があるようにも見えたが、合田にはそれがなんなのか、何度見てもよくわからなかった。暗くなり、安物のバグスカウトでは映像が不確かになってきたこともあって、合田は練習の監視をそこで切り上げた。着替えのために部室に戻るだろうと、一足先にそちらに回り、彼らがくるのを物陰で待つことにした。

 街灯に明かりがつき、虫たちの涼しい鳴き声がそちこちで重なり始めると、真夏の夜が一息に完成に近づいていくようだった。それらが作用したかどうか、知らない土地で一人佇む合田を、不意に感傷が襲った。彼は、先ほどの塗李ナインの言葉を思いだしていた。

『お前が必要だ』

『お前に期待している』

 そんな言葉をかけてもらったことなど、あっただろうか。少なくとも、高校生になってからは皆無だったように思える。自分の野球の実力に挫折し、偵察部隊に所属を変更したその日から、スパイとしての心得を叩き込まれて今日まできた。俺には、スパイとしての非情さが擦り込まれているはずなのだ。それなのに、今のこの気持ちはどうだ。

 情報を司り、情報弱者を鴨にすることによって成り上がってきた青学野球部でなら、自分程度の選手でも頭を使えばレギュラーになれると思った。しかし、青田学院はそれだけのチームではなかった。選手のレベルはあたりまえのように高く、合田高次は入部後まもなく、選手としての限界を察知したのだった。そんな彼に、監督の徳川三郎は言った。

「お前はこれから、どんなに練習をしても絶対にレギュラーにはなれない。偵察部隊でなら役に立つかもしれないがな」

 それを言われたのは、合田だけではなかった。青田学院では毎年二十名前後の部員が、その非情の宣告を受けていた。そして、それでも部の役に立ちたいと思った者だけが、偵察部隊に所属を変更した。彼らの野球に対する愛情が、部から離れることを許さなかったのかもしれない。

「俺は情報弱者を駆逐することに青春を懸ける!」

 宣告を受けたその日に立てた彼のそのような誓いは、アスリートとしての誇りとの、決別でもあった。屈折。そう、彼はその一度の屈折のあと、あまりにも真っ直ぐに歩き続けてきたのだ。そして今、振り返ってみれば、遠く霞む思い出の彼方に、塗李ナインのように生き生きとした中学生の自分がいた。彼は、涙を流していた。そして気がつかないうちに、それは慟哭へと変わっていった。自分の魂が塗李の選手たちに共鳴しているのを、彼は知らず知らずのうちに認めていたのだ。

 校門を一つの陰が通り過ぎていった。彼は俄に泣き止んで、息を止め、注意深くその行方を見守った。校舎の明かりがつくりだしたその影は、大きく、長く伸びていた。その主は、宇賀神に違いなかった。

 我に返った彼は、グラウンドから音声だけを呼び戻した。塗李ナインは、まだ練習を続けているようだった。

『宇賀神、今日の練習はさすがにきつかったんじゃないかな』

『でもあいつは意外に根性があるよ』

『早めにあがって休息をとるのも練習のうちだ』

 それらの声で、宇賀神だけが皆よりも早く練習を切り上げたことがわかった。これは都合がいい。誰か他の部員とつるんで帰宅されるよりは、接触のきっかけを掴み易い。彼は宇賀神にさりげなく話しかけ、何気ない会話のやりとりの中から、決定的なワードを引き出せればと考えていた。宇賀神のような朴訥とした男が相手なら、それも容易いに違いない。合田の目には、スパイとしての光が蘇っていた。

 宇賀神が着替えを終えるのを待ち、彼が部室から出てくると、足音を消してその影を追った。声をかけるきっかけを探りながら、しばらく歩いた時だった。合田はふと、首を傾げた。宇賀神が自宅とは違う方向に向かっているようだったからだ。どこへいくつもりだろう。すると宇賀神が、塗李神社の境内に入っていくのが見えた。

 合田は苦笑した。

(まさか神仏に勝利祈願をするようなタイプだったとはな。しかし、それでしかチームの役に立てないと自己分析ができているのなら、思っていたよりは優秀そうだ)

 自分も塗李の勝利祈願をしにきたことにすれば、こんな時間でも怪訝に思われることなくスムーズに話しかけることができるだろう。そう考えた彼は、自らも境内に入っていった。地元の人間でないことを疑われないよう、訛りには気をつけなければならない。

 しかし、宇賀神は境内の途中で足を止めていた。合田は一瞬固まったが、慌てて鳥居の陰にその身を隠した。宇賀神の様子が、明らかに願掛けをしにきた人間のそれでないことに気づいたからだった。境内には二つだけ小さな照明がある。社殿の下から、バケツのような物を取り出している宇賀神が見えた。

 鞄から何かを取り出した宇賀神は、そのバケツに、その何かをとぽとぽと注ぎ始めた。しばらくすると、彼はまた何かを鞄から取り出した。それは鉄の棒のように、見えなくもなかった。

 宇賀神はその棒の両端を両手で握ると、左手の方をぐいと引いたようだった。その時、うぐうあっ、という、獣の泣いているような声が、静かな境内に鋭く響き渡った。それは宇賀神が発したものに間違いはないようで、事実、宇賀神はしばらく、踞っていた。合田は、少し、恐ろしくなった。

 すると今度は、宇賀神は鞄からボールを取り出した。そのボールを、バケツの中に入れ、

先ほど入れた液体のような物に浸しているようだった。そしてボールを再度取り出すと、彼は制服姿のまま、左手にグラブを着けた。

 合田は薄暗闇の中に、投球モーションに入った宇賀神を見た。それは前時代のロボットのような、かくかくとしたぎこちない動きだった。そして彼がそのモーションを最後まで完結させると、ボールは神社の西側にあるコンクリートの壁に当たり、コーン、という音を立てて、再び彼の足下に戻った。そしてまたボールをバケツの中の何かに浸す。取り出す。投げる。それを繰り返した。宇賀神はただひたすらに、それらの工程を繰り返し始めたのだ。

 息を飲んでその様子を見守っていた。とても声をかけられるような雰囲気ではなかった。宇賀神は時々、棒のような物を掴んでは例の獣のような呻きを発したが、それがなんなのか、合田には最後までわからなかった。ただ、宇賀神がここにきたのは勝利祈願をするためではない、ということだけはわかった。宇賀神は、チームメイトの期待に応えるために、ここに自主練習をしにきている!

 合田は、強豪チームに共通して見られる、執念の正体をそこに見た。塗李の出してきた結果は、インチキやフロックの結果ではない。末端の部員のあのようなひたむきさが、チーム全体の底力となっていたのだ。

 結局、その練習は二十三時半まで続いた。宇賀神は練習を切り上げると、道具を仕舞ってバケツを洗い、神社を出ていった。

 宇賀神が練習をしていた所に歩み寄った。彼の大きな足が、土を力強く抉った跡があった。前を向いて壁を見ると、ちょうど十八メートルはありそうだった。合田は苦笑を禁じ得ない。彼の仲間が彼に求めているのは、有事の時の欠員の補填であり、それ故に彼らは、あれだけしつこく彼に守備の基礎を教えていたのだ。だというのに、宇賀神はここでピッチングの練習をしていた。今や大会ナンバーワン右腕と言ってもいいほどの桜田翔平の代わりまでをも、あの大男は考えているというのか。合田は宇賀神の健気さに、苦笑を通り越して顔を歪める。

 先ほどの宇賀神の球筋を思いだし、それを追って歩いていった。それはあまりにも頼りない球筋だった。あれくらいなら俺でも投げられた。いや、あれ以上の球威でだって投げられたはずだ。そんな俺が選手の道を早々に諦めたというのに、あいつは馬鹿みたいにこんな夜中まで独りで練習をしている。バカヤロウだ、本当にバカヤロウだ。そこまで考えると、またしても彼の心を、腑甲斐ない感傷が襲うのだった。

 そして、壁まで辿り着いた。壁が、何かに濡れているのに気づいた。その跡は、一つ所に集中しており、宇賀神の意外な制球力を示していた。

「結構、やるじゃないか……」

 彼はそう呟いて、何を考えるでもなく、その跡に触れた。

 ?

「なんかぬるってる」

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