第12話
神奈川県立塗李高等学校三年 野球部主将 桜田翔平
「この一球に、ローションを込めて」
桜田翔平は部員全員と相談し、塗李野球の解禁の日を五月の第三日曜日に選んだ。近隣の高校を相手に、練習試合を組んだのだ。メンバーは以下の通り。一番ライト猿渡、二番サード高原、三番ファースト北田、四番キャッチャー堀、五番ピッチャー桜田、六番レフト島袋、七番ショート結城、八番センター喜与川、九番セカンド木戸、そして補欠に宇賀神である。
観客席さえない市営の小さな球場で、ローションベースボールは門出の日を迎えた。相手チームの監督とメンバー表を交換し、キャプテンである翔平は先攻後攻を話し合いで決めた。塗李高校は、後攻となった。
全員が守備についたあと、マウンドで独り、翔平は息を吐いた。彼の投球はフリーバッティングなどでは相変わらずの無敵を誇ったが、実践で使われるのはこれが初めてだった。
もし通用しなかったらどうしよう、相手は去年までのうちとさして変わりのない万年初戦敗退の弱小校だ、ここで打たれたら、全国制覇などは夢のまた夢になってしまう……。
その不安は、他の部員の胸の内にもあった。それがなかったのは宇賀神と、部長の沢井くらいのものだったろう。宇賀神は初めて見る野球の試合に興奮していたし、沢井は沢井で、素晴らしい人格を備えた部員たちが、勝敗の行方などに関係なく、ただただ誇らしかっただけだった。
主審の、「プレイボール!」という大きな声が、グラウンドに響き渡った。翔平は深呼吸を一つ、腰のあたりに隠した金具を右手でさりげなく引き絞った。グラブから適量のローションが飛び出す。ボールは、ぬるぬるになった。
「この一球に、俺たちのローションを込めて」
彼はそう呟くと、大きく振りかぶった。そして力強いモーションに入ると、彼は肘を美しく畳み、左脚を踏み出すと同時に、一度畳んだその腕を鞭のように狂おしく撓らせた。いけええっ! という皆の想念と共に、ローションの付着した白球がストライクゾーンに向かっていく。打者がスイングを開始している。ボールの軌道とバットの描くダイナミズムが、スローモーションのように一致していく。誰もが固唾を飲んだ。塗李ナインの誰もが、その一球にここ数ヶ月の熱い想いを込めていた。そしてその想いは、科学的な根拠の中で、数ミリのブレもなく成立した。ハイドロプレーニング現象が、車もない、雨も降らない野球場の一場面で、紛うことなき成立をはたしたのだ!
打球は、グラウンダーとなって翔平の右脇を通り過ぎた。ショートの結城が軽快なステップで歩み寄る。ボールはその短い時間で、既に多くのグラウンドの土を身に付けてしまっていた。問題はまだ続いている。結城のプレーが終わるまで、まだ確証はもてないのだ。しかし、そのボールが結城のグラブに収まったかに見えたその刹那、目にも止まらぬ結城の右手が、僅かコンマ五秒の間に、白球を白球に戻していた。一塁に送球する。塁審がアウトを宣告する。北田がボールを確認する。幾人かの内野を回って、ボールが翔平の元に戻ってくる。ボールは、ぬるぬるしていなかった。ボールは、ぬるぬるしていなかった!
歴史が動き始めた。街の片隅にある小さな市営の野球場で、百五十年以上も続いている野球というスポーツの歴史に、新たな彩りが加わったのだ。少なくとも、守備についている塗李ナインだけは、そのことを知っていた。この感動は、ベンチに座る宇賀神にも伝わっていたかもしれない。そして事情を知らない沢井にも、伝染する種類の震えであったかもしれなかった。
攻守が替わり、塗李高校の攻撃となった。彼らは、自分たちのバッティングにも大きな期待を寄せていた。それは、ローションベースボールが守備だけでなく、攻撃においても強力な効果を発揮することを、練習という経験の中から予感していたからだった。
ローションを付着させたボールの扱いには、道具に対するリラックスした対応が要求される。それがバットにも伝わることにより、彼らは類い稀なバットコントロールをオートマチックに実行することができるようになっていた。加えて、ローション拭き取り練習は、彼らのリストを知らず知らずのうちに鉄人のそれと同等のものにしていたし、そして何より集中力、重ねて動体視力。ゴロなどに対するエラーは彼らにとっては通常のそれよりも許されることではない。彼らは守備練習によって、獣並みの集中力と動体視力を手に入れていたのだ。
しかし、彼らのバッティング練習の相手は、翔平だった。彼らは自分たちのバッティングが、通常の生きた球に対してどこまで通用するのかがわからなかった。沸き立つような期待と不安を抱えたまま、塗李ナインの攻撃が始まった。
結果、彼らはヒットを量産した。毎日深夜一時までの特訓は、伊達ではなかった。
一四対〇。無四球無失策で、エース桜田翔平の完全試合というおまけ付きである。
栄光の塗李伝説が、ここに、始まった。




