桜と少年と私
美少女かとみまごうほど、美しい少年だった。
桜咲く木の下で、ぽつねんと所在なさげに佇む様は、美しい花を手折ってしまいたくなるような風情で、なぜか心惹かれた。
そのままその通り掛かった公園から立ち去ろうとしたとき、折りからの突風が少年の被っていたキャップを吹き飛ばした。そしてなんのいたずらか、キャップはストンと私の足元に落ちてきたのだった。
そっと拾い上げると、向こうからトタトタと少年が近付いてきて、私に声をかけてきた。
「すいません。帽子」
さらりと艶やかな髪の毛は少し栗色を帯びており、瞳の色も少し色素が薄い。そんな色合いが繊細な彼の容姿にはよく似合っていた。
「……あ、帽子ね。はい」
彼の姿に見とれてしまい、一瞬帽子のことを忘れてしまっていた。
「ありがとうございます」
帽子を受けとると、少年は礼儀正しく頭をさげ、再び先程まで立っていた桜の木の下へと戻っていった。
茜色の太陽が、西の山の稜線にかかろうとしている時刻。子供がそんなころに公園にいること事態おかしなことではない。それなのに、その公園を立ち去ったあとも、どうしてだか彼のことが気にかかって仕方なかった。
アパートに帰り、インスタントコーヒーを飲むためのお湯を沸かす。
テレビをつけると、夕方のニュースは各地の桜の開花情報を知らせていた。給湯ポットから湯気が立ち上る。用意していたマグカップに湯をそそぎ入れると、香ばしいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。
マグカップを手に、テレビ前に置いてあるミニテーブルの前に座る。
マグカップに一口だけ口をつけると、ふっとその日起きた出来事を思い出し、忘れていた疲れが体中に重くのしかかった。
「はあ……」
「前園さん。また岩本部長のほうの仕事優先させるように現場に言ってたみたい」
「ええ? また?」
「現場は現場で仕事の能率化のために前々から工程組んでやってるのに、そのせいで工程が狂っちゃっていい迷惑だって言ってたよ~」
「そうよね~。いくら部長命令でもこう毎回じゃあね。前園さんも部長のお気に入りだからって向こうの肩持ちすぎだよね」
「ほーんと。実はあの二人裏でできてたりして」
「まっさかー。でもありえるかも~」
職場のトイレに入ってたら聞こえてきた会話だ。自分の悪口を狭い個室のなかで聞かされるという状況は、ものすごく精神衛生上悪い。そんなことを聞かされた相手でも、社内でうまく立場を守るためには表面上は友好的につきあっていかなければならないのだ。面と向かって言われたほうが、裏がないぶんまだましだと思う。
だいたい、部長が私に頼んでくるのは、自分で現場に言いたくないからなのだ。生産性の向上を呼びかけていた張本人であるところの岩本部長自身が、自分の担当する取引先の注文を優先させるために工程をずらして生産性を落とすことを後ろめたく思っているのだ。
そして使い勝手のいい私にクッション役を頼んでくる。調子のいい笑顔を浮かべながら。
そんな嫌な仕事も仕事のうちだと我慢してやっていたのに、同僚からはとんでもない誤解を受けているという始末。私にはなんのメリットもない。
ただただ疲れきっていたが、珍しくその日は定時であがれたことだけは不幸中の幸いだったかもしれない。
あの少年は、あそこでなにを待っていたのだろう。
美しい桜の木の下で、まるで桜に愛されたような透明な美しさを纏って。
どこの誰ともわからない少年のことを考えていることは妙だったが、そのときだけは嫌なことも忘れていられた。
次にその少年を見たのは、それから三日後のことだった。前日に雨が降り、その公園の桜もかなり散ってしまっていた。ひらひらといくつもの花びらが宙を舞い、地上に薄桃色を散らしている。
そんな美しくも儚い景色のなか、以前見た少年が前回と同じように桜の木の下で立っているのが見えた。
桜色に霞む景色のなか、少年の姿は以前にも増して幻想的だった。
「こんにちは」
通りすがりざまそう声をかけると、少年がたったいま気づいたという様子でこちらを見た。そしてぱっと花が綻ぶような笑顔を見せた。
「あ、この前のお姉さん。こんにちは」
きちんと挨拶のできる礼儀正しさは、率直に好ましい。
私は少年の近くの桜の木の下まで行くと、頭上を覆う桜の枝に目をやった。
霞むような桜色の花びらが、視界全体を覆い尽くす。その光景はとても幻想的で、美しい夢のなかにでもいるような気分だった。
「綺麗な桜よね」
「そうですね。散ってしまうのがもったいないくらい」
少年の言葉は私の気持ちに合致していた。美しい桜が惜し気もなく散ってしまうことがもったいなくて、こうしてこの公園に再びやってきたのだ。
「誰かを待っているの?」
「あ、はい。友達が来れたら来るって……。でも今日も来られなかったみたいです」
「そう。それは残念ね」
「あ、でも……」
言いかけて少年は突然口ごもってしまった。どうしたのだろうと顔を覗き見ると、少年の顔は真っ赤になっていた。
「え? どうしたの? どこか調子でも悪いの?」
私が問うと、少年はブンブンと頭を振った。
「な、なんでもないです。ただ……」
「ただ?」
少年は上目遣いにこちらを見て言った。
「お姉さんにまた会えたのが嬉しかったと思って」
どきりと胸が鳴った。こんなに綺麗な男の子にそんなふうに言われるなんて、お世辞でも嬉しい。
「あ、ありがとう。私もまた会えて嬉しいよ」
すると少年は緊張していた顔をくしゃりとさせて笑った。そんな変化にまたしても鼓動が高鳴る。
こんな一回り以上も歳の離れた少年に、いちいち動揺させられるとは。思ってもみなかった事態に、私は動揺を顔に出さないようにするので精一杯だった。
「それにしても、ここの桜は本当に見事よね。隠れた穴場スポットだわ。今まで知らなかったのが惜しいくらい」
「そうですね。この公園に来る人はいつもは少ないけど、桜の季節にはちょくちょく近所の人が見に訪れているみたいです」
「地元の人に愛されている桜なのね」
私が言うと、少年は嬉しそうにこくりとうなずいた。
「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花ぞ散るらむ」
しばらくすると、少年の口からそんな歌が紡がれた。
また驚いて彼の顔を見つめる。
「紀友則。百人一首の歌だね。よく覚えているね」
「お正月にいくつか頑張って覚えたんです。この歌の花って桜のことなんですよね」
「うん。確かそうだったと思う。ちょうど今日のような光景だったんだろうね」
つと頭上を見上げる。桜色の雲霞が視界を覆い尽くす。惜しげもなくひらひらと舞い散る花弁。咲き誇り、役目を終えた花たちは空へと消えゆく。
儚くも美しい情景。一瞬の命の美しさ。
そんな情景を見ていたら、じわりと目の奥が熱くなった。
まずいと思い慌てて目頭を押さえるが、時すでに遅かったようで、少年が心配そうに声をかけてきた。
「お姉さん……?」
「あ、ご、ごめんね。なんでもないの。気にしないで」
子供の前で泣くなんてみっともない。そう思うけれども、なぜか涙が溢れて止まらなかった。この美しい情景のなにかが、心の琴線に触れてしまったのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
ふいに少年がそんなふうに言った。
「大人だって泣いてもいいと思います」
優しく微笑みながら話す彼が、ひどく大人びて見え、大人の私が彼に慰められているような奇妙な状態にふとおかしくなった。
くすりと笑った私を見て、彼も安心したように少年らしい笑顔を見せた。
「よかった。笑ってくれて」
「ごめんね。恥ずかしいところ見せちゃって。でも、なんかありがとう」
「はい」
私と少年は、それからしばらく桜の散りゆく光景を眺めたあと、さよならと言葉を交わして別れた。
美しい桜と少年の笑顔に名残惜しさを感じながら。
次の日会社へ出勤すると、先日私の悪口を言っていた同僚の女性と、入り口でばったりと鉢合わせた。おはようございます、と形ばかりの挨拶をして通り過ぎようとする彼女に、私は次の瞬間こんな言葉を投げかけていた。
「なにか私に言いたいことがあったら、次は面と向かって言ってちょうだいね」
すると彼女はさっと顔を青ざめさせ、気まずそうな顔つきになった。そして返す言葉も浮かばないのか、すっと私から目を逸らすと逃げるようにその場を後にした。
勤務時間は忙しく過ぎていった。途中、またいつものように調子の良い声が聞こえてきたかと思うと、岩本部長がそろそろと私の座っているデスクのほうへと近づいてきて、話しかけてきた。
「前園さん、また悪いんだけど……」
言いかけた部長の言葉を遮るように、私はこう言った。
「部長。また私に現場への指示の仲介を頼むつもりかもしれませんが、それは本来私の業務には関係ない仕事です。どうぞ今後はご自分でなさってください」
びしりと口にして、私は自分のデスクの仕事に戻る。部長はしばらく固まったようにその場に立ち尽くしていたが、しばらくするとそそくさと私から離れていった。
晴れやかだった。
自分にこんな勇気があったとは、今まで知らなかった。
これもきっと、あの桜と少年にパワーをもらったお陰かもしれない。
桜の木々が葉桜に代わり、花の淡い色合いが町に見えなくなってしまったころ、再び私はあの公園へと足を運んでいた。
しかしそこにはあの少年の姿はなく、あの桜の木も春の装いから新緑の姿へと変貌を遂げていた。
そんな光景に幾ばくかの寂しさを覚えながらも、なぜか私の心は澄み渡っていた。
また来年になったら会えるかもしれない。
美しく咲き誇る桜の花の下で。
それまでまた頑張ろう。
新緑のまぶしい色に目を細め、私は公園を後にした。
過ぎゆく春の小さな奇跡は、淡い香りを残しながら空の彼方へと去っていった。
(了)