この世界からの卒業 10
10.
リリの父親が、ベンツで迎えに来るまでには三十分ぐらいかかった。
その間、リリはエルとただ見つめ合うばかりだった。
スマホに何を打てばいいのか。私たちは、世界は、これからどうなっちゃうの? それを訊いても、エルには答えられない。ソラにだって無理だろう。
だとすれば、他に何を話せばいいのか?
エルの母親も、ただ黙って息子を見つめていた。
そんな二人を交互に見ながら、エルは安心させるように微笑もうとしているが、笑顔はどこか、いびつだった。
ソラは見えない壁にもたれて座り込み、頭を抱えている。マヤのことがショックなのだろう。
彫像のように固まったリリたちの周囲で、しかし騒ぎは一向に静まらず、人々はただ喚いたり、叫んだりしながら駈けずり回っている。
その内、ずっと南の空から、鈍い爆発音が響いてきた。何か巨大なものが爆発したようだ。それが何なのか見えないが、リリは好奇心すら持つことができなかった。相次ぐ惨事に、心が麻痺してしまったようだ。
エルも、まったく関心を示さない。
ソラだけが立ち上がり、南の方を眺めた。その顔を、はっとする色が横切り、爆発の正体に気がついたようだが、敢えて口にはしなかった。
そうして次第に意識が遠のくようで、夢でも見ているようなぼんやりした気持ちになった時、肩をぽんと叩かれた。
振り仰いだ視線に、髪が半分白くなった、皺の多い男の顔が飛び込んだ。
思春期の娘らしく、高校に入った頃からあまり父親と話をしなくなったリリだが、この時ばかりは少女の頃に帰ったようにしがみついた。
「パパ!」
抱きしめられたその腕が頼もしく、思わず泣いていた。
駐車場から道路へ抜ける路地の入口付近に、見慣れたベンツが停まっている。普段なら車で五分ほどの距離だが、人を避け、渋滞する車をかわし、あちこち迂回してやっとたどり着いたのだろう。
父親に助けられて、リリとエルの母親はふらつく足で何とか立ち上がった。その様子をエルは、歯がゆそうに唇を噛みながら見つめている。
リリはエルによろよろと近寄り、彼の前の壁に触れた。
そこが、金色に光った。
エルも、重ねるように手を置いた。
ほとんど厚みのない、紙のように薄い壁なのに、それは二人の手の感触もぬくもりも伝えない。
一刻も早くここを立ち去りたい気持ちと、いつまでもここを離れたくない想いが、リリの胸の中で渦を巻く。
「さあ」
父親に優しく促されて、リリは壁から手を離した。金色の手の痕が一瞬きらめいて、そして消えた。
ベンツに向かって、振り返り振り返りしながら、一歩ずつ進む。
エルの視線がついてくる。
リリの涙は止まらなかった。
ベンツの後部シートにエルの母親と並んで、倒れるように乗り込むと、まだ二人を紹介していないことに気がついた。
「パパ、エルのお母さんよ。駅で偶然一緒になって」
「紀伊崎です。はじめまして」
エルの母親が頭を下げた。父親は運転席に座りながら、バックミラー越しに会釈した。
「澄沢です。娘が時々お邪魔しているそうで、ご迷惑をおかけしてます」
「いいえ。リリさんが来てくださるとウチが明るくなりますから」
大人というのは、こんな時でも社交辞令を交わすものか。リリは少しおかしくなった。
「お送りしましょう。確か、大蔵谷でしたね」
「でも、お宅はこの近くですよね。申し訳ありませんわ」
「いえ、怪我されてるようですし、この混乱です。徒歩では無理ですよ」
父親はそう言いながら、車を発進させた。
渋滞する車の隙間を縫うようにそろそろと進み、子午線郵便局の交差点を左折した。国道二号線に入ると、思ったより道は空き始めていた。にっちもさっちも行かなくなって、他の道を探そうと引き返した車が多いのだろう。
「ウチは、どうなってるの?」リリが訊くと、
「ウチは大丈夫だ。でも、天文科学館は、まっぷたつだ。爆発やら、水道管の破裂やらで、火事も起きてる。この辺とそう変わらないよ」
明石市立天文科学館は、子午線上に建っている。リリの家のすぐ近くなので、何回も行ったことがある。塔があって、そこに昇るエレベーターの中に、子午線を示すラインが引かれているのだ。街が一望できたあの塔も、きっと倒れてしまっただろう。
「この壁、一体どこまで広がってるのかしら」
リリが呟くと、父親はカーナビをテレビに切り替えた。
「あ!」
リリもエルの母親も、画面を見るなり息を飲んだ。
いきなり大爆発するジャンボジェットの映像が映り、アナウンサーの絶叫が車内に響いたからだ。
「ああっ! いま、われわれの目の前で、旅客機が爆発炎上しました!」
それはテレビ局の取材ヘリが撮影した映像だった。たまたま壁の間際を飛行中に、ジャンボジェットが突っ込む瞬間を捉えたのだ。
「さっきから、こればっかり繰り返し流れてるんだ」
リリの父親が言った。
画面はスタジオの女性キャスターに切り替わった。
「お伝えしておりますように、関西地方の広範囲に渡りまして、突然、見えない壁のようなものが現れ、車、電車はもとより、このように航空機までもが行く手を阻まれ、激突して炎上している模様です」
「管制塔は警告を出さなかったんですかねぇ」どこまでも他人事のように、隣のスーツの男が言った。解説委員か、コメンテーターだろう。
「見えない壁ですから、レーダーに映らなかった可能性もありますね。とにかく即座に関西国際空港からの離陸をやめなければなりません」キャスターが言った。
「飛行機が爆発したのは明石海峡上空だ。あの辺は関空だけじゃなく、伊丹や神戸空港の便も通る、空の渋滞ポイントなんだ」
リリの父親が言った。
「壁は、そんなに上の方まで伸びているのね……」ぞっとしたようにリリが呟く。「関西地方の広範囲って言ってたけど、どの辺まで?」
「ずっとさ。ずっと北まで」
「ずっとって?」
「京都上空の西山さ~ん!」
リリの疑問に答えるように、キャスターの呼びかけで画面が別のヘリの機内に替わった。ヘルメットをかぶった若い男性のアナウンサーが、マイクを握りしめ、青褪めた顔で映った。
「はい、こちら、京丹波市の上空です。海岸近くに来ていますが、下は小さな漁港のある、静かで穏やかな町なんですが、いまはご覧のように波が大きく荒れていまして、その網野漁港には、二十艘ほどの船が係留されているんですけど、互いにぶつかり合って大変な状態です」
画面は地上を映すカメラに替わる。確かに、漁船が木の葉のように波に翻弄されている。
「どうやら壁は海にまで続いている模様で、それに遮られた海流が大きな波になって東西からぶつかり合い、なおかつ、通常の波も、これは南に向かって寄せているわけですから、非常に複雑な動きになっていまして……今日はあまり風もなく、波もない穏やかな日だったんですけども、にわかに大時化のような状態になっています」
「京丹波……じゃ、日本海にも……」途方に暮れてリリが言うと、
「それどころか、もしかすると……」父親が憂鬱に首を振った。
「海外まで? つまり、これは日本だけじゃなく、世界的な現象なの?」
「そこまでは報道されてないけどな。まだ、この混乱が始まって、一時間くらいしか経ってないから」
そう言われると、3Cの教室で卒業記念写真を撮ってから、まだたいして時間は過ぎていないのだ。あまりにもいろいろなことがありすぎて、とても信じられないが。
「でも、すぐに海外からもニュースが入るだろう。恐らく、この壁は地球規模のしろものだ」
「地球規模……」
確かに、ソラはこの壁が子午線の上に建っていると言った。子午線は、もちろん地球サイズの線である。だから、壁が世界を分断していることは、十分にあり得た。
そうなると、次の疑問はこれだ。
「これ……いつまで続くの?」
震える声でリリが問う。だが、父親にも答える術はない。ただ黙って、肩をすくめただけだった。
3月9日。後に、309と呼ばれることになる、その日。
リリは高校を卒業したが、世界もまた、それまでの世界を卒業して、まったく異なる次元に進もうとしているかに思えた。
(第1章 終)




