この世界からの卒業 2
2.
「エル!」
リリは叫んだ。
エルも、目の前で何か叫んでいる。多分、自分の名前を呼んでいる。だが、まったく声が聴こえない。
「どないなっとんの?」
委員長に問いかけたが、さしもの優等生も皆目見当がつかないらしい。むっつり黙って、盛んにメガネのメタルフレームをいじっている。
「ちょっと、どいて」
不意に後ろから手が伸びて、リリの肩を掴むと脇に移動させた。
そして入れ替わるようにエルの前に立ったのは、背の高いリリよりさらに上背のある女生徒だった。
「マヤ」
リリが言うと、力づけるように頷いたマヤは、ショートカットの栗色の髪を軽く撫で、軽く右足を一歩引いた。そして沈めるように腰を落とすや、「やあっ!」
鋭い気合と共に、右の拳をまっすぐ前に突き出した。
女だてらに空手部の主将を勤めたマヤの、教科書に載せたいほど正確な正拳突きだ。
リリははっとして目をつぶった。まるでエルが、マヤの拳で撃たれるように見えたからだ。
しかし、エルはきょとんとしたままだった。
マヤの拳でさえ、見えない壁はいとも簡単に弾き飛ばした。
その力が強かった分、余計に反動は大きく、マヤは拳と一緒に後ろに吹っ飛んだ。その体が委員長の上に倒れ、悲鳴が上がった。もちろん、委員長のだ。
「くそ、なんも見えないくせに、なんかある!」
立ち上がったマヤは、尚も挑みかかろうとしたが、リリはそれを止めた。「待って」
エルが何を思ったのか、不意に教室の窓に向かって駆け出したのだ。
その向こうには校庭がある。そしてその向こうは浜で、さらに向こうは海だ。
明石望洋高校は、その名の通り海を望む海岸べりに建っているのだ。
リリはエルにならって窓に向かった。他の生徒たちもついてきた。
春の空の下、校庭はまだ、高校生活の名残を惜しむ仲間たちで賑わっているはずだった。
しかし、いまはもう、そんなセンチメンタルな場面ではなくなっていた。
校庭のほぼ真ん中辺りに、人が集中している。まるでお見合いみたいに、向かい合って呼び合っている。その声が聴こえるが、しかし全部ではないだろう。なぜなら、この教室でいま起こっていることが、校庭でもそっくりそのまま起こっているのならば、やはり見えない壁の向こう側にいる人の声は、聴こえないはずだからだ。
「あすこもかよ……」
呟く委員長の目が点になっている。
エルが窓から身を乗り出すようにして、手を振り回しているのが見えた。
「危ない!」と叫んだリリは、すぐに彼の意図を理解した。
見えない壁が、教室の外にも続いているか、確かめようとしているのだ。
そして、信じられないことに、確かにエルの手は、窓の外の空中で何かに弾き返されていた。
つまり、見えない壁は教室を分断しただけではなく、校舎の外にまで続いており、さらには校庭までも分断しているらしい。
アメフト部の連中がスクラムを組んで、壁に突進するのが見えた。五人の屈強の男たちが全力でぶつかったが、いとも簡単に跳ね返されている。
なのに、そこにはやはり、何もない!
壁を叩くように、何もない空間を叩いている女生徒がいる。彼女が泣きながら叫んでいるのが聴こえる。その前には、途方に暮れたように中年の夫婦が立っている。きっと彼女の両親だろう。娘の門出を見に来た二人は、いま、無残にも娘と引き裂かれてしまった。
野球部のエースが現れて、自慢の剛速球をぶつけたが、それも軽く跳ね返された。エースは、甲子園でホームランを打たれたかのように、がっくりと膝をついた。
「あ! あれ!」
急にマヤが大声を出し、遠くの方を指差した。リリは釣られて顔を上げ、そしてあっと息を飲んだ。
海が、この街で育ったリリでさえ見たこともない、奇妙なうねりを見せていた。
波が、浜に向かって打ち寄せてくるなら、当たり前だ。しかしそれ以外に、横向きの波が起こっているのだ。海に面しているのに、右から左へ波が流れる。そんなバカなことがあるなんて……
しかも、横向きの波は左から右へも流れてきて、互いにぶつかって砕けている。その場所が、やはり見えない壁の延長線上にあるのだ。そしてそのまま浜に向かって、もつれ合うように押し寄せてくる。その動きが繰り返される内に、穏やかな明石湾の内海が、不気味な荒れ方を見せ始めている。
「まさか、この壁、海にまで……」
ありえない、というように委員長が首を振った。
だが、現実に目の前でそれが起こっている。
エルが、また動いた。
今度は窓とは反対側、教室の後ろのドアから廊下へ飛び出していく。
リリは慌てて後を追った。




