ウォール・ゾーン 6
6.
ドアホンのモニターに映ったマヤは、青褪めた顔でリリを見つめている。
何かを訴えるように。
リリは硬直したまま、言葉が出ない。
「リリちゃん」
ようやくマヤが、掠れた声で言った。スピーカー越しだったが、リリにはわかった。
マヤの声じゃない!
もっとずっと低い、男の声だ!
「あ、あなたは……」リリは喘いだ。「キオ?」
「うん」
モニターの中で、辻木マヤにそっくりの人物は、弱々しく頷いた。
「マヤ姉ちゃんが死んだって、ほんま?」
「ちょっと待ってて、いま行くから」
慌ただしくドアホンを切ると、モニターもプツンと消えた。
「誰?」
母親が訊ねるのに、
「キオ。マヤの弟」
短く答えながら、リビングを飛び出した。
玄関のドアを開けると、水滴交じりの強い風が吹きつけてきた。さっきから黒い雲に覆われていた空から、とうとう雨が降り出したのだ。
ポーチにうなだれて佇んでいるのは、確かにマヤのひとつ違いの弟、辻木キオだった。
幼い頃は本当によく似ている姉弟だった。それが近頃はキオがどんどんたくましくなって、はっきりとした個性の違いが出ていた。
しかし、いまはマヤが死んだと聞いたショックのためか、昔の頑是ない子供に戻ったようだ。それで、辺りが暗くなったこともあって、リリはマヤだとばかり思ってしまったのだ。
「リリちゃん!」
子供の時から変わらない呼び方で、キオはリリにしがみついた。いまはもう彼の方が背が高いのに、リリは包み込むような気持ちで抱きしめた。
「おばさんとおじさんは?」
リリが訊くと、キオは首を振った。
「まだ忙しいんや。なんかこの辺り、立ち入り禁止になるみたいで、せっかく収容した怪我人を、また運び出すんで、もう大騒ぎ」
「そう……」
「ねえ、リリちゃん、お姉ちゃんはどこ? どこで死んだの?」
リリの目から、知らずに涙が溢れていた。それを拭わずに、リリは言った。
「駅よ。人丸前駅」
「連れてって、お姉ちゃんのとこ」
リリはためらった。あの巨大な岩のような瓦礫に押しつぶされたマヤ。きっと、ひどい姿になっているだろう。それをキオに見せていいのだろうか。
いや、何より、自分自身が、そんなマヤに向き合う勇気がなかった。
「お願い」
キオがすがるように見ている。
その眼差しを、リリは拒むことが出来なかった。
雨は次第に強くなっていく。その中を突いて、傘も差さずに二人は走った。
家の周りには、いつの間にか自衛隊のものらしいジープが何台も走っていた。呼び止められるかと思ったが、他の任務で忙しいのか、二人には目もくれない。
駅までの僅かな道のりを、リリとキオは駆け抜けた。
崩壊した人丸前駅は、瓦礫の山もさっきのままだ。
周辺には、やはり自衛隊員と、消防隊員や警察官らが入り乱れていた。
火の出た家の消化活動はほぼ終わり、助け出された人たちが次々と救急車で運ばれている。
駅が崩れて来た時の、悪夢のような辛い記憶を掘り起こしながら、リリはキオの手を引いてマヤの眠っている場所を探した。
雨は本格的に降りしきっている。せっかく乾いた髪がまた濡れるのも厭わず、瓦礫の山の間を二人は走った。
「待ちなさい! ここは危険だ!」
ついに背後から呼び止められた。
振り返ると、若い自衛隊員である。
「この辺に、友だちがいるんです!」
リリは必死で訴えた。
自衛隊員は顔色を変えた。まだ生きていると思ったのだろう。
「どこです?」
慌てて捜索を手伝おうとする彼の誤解を、リリは敢えて解かなかった。
「この辺だと思うんです。上から落ちてきた瓦礫に……」
自衛隊員の表情が曇った。「押しつぶされたのか」
その呟きには、もうダメだろう、という響きがあった。
「多分、この辺です」
リリは聞こえなかった振りをして、自衛隊員の手を引っ張った。
駅との位置関係を確かめ、きっとここだ、という場所だった。
「あ、リリちゃん!」
キオが小さな悲鳴を上げた。
その細い指が指したところを見ると、瓦礫の下から何かがはみ出ている。
「スカート!」
濡れて黒く見えるが、望洋高の制服である、紺色のスカートのようだ。
二人は駆け寄った。
瓦礫と瓦礫の隙間。雨に煙る闇の奥底に、人の体が横たわっている。
一瞬、リリはマヤが生きているのではないか、という淡い期待を抱いた。
しかし、その体はピクリとも動かない。
「よし、この瓦礫を動かしてみよう」
若い自衛隊員が言うと、手近に落ちていた金属の棒を手にした。駅が崩れた時に破壊された何かの一部だろう。
それを梃子にして、彼は全力で瓦礫と瓦礫の間を広げようとした。
「手伝います!」
キオが叫んで、瓦礫に肩を当て、渾身の力で押した。
瓦礫の片方が軋むような音を立てて少し傾き、それから自らの重みでずずっと滑り、隙間が大きく開いた。
「よし! いまだ!」
自衛隊員が素早く棒を捨て、上半身を隙間に入れて、奥に横たわる人の腕を引っ張り上げた。
「マヤ!」
リリが叫んだ。
現れたのは、確かに彼女の親友だった。
その頬は泥に汚れているが、ほとんと傷らしいものも見当たらない。
巨大な瓦礫に押しつぶされたのに、奇跡的に損傷は僅かだった。
しかし、神は、この少女に渡す幸運を、少しケチったに違いない。
その瞼は閉ざされたまま、二度と開く気配はなかった。
「ありがとうございます」
リリは自衛隊員に頭を下げた。
「早く、避難してください」
自衛隊員はそう言うと、本来の任務に戻るべく、どこかへ去った。
キオは姉の遺体を抱き上げた。その頬が濡らしているのは、雨であり、涙であった。
二人は再び、走った。
今度は辻木医院を目指して。
医院の前にはジープと、救急車が停っていた。今夜はこの明石に、日本中の救急車が集まったかのようだ。
姉の遺体を抱いたキオが先に駆け込み、リリが後から続いた。
マヤの両親が、看護師たちと、ストレッチャーに乗せた患者を次々と病室から運び出している。
「マヤ!」
気がついたのは、母親だった。その声に、父親の院長も振り向いた。
キオは姉を抱いたまま、二人に駆け寄った。二人も駆け寄って来た。家族四人が再会したが、その一人はもう物言わぬ身になってしまっていた。
キオが床に、姉を横たえた。その両脇に両親が跪いた。
唸るような声が響いた。
二人が、声を押し殺して、泣いているのだ。
それはまさに、慟哭であった。
娘を襲った理不尽な運命を呪う、親の悲痛な怒りの声だった。
思わず作業の手を止めて、看護師や救急隊員たちもうなだれていた。
リリもまた、耐えられない思いで、その場に崩折れた。
偏西風が壁によって遮られ、空気の流れが途絶えた影響で、壁の東側では一時的に急激な低気圧が発生。そこに太平洋上の湿った空気が流れ込み、壁に突き当たって雨となっていた。その雨脚はいまや家々の屋根を狂ったように叩き、人々の不安と哀しみに重くのしかかった。