ウォール・ゾーン 4
4.
「政府は非常事態を宣言し、壁から2キロ圏内を原則立ち入り禁止にする方針です」
テレビでアナウンサーが言うのを聞きながら、シャワーを浴びて汚れを落としたリリは、疲れた体をリビングのソファに委ねた。
「2キロって言ったら、ウチも入るじゃない……」
テレビを見ていたリリの母親が眉をひそめた。
「その区域に、さっそく名前をつけたやつがいる」父親はスマホを見ながら言った。「ネットじゃもう、みんながウォール・ゾーンって呼んでるみたいだな」
「ウォール・ゾーン?」
「ウォー・ゾーンのもじりだろう。交戦地帯っていう意味の」
「交戦って……戦争というわけじゃないんでしょう?」
「どうかな。それはまだわからない」父親は顔を上げた。「でも、見えない壁が突然現れるなんて、自然現象とは思えないだろう? だとしたら、それは人間のしたことだ。これだけの破壊を、人間がわざと起こしたとするなら、戦争以外に考えられないじゃないか」
「でも、それならどこの国が?」
「だから、まだわからないさ。中国なのか、北朝鮮なのか、あるいはイスラム国のテロかもしれない」
「ああ、でも、この家から出て行けと言われたらどうするの?」
そんな両親の会話を聞きながら、リリは窓から外を見ていた。いつの間にか強い風に庭の立木がゆさゆさと揺れている。幸いこの辺りは火事になることはなく、どの家も静かだ。ただ、たまたま壁の通っている子午線上の家だけが、倒壊していた。その建物から出る粉塵が風に吹き上げられ、晴れた空を雨雲のように覆って、一帯はにわかに暗くなっている。
エルはどうしているだろう? 学校に戻っただろうか?
電話が鳴った。
エルかと思って、リリはハッとしたが、壁を隔てて電話が通じるはずがない。鳴ったのは父親のアイフォンだった。
「ああ……やっと繋がったな……うん、こっちもダメだ。九州には全く連絡が取れない……うん、やっぱり、壁に遮られているんだ……電話もメールもだ」
会社の人らしかった。
リリの父親は小さいながら通販会社を経営している。電話やネットで注文を受け、宅配便で送る仕事だ。
本社は神戸だが、電話を受けるコールセンターは福岡にある。フリーダイヤルで受けるから、日本のどこにあっても構わない。日本の通販ビジネスは九州を中心に発展してきたので、コールセンター業務を専門で受ける会社がたくさんあり、ノウハウも蓄積されていて、コストも安い。多くの通販会社と同じく、リリの父親の会社もその一つに外注していた。
しかし、九州はもちろん、壁の向こう側になる。だからコールセンターと連絡がつかなくなったのだ。それは、客からの注文が入らなくなったに等しい。
父親は話しながら席を立った。リビングのドアを開けて廊下へ出ると後手にまたドアを閉めた。家族には聞かせたくない話なのだろう。それだけで会社の状態がよくないのは、充分わかってしまうのだが。
声が遠ざかって、二階への階段を上っていく。自分の書斎に行ったのだろう。ここ十年ほどの間に、働き方改革の掛け声もあって、在宅勤務が推進されている。それで普通の家庭でも父親が書斎を持つようになった。リリの家も去年リフォームした時に、父親の部屋をつくった。それまでの日本の父親の大多数は、家に自分の部屋など持っていないのが普通だったのだが。
もっとも社長ともなると、ずっと家にはいられない。自宅で仕事をするのは週の内、二日あるかないかだった。
リリが髪を拭き終わって、タオルをたたんでいると、今度は玄関のチャイムが鳴った。母親がドキッとしたように顔を上げた。
「誰かしら……まさか、立ち退きを言いに来たんじゃ……」
怯えたように立ち上がろうともしない。
仕方なく、リリが立った。リビングのドアの脇にあるモニター付きのインターフォンの受話器を取る。
「はい……」
モニターを覗いたが、外はかなり暗くなっているらしく、一瞬よく見えなかった。
だが、外の道を車が通って、そのヘッドライトが舐めるように玄関の前に立つ人物の顔を照らした。
それを見たリリは、息を呑んだ。
「マヤ!」
リリとエルの母親を助けようとして、身を犠牲にしたはずの、辻木マヤが、そこに立っていたのだ!