ウォール・ゾーン 3
3.
体育館の海に面した扉の傍で、「あっ!」という悲鳴を上げたのは、カナダ生まれの帰国子女で、アンという。本来は成績もよく、活発なタイプだったが、この超現実的な体験に打ちのめされて、茫然自失の状態だった。
それが、驚きに目をみはって、扉の外を指さしている。
エルはソラと共に、その横に駆けつけた、すると、強い風が押し戻すように吹きつけた。それに逆らって扉から外を見た。
「あっ!」
彼らもまた、呆然として叫ばざるを得なかった。
海が、発狂していたのである。
目の前には学校の境界を示す金網のフェンスがある。本当なら、そこからなだらかな下り坂の砂浜が広がり、その先に波が打ち寄せているはずだ。だから太平洋に望む望洋高といえども、実際には海までいくらかの距離があった。
ところが、その浜がなくなっているのだ。
いつの間にかすぐ目の前に、荒れ狂う海がある。
見上げるほどの高さにまで、よじれた太い縄のように、うねりを加えた複雑な形になった波が、龍の如く昇り、そして力尽きて崩れてくる。
ざっぱぁん!
いままでどうしてこの音に気づかなかったのかと、不思議になるくらいの大音響で、波は白い水柱を上げる。
「どうしたの?」
ハナ先生や校長以下の教師たちも集まって来た。そしてすぐ傍に迫っている海に絶句した。男子も女子も、すくんだように海から目を離せない。
強い風に前髪を乱されながら、エルも魅せられたように海を見た。
「そう言えば……」
エルは思い出した。壁によって遮られたために、波の運動がかき乱され、前後左右あらゆる方向から互いにぶつかり合っていた。子午線郵便局に向かって学校を飛び出す前、確かにそれを見ていたのだ。多分、その巨大なエネルギーがじわじわと高まり、陸に向かって押し寄せて、この数時間の間に砂浜をすっかり侵食してしまったのだろう。
「でも、今日は穏やかな海やったのに……」
コータが呟くと、ソラが首を振った。「表面上穏やかに見えても,海ってのは深いところで常に激しい海流が流れてるんだよ。しかも、明石海峡は狭い。一番狭いところで、確か3.6キロしかなかったはずだ。その内の半分くらいが潮流の主流になってる。しかも、満ち潮の時は播磨灘に向かうし、引き潮の時は大阪湾に向かう。つまり、西向きに流れたり、東向きに流れたりするわけだ。そいつがこの狭い海峡に流れ込むと、凄まじいスピードになる上に、水深20メートルぐらいのところで、渦を巻くんだ。だから、ベテランのダイバーでも海底に立ってられないらしい。その海流が壁に遮られたんだ。そこで海流はぶつかって逆に向かう。すると、後から押し寄せてきた流れとぶつかる。そうして乱れに乱れた海流が運動エネルギーを増幅させて、こんな巨大な波になったんだろう」
ソラはまた、端末を取り出し、素早く検索した。
「今日は4時半頃、満潮になる。だからいまは徐々に満ち潮になってきてる」
「ってことは」エルが言った。「これからますます海は荒れてくるってことか」
ソラはうなずいた。「この体育館も、やばいかも」
「ちょっと待て」エルは青褪めた。「おれ、さっきリリと明日の朝、浜で会う約束を……」
「引き潮になれば、また浜が現れるかもしれないよ」ソラは慰めるように言った。
「ほんまか? 絶対やな?」
詰め寄られてソラはたじろいだ。
「いや、あの……」
その時、ぶわっという音をたてて、風が二人を直撃し、思わずよろよろと後ろに下がった。
「風だって、今日はなかったぜ」
エースが言うと、ソラがまた解説した。
「偏西風ってもんがあるだろ。地上で風がなくたって、上空にはいつでも西の風が吹いてるんだ。衛星放送の電波さえ壁にられてるんだから、偏西風だって当然遮られてる。その風が行き場を失って地上に吹き下ろしてきたんだ」
「くそ」エルは唇を噛んだ。「海も空も陸も、どこもかしこもぐちゃぐちゃなのか」
「そうだね」ソラは頷いた。「この壁が出来ただけで、付近一帯がこんなになってしまうなんて」
「風も波も、ますますひどくなる一方なのかしら?」
ハナ先生に言われて、ソラは弱々しく頷いた。「多分」
「このまま体育館にいて、大丈夫でしょうか?」ハナ先生は校長に言った。
「うむ……しかし、他にどこへ行けば……」
校長が腕を組んで考え込んだ時だった。
空の上の方から、何かがひらひらと木の葉のように舞い落ちてきた。
「なんだ?」
エルが指をさす。
「あ、ヘリや!」
コータが叫んだ。
上空から取材していたテレビ局のヘリコプターが、強風に煽られ、失速したらしい。
完全にコントロールを失って、ヘリは墜落してきた。
だが、まったく音がしない。
壁の向こうだからだ。
兵庫県のテレビ局は、さっきソラが調べたように、みんな壁の東側にあった。だから、ヘリも向こう側にしか飛んでいないのだ。
まるで音を消したテレビで、戦争映画を見ているみたいだった。きりきり舞いしたヘリは、エルたちから見て左の方へ消えていった。
彼らは、凧後を追いかける子供のように、ヘリを追ってほかの扉に向かった。
校舎が見える扉に着いた時、ヘリがものすごいスピードで墜落してくるのが見えた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ間に、ヘリは校舎に激突した。
機械の鳥は火を吹いた。中に乗っている人影が、ばらばらと振り落とされた。だが、やはり爆発音は聞こえない。
代わりに、
ぎぎぎぎぎぎ
衝突のために校舎が大きく揺らいで、鉄骨が軋む音だけが不気味に響いた。巨大な怪物の歯ぎしりのようだった。
「た、倒れるわ!」
女子たちが悲鳴を上げた。それが引き鉄になったかのように、ずずず、と地響きをたてて、校舎が傾いた。壁のところで引き裂かれた断面が、徐々に露わになった。
「扉を閉めよう!」
エルが怒鳴った。男たちが力を合わせて扉を閉めようとしたが、既にもうもうたる粉塵が舞い踊り、目に入ってものすごく痛い。校舎のコンクリートや校庭の砂が上からの風に煽られているのだ。
歯を食いしばってやっとの思いで扉を閉めた時、エルは隙間からチラッと見た。
懐かしい明石望洋高校の校舎が、狩人たちに追い詰められたマンモスのように、ゆっくり崩れ落ちていくのを。
校舎と渡り廊下で繋がっている体育館も、その衝撃で激しく揺れた。
「きゃっ!」
いつの間にかすぐ傍にいたアンが、エルにしがみついた。
エルもとっさに、彼女の肩を抱きしめていた。
「気をつけて!」
ハナ先生が言った途端、天井から照明が落ちてきた。
ガラガラがっしゃーーん。
派手な音を立てて、割れたガラスが飛び散る。
「先生、サークル棟に避難しよう」
ソラがハナ先生に言った。サークル棟は体育館の裏手に建っている三階建ての建物だ。コンクリートのブロックを積み上げたような安普請だが、一応校舎とも体育館とも繋がってはいない。幾分安全に思えた。
「そうね……」
ハナ先生は校長を見たが、途方に暮れて突っ立っている彼は、すっかり指揮する意欲を失っているようだった。
「そうしましょう」
ハナ先生は諦めたように決断した。