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ウォール・ゾーン 2

2.


 大蔵谷のエルの家に行く間に、いつの間にか街はいつもの風景に変わっていた。まるであの混乱と破壊の世界が、嘘のようだ。

 結局、あの異常な悲劇は、壁のすぐ近くだけのことなのだ。

 リリは、悪い夢を見ていたような、何かにだまされたような、複雑な気分になった。


 エルの母親を、親子が住むマンションに送り届けた。何度も感謝して頭を下げる彼女に、リリの父親も何度も頭を下げ、そして元来た道を引き返した。


「パパ、マヤの家に寄ってくれる?」


 それは、迷いに迷った末の決断だった。一旦家に帰って母親の顔を見て、着替えてから行くべきか。それとも、この汚れた姿のまま駆けつけるべきか。

 何より、こんな残酷な知らせを告げなければならないことが辛くて、少しでも先に伸ばしたい気持があった。

 しかし、マヤの両親も、娘の安否を心配しているだろう。不安を悲しみに帰るだけだとしても、やはり早く事実を知らせた方がいいように思えて来たのだ。


「辻木さんの? どうして?」


 まだ、父親にも話していないのだった。

 しかし自分の親にすら話せないことを、マヤの両親に伝える勇気なんて湧くはずがない。リリは自分に鞭打つ思いで、「マヤが‥…死んだの」と言った。


 だが、言葉はそこで嗚咽に途切れ、ショックを受ける父親に詳しい事情を話すには、かなりの時間がかかった。


「そうだったのか……」


 放心したように、リリの父親は呟いた。


 いくつもの黒煙が、行く手に立ち上っている。消防車や救急車が、二人の乗るベンツを追い越していく。見慣れた平凡な街が、再び混沌に変貌していく。

 夢の中へ帰っていくのだ、とリリは思った。最悪の悪夢の中へ。


 子供の頃からの遊び場だった、明石天文科学館は見るも無残な状態だった。

 子午線が通る塔は、真っ二つに割れ、白い壁が崩れて中が覗き見える。それは、ぱっくりと割れた傷口から、筋肉や骨が覗いているかのような不気味さだった。


 リリの家から見て、その科学館を挟んだ反対側に、マヤの家、辻木医院がある。

 内科と小児科の開業医であるマヤの父親は、いつもにこにこ微笑んでいるやさしいおじさんで、リリとも親しい。母親はマヤが空手を始めるきっかけになった人で、自身が空手の師範という、活動的な女性だった。


「あ、これは……」

 リリの父親が驚愕してブレーキを踏んだ。

 角を曲がれば、正面に辻木医院が見えるというところまで来て、リリたちの車は進めなくなった。押しかけた無数の車で、その道が大渋滞になっていたからだ。


 考えてみれば、当たり前のことだ。

 壁のために起こった爆発や建物の倒壊で、多くの怪我人が出ているはずだ。内科と小児科が専門で外科ではないとはいえ、医院の看板を掲げている以上、患者は殺到するだろう。そしてそれを断るわけにもいかない。


「歩くしかないな」


 父親が呟くより先に、リリはドアを開けて路上に出ていた。


 さして広くない道をびっしりと埋めた車の間を縫うように、二人は辻木医院に向かう。

 サイレンがあちこちから響いてくる。どこかで建物が崩壊する音も断続的に聞こえてくる。

 まるで街自体が、苦しみに喘いでいるようだ。

 

 しかし、医院に辿り着くと、そこに充満していたのは生身の人間の苦痛の呻きだった。


 まるで戦場だった。


 前庭には芝生が植えられていたが、そこには包帯を巻かれたミイラ男たちが横たえられている。建物の中に収容しきれない患者たちが、とりあえずの応急手当てを受けて、診察の順番を待っているのだろう。


 そうした人込みをかき分けて、ようやく入り口に辿り着くと、そこもやはり人で溢れていた。


 倒れている人々々。それをかき分け、看護師たちが必死で駆けずり回っている。

 年配の女性看護師がリリの目の前を通りかかった。昔からこの医院に勤めているベテランで、リリとも顔見知りであるのだが、まるでこちらに気がつかない。それだけ切羽詰まっているのだ。


 そうなると、院長であるマヤの父親も多忙の極みにいるに違いない。そんな中に割り込んで、悲報を告げるのはとても無理に思えた。


「どうする、少し落ち着いた頃に出直すか」


 リリの父親が言った。


「そうね……」


 諦めかけた時。


「リリちゃん!」


 アルトの女声が背後から聞こえ、リリは振り返った。


 マヤの母親だった。


 看護師ではないが、緊急事態のため手伝いをしているのだろう。看護師の服を着て、長い髪をまとめ、小学生くらいの男の子を支えながら玄関を入って来るところだった。


「おばさん!」


 リリは駆け寄った。

 マヤの母親は、それだけですべてを悟ったようだった。

 看護師の一人に男の子を預けると、「マヤのことね?」と訊いた。


「ごめんなさい、おばさん。マヤは……マヤは……」


 毅然としてマヤの母親は、リリを抱きしめた。


「知らせに来てくれたのね。ありがとう」


 リリは泣き崩れた。

 本当なら、泣きたいのはマヤの母親の方だろう。わかっていながら、堪え切れなかった。


「あなたは大丈夫? 怪我はないの?」


 自分は大丈夫だと告げるだけで、精一杯だった。リリは子供に戻ったように、泣きじゃくった。

 マヤの母親はもう一度礼を言い、しっかりした態度を崩さないまま、リリを父親に託した。

「澄沢さん、わざわざ知らせに来てくださって、ありがとうございます」


 リリの父親は、娘を抱えながら、うつむき加減に言った。「本当に、なんて申し上げればいいか」

「リリちゃんが無事なだけでも、よかった。詳しい話を伺いたいんですが、何しろいまはご覧の通りのありさまで……」

「そうですね。また落ち着かれた頃にご連絡します」


「あたし、手伝います!」

 リリは涙に汚れた顔を上げて言った。

「あたしにも出来ること、ありますよね?」


「あるわ」

 マヤの母親は頷いた。

「でも、その前に一度家に帰って、シャワーでも浴びなさい。そのままの状態で手伝おうとしても、あなたが倒れてしまう。そうしたら却ってこちらの迷惑になるの」


 率直な言い方が、むしろ清々しく、リリは納得せざるを得なかった。


「多分、今日は大分遅くまでこの状態が続くでしょう。もし、気持ちと体が回復したら、手伝いに来てちょうだい」


 リリは何度も頷いた。


「おいっ! この患者を頼む!」

 大声で怒鳴りながら、救急隊員がストレッチャーを運び込んできた。救急車も病院の近くまでは来れず、ストレッチャーでかなりの距離を運んで来たのだろう。荒い息をついて、汗まみれだった。


 マヤの母親は冷静に看護師たちに指示し、ストレッチャーを屋内に誘導した。リリ親子はそれを見送り、そっと辻木医院から外へ出た。



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