ウォール・ゾーン 1
第2章 ウォール・ゾーン
1.
全力でペダルを踏み、モーターもフル回転。ソラ特製改造電チャリのスペックぎりぎりの猛スピードで、崩壊した街中を、風を巻いて走る。
空から、やかましい音が降ってきた。走りながら顔を上げると、エルの目にヘリコプターがゆっくり降りてくるのが見えた。それも、三機もいる。どいつもプロペラの音をばら撒きながら、ぐるぐると旋回している。死肉に群がるコンドルのようなそいつらは、テレビ局の取材ヘリだった。
「あれ? 建ってるやんか!」
前方を指差し、エルが叫んだ。
倒壊したと思った明石望洋高校の校舎が、まだ市民会館と水産会館の向こうに建っている。
「いや、よく見ろ!」
ソラは冷静に見ていた。
「ズレてる!」
その通りだった。校舎は壁にふたつに分断され、少しズレている。西側の方が少し高く、東側の上からはみ出している。
鉄筋コンクリートの頑丈な建物だから、間が斬れただけではすぐに倒れないのだろうが、それでも徐々に偏った重みに耐えかねている。
二人はさっきと同じように、市民会館と水産会館の間の路地を駆け抜け、裏門から学校に戻った。
そのまま体育館に直行する。
「紀伊崎くん! 三保くん!」
体育館の入口のところに現れた女性が、大声で呼んでいる。
「ハナちゃんや」
担任にして望洋のマドンナを、なれなれしく「ちゃん」付けにしてエルが言った。
二人は全速で電チャリを乗り付けると、ハナ先生のところへ駆け寄った。
「どこに行ってたの?」叱りつけるようにハナ先生は言った。「何人かの子が、あなたたちもこっち側にいるらしいって言うのに、全然姿が見えなくて心配したわ」
「街を見に行ってた」エルは答えた。
「街を!」そんな危険なことを、と言うようにハナ先生は言ったが、その顔には、やっぱり、と書いてあった。「ひどい状態なんでしょうね。爆発音は聞こえるし、建物が倒壊する音も聞こえてくるから、大体想像はつくけど」
「その通り、ひでぇもん」
「先生、テレビは?」ソラが訊いた。「ヘリがあんなに飛んでる。取材してるんでしょ? テレビを見れば、全体の状況がわかるはずだよ」
しかし、ハナ先生は首を横に振った。「それが、何も映らないのよ」
「映らない?」
「ええ、故障ではないみたいだけど、体育館にあるテレビはどれも映らないの」
ソラは少し考えたが、やにわにスマホを取り出し、素早く検索を始めた。
「それと先生」エルは報告した。「リリ……澄沢さんはあっち側にいて、お父さんが連れて帰ったから、多分大丈夫や」
「そう……とにかくあっち側にはまったく連絡が取れなくて、誰がどっちにいるかも正確にはわからないのよ」
「それから……」
エルは少し口ごもった。マヤのことを言おうとしたのだ。
「やっぱりだ!」
検索を終えたソラが叫んだ。
「関西のテレビ局は全部あっち側なんだ。読売も、関テレも、毎日も、朝日も。兵庫のサンテレビまであっちだ。だから壁が電波を遮って何も映らないんだ」
「待って。でも……」ハナ先生が訊きかけると、ソラは先回りした。
「衛星放送でしょ? 残念ながら、BSの衛星もCSの衛星も、あっち側の上空なんです。東経一一0度から一二四度辺りの、高度三万六千キロ」
「え、そんな宇宙まで壁が行ってるんか!」エルが絶望的な気分で空を見上げる。
「それなら、飛行機が落ちるのも当然ね……」ハナ先生が呟いた。
「え? 飛行機?」エルは驚いたが、ソラは既に知っているような顔をしていた。
「あなたたちは街中にいて、見てないのね。さっき、海の上で旅客機が爆発したの。多分壁に激突したんだわ」
「音は聞こえましたよ」ソラが言った。「ぼくたち、子午線郵便局にいたんですけど、南の方で何かが爆発したなって。多分、飛行機かなって思いました」
「郵便局? どうしてそんなところに」
ソラは壁が子午線上にあるのではないか、という仮説の検証のためだとハナ先生に説明し、そしてそのために払った大きな犠牲のことを、自責の念を込めて打ち明けた。
「辻木さん? 辻木マヤさんが? 亡くなったの?」
「はい、ぼくのせいなんです」
事情を語る内に、ソラは自分でも気がつかない内に泣いていた。話しながら、ぽろぽろ溢れる涙に、ソラ自身が戸惑ったように口をつぐんだ。
「この状況ですからね、あなたのせいとは言えないわ」ハナ先生は慰めるようにソラの肩に手を置いた。「辻木さんの家は……どっち側かしら」
「澄沢さんと幼馴染やから、多分、あっち側」エルが答えた。
「それじゃ、ご家族に連絡もできないのね」ハナ先生は困惑した表情で、見えない壁を睨むように見た。「とにかく、校長先生にはご報告しないと。中へ入りましょう」
電話でダンから聞いた通り、体育館に残っているのは自宅が壁の向こう側で帰れなくなった教師と生徒だったが、その数は思ったほど多くない。
明石望洋高校は、市の中心である明石の街より東に位置している。それで、教職員も生徒も、多くが明石の街の方、つまり壁のこちら側に住んでいるのだ。だから、大部分の者は自宅に帰れたのだろう。
ハナ先生は校長のところへ報告に行ったので、エルたちは体育館の床に体育座りで輪になっている男子生徒たちの方に向かった。
「エル先輩! ソラ先輩!」
気配に気づいて男子の一団は一斉に顔を上げた。その中の一人が嬉しそうに言った。長い髪の二年生で、軽音の部員。ドラムを叩くコータだ。
「あれ、お前まだ、いたんか!」
エルは驚いた。卒業生は名残を惜しんでぐずぐずしていたが、在校生はあらかた帰ったと思っていたのだ。
「それが、部室でドラム叩いてたら、つい」
「アホやな。そんでこっち側に取り残されたんか。ってことは家、あっち側なんやな」
コータは顔をしかめて頷いた。「ついてませんわ」
エルとソラはコータの両脇を空けてもらって、座った。
見回すと、野球部のエースがいた。ソラと同じ3Dの生徒がいた。一年の時、同じクラスだったやつ。二年の時、同じクラスだったやつ。全部で七名に、いまエルとソラが加わって、九名になった。
女子は五名。少し離れた壁際に集まっている。中の一人が泣いていた。二人がそれを慰め、残りの二人は呆然として無表情だ。
あまりにも異常な事態に、心がついていけないのだろう。
そして教師たちは教師たちで固まって、壇の前にいる。いまはハナ先生が校長に説明しているのを、後の五名が聴いていた。
総勢、二十一名。
「とりあえず、今夜はここに泊まるんやそうです」コータが言った。「災害用の備蓄があるから、飯はそれで。毛布とかもあるんで」
「役所とかから誰か来てないの?」ソラが訊くと、コータは首を横に振った。
「こっちまで手が回らんと違いますか」
街の惨状を思えば、それも仕方ないと思われる。
「一体、これは何なんや」野球部のエースがソラに訊いた。「京大理学部の意見が聞きたい」
校内有名人の一人だが、クラスが一緒になったことはないので、エルは顔見知り程度だ。しかしソラは二年の時同じクラスだった。それで彼の進学先を知っているのだろう。
「まだ受かっただけで、授業は受けてないんだけどね」ソラは苦笑したが、真面目な表情になって、僅かにずれてはいるが、壁が子午線上に立っていることを説明した。しかもそれが天文子午線であること。
「ってことは、宇宙人の攻撃っちゅうことですか、先輩?」
コータが信じられないというように鼻の穴を膨らませた。
「そこまでは言ってない。けど、相当な異常事態なのは違いな……」
「あっ!」
ソラの言葉を遮るように、女子の悲鳴が上がった。
呆然としていた二人の内の一人が、いつの間にか体育館の裏手、海に面した側の扉のところに立って、外を見ていた。
全員が、そこへ駆けつけた。