ナナガ国にて朝の一幕
最初の投稿から改稿しております。
アキカゲとシキのやり取りをここへ入れました。
影から鎌を伸ばし、目の前の人間を存分に貪り喰らうアキカゲはうっそりと微笑んだ。
深夜の教会はひっそりと佇み、荘厳な装飾も闇に沈んでいる。唯一、壁面を飾る色とりどりの硝子が月明りの青白い光を染めていた。壁一面を飾る硝子は絵画のように美しく、太陽の光を取り込むと教会の礼拝の間を荘厳に照らし出すよう設計されている。
贅の限りを尽くし、技術の粋を集め、名だたる芸術家たちが飾り付けたこの教会は、聖ルアノラ帝国の象徴であり、中枢であり、聖域であった。
その聖域を血で汚した。殺生を禁ずるテンガ教の教えに背き、殺した。
磨きこまれた大理石の床に転がっているのは一つの肉塊。憐れな神のしもべ。この教会の持ち主である。
堪えきれない愉悦に、影に潜むアキカゲは酔いしれた。
久方ぶりの血肉のなんと甘美なことか。人を喰らうのは、飢えて飢えて、飢餓に狂いそうになった頃合いと決めている。飢餓に狂い、己の欲に耐えかねて人を殺すのだ。
そこに理屈も恨みも因果も何もない。喰われる側に非も罪も何もない。
何もない人間を殺し、喰らう。なんと罪深いことだろう。
「でもね、まだ足りないんですよ。僕が欲しいものには」
死体の影から闇が伸びる。闇は人の上半身を作り、影から半身を生やした状態のアキカゲが肩越しに振り返る。
「ほう」
そこには先ほどまでいなかった筈の人影があった。
人影は青い髪と瞳の見目の良い青年であった。青年は闇の中でもぼうっと光る眼を細めて、獰猛な笑みを浮かべた。
「手伝ってくれますよね? 僕が力を得るのは貴方にとっても得になる筈です。だからそこで黙って見ていたのでしょう?」
黒い影で出来た男の姿でアキカゲはにっこりと微笑む。優しそうな顔立ちに邪気のない笑みを貼り付けて、アキカゲはうきうきと声を弾ませた。
「三年前に殺し損ねたあの子が訪ねてきてくれるんです。ああ、なんて嬉しい事でしょうね。きっと感動の対面になりますよ」
「感動の対面、ね」
青年の目に宿る青白い光が強さを増し、腕組みをした青年そのものも、ゆらりと現れた鬼火が包み込んだ。
皮肉気に返された青年の言葉はアキカゲにとってどうでもいい。大事なことはこの青年が自分の言葉を否定しないこと。肯定されればもっといいが、それも些末な事であった。
「愛しいあの子はどんな反応をするでしょう? 泣くでしょうか、叫ぶでしょうか。ふふっ、想像しただけで身震いがする」
両手で自分を抱えこみ恍惚に震える。
「それには僕の居場所を教えてあげなくちゃ。ああ、でも他はいらない。あの子の側には余計な虫がいるらしいですね」
「忌々しいミズホ国の『珠玉』がな。奴らは厄介だ」
「ええ。ですから貴方がなんとかしてくれるのでしょう? シキ」
シキと呼ばれた青年の鬼火が、ゆらゆらと熱のない火を燃やす。アキカゲは、にこにことシキの言葉を待った。
「少しばかり情報を操作するとしよう。この国の『神』には既に話を通してある」
シキがそう答えると起こった出来事が変わる。
……ここにアキカゲとシキは存在しなかった。
「ありがとうございます! ああ、流石はシキ」
歓喜に手を打ち、アキカゲは満足して影に沈んだ。シキの姿もまた溶けるように見えなくなる。
静けさと闇に包まれた教会に取り残されたのは、無惨な死体と、死体が握る書物のみであった。
※※※※※※
窓から射し込む朝日に促され、ポルクス・キングスは青い垂れ目を開けた。半身を起こしてうーん、と伸びをすると、ポルクスの上で丸くなっていた子猫が音もなく飛び下りる。
「おはよう、ミソラ」
『おはよう、ポルクス。よく眠っていましたわね』
つんと顎を上げて優美に挨拶をする黒い子猫に、ポルクスはくしゃりとした笑顔を向ける。ちなみに子猫であるミソラの声は、他人が聞けば単なる鳴き声である。
「うん、ここのところ熟睡出来るようになって……って、うわっ」
にこにこと話していると、横っ面に子犬が飛び込んできた。
『おはよう、ポルクス!』
「おはよう、ハルさん」
千切れんばかりに尾を振る子犬を抱き止めて、ふわふわとした毛を撫でてからポルクスはベッドを降りた。寝間着のシャツを脱ぐと、ポルクスの背中へ、肌着で隠しきれない傷跡が覗く。
マギリウヌ国からナナガ国に戻り一週間が過ぎた。マギリウヌ国でアウリム科学技術長官との交渉で手に入れた情報から、背中の傷を負わせた張本人、ポルクスの父親が聖ルアノラ帝国にいるらしい。
直ぐにでも向かいたい気持ちと、このままここにいたい気持ちが同居している。しかしポルクスは前に進むことを選んだ。だから本当はぐずぐずとここに燻っていたくないのだ。今すぐにでも出立してしまいたい。とはいえ諸事情がポルクスをナナガ国へ引き留めていた。
『思い詰めるのはよくありませんわよ』
いつの間にか制服のボタンを掛ける手が止まっていて、音もなく肩の上に飛び乗ったミソラに尻尾で頬を叩かれた。その際に柔らかい毛が鼻先をくすぐる。
「分かって……ふえっくしょんっ」
お陰で返事がくしゃみになってしまった。慌てて鼻紙を出して拭く。
『分かっているのなら良いのですけれど』
肩の上の子猫が緑の目を細め、尻尾でポルクスの制服を叩いてから溜め息を吐いた。頭から尻尾まで艶やかな黒に、子猫ながら気品のある佇まいであるミソラの正体は、実のところ妖魔である。
アングレイ商会の娘リルから生まれたミソラを、ポルクスが説得して分離させた経緯から、心強い相棒となって共にいる。コハクやハヤミが言うには、宿主と妖魔のような不安定な状態らしい。ポルクスが喰われずにいるのは、ひとえにミソラの強い自制心の賜物で、ポルクスはミソラに頭が上がらない。
感謝の気持ちを込めてビロードの毛並みを撫でると、気持ち良さそうに喉を鳴らした。
『ミソラばっかり構ってズルい! ズルい!』
足元の子犬が吠えて、自分を構えとポルクスの足に突進した。
「わあっ」
子犬の攻撃を受けてポルクスはよろめき、ぐいっと襟首を掴まれて顔面強打を免れる。数センチに迫ったテーブルの木目に、内心で冷や汗を掻いた。
「大丈夫か? 悪い。あれぐらいで転けるとは思わなくてさ。ほんと鈍臭いな、お前」
「うっ、鈍臭いのは自覚してますよ。転けずにすみました。ありがとうございます、ハルさん」
自分の襟首を掴んだ青年に、ポルクスはちょっと非難がましい目を向けたものの、助けてもらった礼を言う。
言ってから首を捻った。ハルのせいで転けそうになった挙げ句の鈍臭い呼ばわりは、よくよく考えれば酷い気もする。しかし直ぐにまあいいかと流した。
「よっしゃ! 鈍臭いポルクスが怪我しないよう見といてやるから、任せといて! な? な?」
青年が犬歯を覗かせて嬉しそうに笑う。
つい先程まで姿かたちもなかった青年であるが、ここにいることにポルクスは何の疑問も感じていない。
何故ならばこの青年の正体は、先程ポルクスの足元に突進してきた子犬であるからだ。
ぴんぴんとあちこちに跳ねた明るい茶色の髪から、同じく茶色の毛並みに覆われた犬耳が生えている。尻から生えるやはり茶色の尻尾が、ぶんぶんと勢いよく振られていた。
青年の名はハルといい、ミソラと同じく妖魔なのだが、ミソラと違ってハルの主はコハクである。犬の妖魔であるハルが取る姿は実に様々で、子犬から成犬、果ては巨大な動く犬の死体にまでなる。
「はい。頼りにしてます、ハルさん」
ふふんと得意気に胸を張るハルの態度が微笑ましくて、ポルクスは笑顔で頷いた。
「だろ? だろ? 俺は頼りになるよねっ」
『押し付けがましい親切は、大きなお世話ですわよ?』
調子に乗るハルへミソラがぶすりと釘を刺した。ハルのくりくりとした目が据わり、機嫌よく振っていた尻尾が止まる。
「ああん? 何だって? ひよっこの癖に生意気な奴だなっ」
『嫌ですわ。先輩風を吹かせるんですの? でしたらそのように振る舞いなさいな』
「わーっ、ちょっとストップ! ストップ! ハルさんのことは頼りにしてますよ。だから落ち着いて下さい。ほら、ミソラもそんな言い方しない」
必死で宥めるものの、ハルは歯を剥き出して低く唸り、ミソラは尻尾とひげをぴんと上げて毛を逆立てる。
『本当のことを言って差し上げているだけですわ』
「力もない癖に口ばっかり達者だなっ!」
ポルクスを挟み、ばちばちと音でもしそうな勢いで、しばし睨み合う。
「『ふんっ!』」
子猫と青年は同じように鼻を鳴らしてそっぽを向いた。それからミソラは定位置であるポルクスの制服に潜り込み、ハルは子犬に戻って床に伏せる。
ぺたんと伏せてふて腐れる、ハルの尻尾だけが不機嫌に床を叩き、懐のミソラはすっかり潜ってしまって顔を見せない。
そんな二匹の様子に、ポルクスは困ったものだと眉尻を下げた。




