アングレイ商会
「全く、鬱陶しいことこの上ない」
ホムラが苛々と吐き捨てた。黒の眼が向けられるは、先程からぐずぐすと鼻を鳴らすポルクスと犬のハルだ。
「だって、あんなの見たら無理ですよっ」
涙声で答えてから、ポルクスは盛大に鼻をかんだ。新しい鼻紙を出して地面にしゃがみ、今度はハルの鼻先へ持っていく。
「ハルさんもはい、どうぞ」
『お前、気が利くな』
ハルは遠慮なく派手な音を立てて、一遍に鼻紙をべちゃべちゃにした。ポルクスはさっとごみ袋へ鼻紙を捨てると、新しい鼻紙でハル目尻との鼻面を綺麗に拭いてやる。
夫婦の感動的な絆に貰い泣きした一人と一匹は、すっかり意気投合していた。
『コハク、コハク! こいつ面白い奴だね! 気に入った』
「良かったわね、ハル」
ポルクスに耳の後ろをカリカリと撫でられて、ハルは気持ち良さげに目を細めた。パタパタと振る尻尾が、ハルの上機嫌さを周囲に報せている。
「あの、聞いてもいいですか?」
見た目よりもふかふかとしたハルの毛並みを堪能してから、ポルクスが立ち上がりコハクに聞いてきた。
「何?」
「妖魔って、さっきみたいに石になるものなんですか? それともコハクさんが何かしたんですか?」
「ああ、そのこと」
『コハク。こいつ、いい奴だけど馬鹿だね。妖魔が自然に石になるわけないじゃん』
今しがた友情を築いたハルに、馬鹿にされているなどとポルクスは露知らずだ。ホムラが冷たい目でハルを見下ろし、「お前が言えるか」と呟いた。
「普通の妖魔は石にならないわ」
一方通行のやり取りを交わす三者に、コハクは小さく肩を竦めた。
「私は妖魔に新たな名を付け仮そめの命を与え、瞳の中へ封じて使役する。妖魔は私の瞳の中で罪を贖い浄化され、やがて『石』になるのよ」
罪を浄化された妖魔から出来る宝石は、普通の宝石よりも珍重される。大した資源もなく、農作物を育てる土地も僅かなミズホ国の貴重な財源だった。
「さっきの妖魔は罪も小さくて軽かったから、すぐに浄化されて『石』になった。それだけよ」
「だったら……」
ポルクスはハルとホムラを見た。彼らの罪はどれ程重いのか。
ポルクスの物言いたげな視線を避けるように、ハルは鼻を蠢かして前へ出た。
他の二件の現場にも寄ったが妖魔を生むような思念は残っていなかった。それを確認してからもう一度、中年男の殺害現場に戻り匂いを辿り直している。
何階建てか分からない高層の無機質な建物が連なる区画を抜けると、西国風の格式ある高級な区画だ。大通りの喧騒が嘘のようなこの区画は、無言でコハクたちを拒絶した。
いつしか疎らになった通行人たちは、一目で上等だと分かる生地の衣服を纏っている。彼らの胡乱な目付きに晒されながら行き着いた先は、随分と立派な屋敷だった。
「ここは、アングレイ商会の会頭の屋敷ですよ!!」
ポルクスが悲鳴のような声を上げる。屋敷の立派な門に立つ警備の男たちがこちらをじろりと見た。
賑やかな大通りから少し外れた閑静な住宅街には、立派な屋敷が立ち並んでいるが、この屋敷はその中でも一際大きい。門だけで普通の家くらいありそうだ。
「権力者の屋敷ってこと?」
「権力者も権力者です。この商業国ナナガの中でも一、二を争う商会の最高権力者ですよ」
流石にこの新米警備隊員も弁えて声を潜めた。
とはいえ、さして人通りのない高級住宅街の屋敷の前で、こそこそ話してても怪しいとしか言いようがない。実際に門前に立つ警備のものたちが、不審な者を見る目付きでこちらを注視していた。
「どう思う? ホムラ」
「あの部隊長め、ある程度掴んでいたからこっちをコハクに振ったんだろう」
ホムラは苛々と腕を組んだ。商業国ナナガでは、商会の権力は時に政治に携わる者たちを上回る。敵に回してこれほど厄介なものはいない。
下手に刺激して軋轢を生むのを避けたか。コハクならばナナガ国の権力とは無縁だ。何があろうとも、東邦の魔女がやったことで終わる。
「人間が姑息な真似を」
ちりりとホムラの赤髪が風もないのに揺れる。その背中を小さな白い手が叩いた。
「思惑とか権力だとかそんなもの関係ないわ。いざとなっても私は大丈夫。あなたたちが居てくれるから」
コハクの透明な笑みと無条件の信頼に、ホムラの怒りが鎮まる。
「コハクっ! 俺ずっとコハクの味方だから!」
ハルが犬の姿から耳と尻尾の生えた人間の姿になり、瞳を潤ませてがしっとコハクの手を握った。
「あっ、この馬鹿犬」
ホムラが慌ててハルの襟首を掴む。
「こんな昼間から妖魔!? 貴様ら何者だ!」
警備の男たちがハルの姿を見て血相を変える。犬から人間の姿へ変えたこと、ハルの容姿が限りなく人間に近いこと、昼間に平気な顔をしていること。全てが高位の妖魔を表している。
ただでさえ屋敷の前で怪しく密談していた不審者たちの連れていた犬が、高位の妖魔だったのだから慌てるのは当然だろう。
対妖魔の銃を向けようとする男たちへ、ホムラとハルが動いた。ホムラは右の男の手首を捻り、銃を取り落とさせて踏み潰した。ハルは左の男の手首を叩き、鳩尾へ一発お見舞いする。
ポルクスは頭を抱えて「もう終わりだあ」と踞った。
こういった時だけ連携が取れてる妖魔たちに、コハクは小さく息を吐いてから、すたすたと門に歩み寄った。
「妖魔狩り『珠玉』のコハクよ。この屋敷に妖魔の宿主がいる。通して頂戴」
そう、門に備え付けてある通信機器に向かって言ったのだった。
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