妖魔の誘い
リーザスとの通話を切り、ボロスは口元の笑みを抑えきれなくなった。首脳会談前の執務室にはボロス一人のみ、誰に憚ることなどない。
「そうか、キリングが。面白い」
喉を低く震わせて、一人ボロスは悦に入る。息子、娘、孫たちの中で、キリングは一番の有望株だと思っていた。それを行動で示した訳だ。
ボロスへは家族ですら逆らうことをしない中、唯一生意気な目を向けてくる孫がキリングだ。彼が謀らずもボロスの駒となって動くとは、誰が想像したであろうか。誰もいまい。
笑みを消しボロスは椅子から腰を上げる。会談本番へと向かう為に。
「私はボロス元首の所へ戻りますが、アウリム科学技術長官、元首のお孫さんに無体なことはしませんように」
ボロスはああ言っていたが、彼の身内を無下にするわけにはいかない。リーザス補佐官はせかせかと早口でアウリムに釘を刺し、額の汗をふきふき足早に部屋を退出した。
部屋を出てしまえばリーザスの頭を占めるのは、早くボロスに合流することと見失った『デンキ』の行方だった。
「ねえ、そこのイカれたあんた」
リーザスがいなくなると、妖魔の水色の目がアウリムへ向いた。
「中に入ってくるんじゃなかったの? 色々聞きたかったんでしょ? ついでにキリングも連れて入れば? 私が食べてあげる」
鎖を鳴らして妖魔がくすくすと笑い、アウリムを手招きした。
「キリングはシリアの唯一の希望だもの。彼がいなくなればシリアは絶望し、心を完全に私に明け渡すわ。そうすれば私が、シリアの精神を喰らい尽くすのも簡単になる。空になったシリアの肉体を完全に乗っ取った私がキリングを喰えば、高位妖魔だってなれる」
「ほお」
アウリムの目が輝き、にいっと口の端が上がった。
「念願の高位妖魔とのご対面よ。ね? 嬉しいでしょ?」
「ああ、願ってもない! おい、その少年をこっちへ」
「長官!」
またふらふらと檻の扉へ近付くアウリムを引き止めようと、科学者たちが彼の腕や体を掴まえにいく。彼らが必死になるのは心配からではなく、アウリムに何かあれば自分たちの責任になるからなのだ。
このままだとアウリムは科学者に取り押さえられ、また振り出しに戻ってしまう。キリングが動くべき時はここしかなかった。
渾身の力を込めて、自分を拘束していた男に肩からタックルする。すっかりアウリムに気を取られていた男は簡単に体勢を崩した。
勢いのまま、アウリムに突っ込んでいく。アウリムを止めようとしていた科学者たちは、不意を突かれて二人転がったが、一人に捕まえられた。
その手に思い切り歯を立てたところで、ふっと真っ暗になった。
アオイたちの仕業だ。手はず通りとはいえ、タイミングがいい。
「痛えっ!」
堪らずキリングを離した男の悲鳴と、ばたばたとした足音、科学者たちの動揺が雑音としてキリングに届く。
「何だっ!? 停電か?」
「くそっ、長官!? 何処ですか?」
「ガキは?」
暗闇はキリングの視界も塞いでいるが、明るいうちに目に焼き付けた方へキリングは進んだ。がちゃりと錠が開く音がする。ぐいっと誰かに前方へ引っ張られキリングの前進が加速した。
「おいで、チヅル」
静かな女の声がしたと思ったら、闇の中で紙擦れの音が前後左右から響いた。
紙の音が消えた途端、急に明るさを取り戻して、キリングは数回瞬きをする。先程までの部屋と全く違うことに戸惑った。
真っ白な四角い部屋だ。飾りも家具も何もなく、壁も床も天井まで真っ白だった。ドアもないし、あった筈の檻すら消えている。白い四角い空間に立っているのはキリングとシリア、『珠玉』の女と犬、金髪の男と懐の子猫、そしてアウリムだけだった。
キリングの腕を引いたのは『珠玉』の女だったらしい。とはいえ彼女の年齢は、女というより少女といっても差支えなさそうだ。
「キリング、もしかして助けにきてくれたの?」
シリアが鎖に繋がれた両手を広げて笑った。鎖をじゃらりと鳴らして一歩進む。
屈託のない笑顔にキリングの警鐘が鳴った。あれはシリアであってシリアではない。妖魔なのだ。
キリングの知るシリアは、いつも自信がなさそうに、困ったような笑みを浮かべていた。あんなに吹っ切れた笑顔を見たことがなく、キリングが見たいと思っていた顔だった。
「嬉しい。みんな酷いの。シリアに優しくないの。優しいのはキリングだけ。だから私を助けて、キリング」
妖魔の言う『助け』はキリングを喰らうことだ。
金髪の青年が小さく「ミソラ」と呟いた。懐から子猫がしなやかな身のこなしで床に降り立ち、一声鳴く。子猫と青年は、意思疎通が成り立っているかのように何事かのやり取りをしていたが、キリングの意識はそちらになかった。
「どうしたらいい?」
尋ねがらキリングは頭を忙しく回転させていた。このまま喰われるわけにはいかないが、妖魔専門である少女とこの青年は頼りになるのか。
また一歩、妖魔が進む。ちゃり、じゃらりと鎖が鳴った。
床から生えたように妖魔の手足に繋がる鎖は、短かかった筈なのに進む度に長くなっていた。




