ある夫婦のカタチ
路地裏を抜けて大通りへ戻り、そこから人混みを縫って進んでいく。匂いの追尾は一先ず中断し、殺された男の家へ向かっていた。
今はポルクスの先導である。市民の生活に密着した第四部隊所属の彼は、街の地理や住民の名前と顔に精通していた。
昼間は戸口を閉める飲み屋街を抜けると、数メートル先には日雇い労働者たちの住み家だ。
寒々しい黒ずんだ壁に張り付く、建てつけの悪そうなドアをポルクスは叩いた。
「奥さん、いらっしゃいますか? 治安維持警備隊のポルクスです」
はい、という声とバタバタという足音、がちゃりと取っ手が回り、金属の擦れる音を立ててドアが開く。
現れたのは黒の服に身を包んだ中年女性だった。南に見られる浅黒い肌に、濃い茶色の瞳、艶のない黒髪を無造作に一つに纏めている。纏めているにも関わらず、いく筋も垂れた髪と、目尻に刻まれた深い皺、赤く腫らした目が女の憔悴ぶりを表していた。
「何のようだい? 旦那を喰った憎い妖魔を退治してくれたのかい?」
女はポルクスを見てから、後ろに立つコハクたちを訝しげに眺めた。
「申し訳ありません、それはまだなんです。今日は、その、旦那さんの形見を届けにあがりました」
「はあ? あの人の形見は全部家にあるし、殺された時には何にも持っちゃいなかったそうじゃないか。あんたらがそう言ったんだよ! それともなにかい? 治安維持警備隊様は、あの人の形見を猫ババしてたっていうのかい?」
女の小さな目が吊り上がる。
「いいえ。違うわ。旦那さんを殺した妖魔は私がなんとかする。けれど、今ここに来たのはその事ではないの」
女とポルクスの間に、コハクは身を滑り込ませた。コハクの目を覗いた女は驚愕に喘ぎ、一歩下がる。
「あ、あんたのその目はなんだい?」
「今それはどうでもいい。おいで、コウ」
コハクは両手を受け皿のように目の下へ持っていく。瞳の中の破片が、小さな鼠となってコハクの手の上に現れた。
「ひっ、な、なんだい!」
後ろへ仰け反る女に向けて、鼠がか細い鳴き声を上げる。
ごめんよお。こんな姿になっちまってよお。今だって気の利いた土産の一つもねえんだよ。
コハクと妖魔以外には、ただの鼠の鳴き声。女に言葉は届かない。
鼠を見る女の目から涙が一筋流れた。厚めの唇がわななく。
「そんな、馬鹿な……ただの鼠じゃないか。何を泣いてるんだい? あたしはおかしくなっちまったのかい?」
女が戸惑いながら、みずぼらしい鼠へ手を伸ばす。手が触れる前に、鼠が小さな前足を女の指に乗せた。
なんで、どうしてと呟く女の指先を鼠が擦って鳴く。
泣くな。泣かせて悪かった。お前を愛してる。最高のかみさんだったよ、お前はよ。
「コウ、あなたの罪はとても小さい。もう贖いは終わった。その身を変えて、『石』におなりなさい」
コハクがそう告げると、鼠はくるんと姿を変えて、代わりにころりと小さな破片が落ちた。
「あなたの旦那さんからの贈り物です。愛している、と」
無色透明な光る小さな石を女の手に渡す。
「ああああああああ……!」
石を握り、女が崩れ落ちた。
「だから言ったんだよ、酒はあんたの為にならないって!いつもあたしは口を酸っぱくして言ってたじゃないか」
咽び泣いて、手の中の小さな石を握りしめる。
「もっと優しく言えば良かった。喧嘩腰に怒鳴らなきゃ良かった。素直にあんたの体が心配なんだよって言えば、あんただってあの日飲みに行かずに帰って来たかも。そうすりゃ、妖魔なんかに喰われたりしなかった!」
石は何も答えない。答えの代わりにほんのりと熱を発した。
じんわりと手の平を温める石に、「ああ」と熱い息を吐き出して女はそっと手を開いた。
「愛してるよ、あんた。お帰りなさい」
熱にあてられた石は、その色を赤みがかかったオレンジへと変えて光った。
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