青年の罪
黄褐色の瞳が燃える。甘い芳香とたゆたう黒い糸が、見るものを幻想へと誘う。
「う、嘘、嘘なんかじゃありません。僕は、本当にっ、本当に……」
止まらない震えを抑えようと、ポルクスは自分で自分を抱き締める。駄目だ、止まらない。
ふと、ポルクスの目の前に小さな灯りが点った。明滅する儚い丸く黄色い光の球がふわふわと宙に浮いている。コハクが認識したことで生まれた妖魔だ。
小さな光は頼りない光を放ちながら、ゆらゆらと揺れた。
……憎むなんて出来ない……。
光で出来た妖魔が語る。ポルクスの罪を。
「止めて下さいっ! コハクさん」
頭に響いてきた自分の声に耐えきれなくなったポルクスは、コハクへ悲鳴のような懇願をして、両手で耳を塞いだ。聞きたくない。
「止めないわ」
……あの日までの幸せを信じてたんだ……。
「嫌です。違うんです。止めろ、それ以上……っ」
耳を塞いでも声は鮮明に届いた。目を瞑っても光は瞼を通してポルクスの目を灼く。あんなに頼りない光だというのに。
言いたくない。知られたくない。自分の罪など認めたくない。
「止めろおおおおっ!」
絞り出すように叫んで、頭を抱えて踞ったポルクスの目には涙は浮かんでいない。涙など出ない。あの日から、自分のために流す涙などなくしてしまった。
いいや、あの日からポルクスは……ポルクス・キングスは生きてなどいないのだから。
ポルクスの願いは聞き遂げられず、妖魔は語り始める。
……何もかもなくしたあの日。あの日までの僕は、酷く無知で愚かで能天気で鈍感で、どうしようもない馬鹿だったんだ……。
ポルクスの父親は町医者で、母親は教師、兄弟はポルクスを入れて五人だった。自宅の一階は父の診療所で、母親の仕事が終わると自宅の二階は小さな教室になる。生徒は貧民街の悪ガキたちだ。
父の仕事ぶりを見ては誇らしく思っていた。母の考えや子供たちへの接し方が好きだった。弟との喧嘩と仲直りを繰り返し、口が達者な妹たちにやり込められたり、幼い弟を必死にあやしたり。
ずっとこんな日々が続くと信じて疑っていなかった。
「……そんなことはない。思えばもう、歯車は狂ってたんだから」
「止めろ、喋るな」
妖魔の語りを止めようと、ポルクスは手を伸ばして握り潰そうとした。光で出来た小さな妖魔は、ポルクスの手をすり抜けて変わらず存在し、語り続ける。
「父さんは薬代をあまり取らなかった。母さんは貧民街の子供に無償で教えてた。おかしいと思わなきゃいけなかった。どこからお金が出てたのか」
昼間母親は学校の教師として働き給料を貰っていた。しかし、それだけでは生活するだけで精一杯だ。なら薬代はどこから出ていたのか。ポルクスたちの学費はどこから出ていたのか。
「時々、父さんは怪しい男たちと話していた。なのに僕は少し変だな、で片付けて……疑いもせずに」
「黙れっ、このっ!」
光に触れることなど出来ないのだから、いくら叩き潰そうとしても、握り潰そうとしても止められないことは分かっているのに、どうにかして止めようと何度も足掻く。
「僕は無知で愚かで能天気で鈍感で、馬鹿だった。あの日まで疑いも気付きもしなかったんだから。あの日……」
妖魔は語る。ポルクスの過去を、罪を。語らせまいと必死で妖魔を黙らせようと躍起になっている青年を、コハクは静かに眺めていた。
「……父さんが宿主になって、家族を殺すまでっ!」
妖魔が放つ光が強まった。光はその場に居るものを照らし、濃い影を作る。
「ああああぁぁっ」
妖魔の前でポルクスが力なく崩れ落ちた。
後悔と悲しみ、憎しみと怒りが渦巻いてコハクへ押し寄せる。後悔、悲しみ、憎しみ、怒り、目映い光が浮かび上がらせるそれらと、暗い闇に潜むもう一つの感情。
「……父さんは少しずつ妖魔に喰われてたんだ。本当は違和感だってあったんだ……。なのに、目の前の幸せに浸って気付かなかった、気付かないふりをしてた! 僕はっ」
妖魔が罪を口にすると、床に這いつくばったポルクスが小刻みに震えた。小さな妖魔の光が頼りなく弱まる。
後で知った。父親は裏で商会の言うままに麻薬の仲介人をやっていたのだと。麻薬だということは知らされていなかったが、罪として認識していたのだから分かっていたのだろう。
怪しい男たちが診療所を訪れた日は、父親は疲れたような顔をしていた。ポルクスの心配する視線に気付くと何でもないと笑った。馬鹿なポルクスはそれを鵜呑みにしてしまった。何でもない訳がなかったのだ。
「何にも気付かずに能天気に幸せに浸ってた。父さんなら大丈夫って、無責任な信頼を置いて父さんを追い詰めた。本当は無理した笑顔だって、分かってたのに……」
止まらない妖魔の語りがポルクスを打ちのめす。握った拳に食い込んだ爪が皮膚を破り、血が滲んだ。痛みでも感じていなければ無理だ。
「後悔しているのね。気付かなかった自分が許せないのね……宿主である父親よりも、何より自分自身が許せない」
普通なら宿主である父親へ向けるべき矛先を、全て自分へ向けているのだ、この青年は。だから自分を大事にすることが出来ない。
「貴方が自分を許せないのは、気付かなかった後悔だけじゃないでしょう?」
床に這いつくばったまま震えていた青年が、弾かれたように顔を上げた。
もう一つ。闇に紛れたもう一つの感情。ポルクスの背中と心に大きな傷跡を残した事実。青年の、罪。これを暴いてやらなければならない。
「もう止めて下さい。コハクさん。お願いです、これ以上は……」
怯えた青い垂れ目が、硝子玉のようにコハクの顔を映す。今にも泣きそうな表情なのに、こんなに傷だらけなのに、涙を流さない青年が痛々しかった。
泣けない訳ではないだろう。殺された中年男と妻との絆にハルと一緒になって泣いていた。リルと母親とのやり取りの時もだ。
なのに自分の傷痕を話すとき、泣く素振りも見せず笑みさえ見せた。
他人の為になら泣けるのに、自分の為には泣けないのだ。
「いいえ。止めないわ」
だからコハクは止めない。全部引っ張り出してやる。青年がまた涙を流せるように。
「ポルクス。貴方は宿主と妖魔を……父親を憎めなかった。今でも愛しているのね」
光が作った影に隠された感情は、『愛情』だった。
「ち、違う」
青年の表情が大きく歪む。ゆっくりと首を横に振った。
「あいつは、母さんを弟を、妹を、殺したんだっ。母さんは幼い弟だけは助けてって言ったのにっ! 弟は父さんにこんなことするなって怒ったのに! 妹は止めてって泣いたのにっ!」
家族の悲痛な訴えを無視して殺した。あの日教室に来ていた子供たちも、診療所にいた患者たちも、躊躇なく殺した。どんな事情があったって、許されない殺人鬼だ。最悪の妖魔だ。憎むべき存在だ。なのに。
「なのに、憎めないなんて。愛してるなんてっ、言えない。だったら殺された母さんや弟や妹はどうなるんだよ。浮かばれないじゃないか! 僕が憎んでやらなきゃ、あいつを殺してやらなきゃ。そんな事も出来ないなんて、それなら僕は」
奥から込み上げてくる熱い塊が喉を圧迫して苦しい。爆発しそうなほど鼓動を刻む心臓が痛い。
「僕に一体なんの価値があるっていうんだよぉっ」
痛みと苦しさに喘ぎながら、ポルクスは言葉を吐き出した。




