分からないこと
二日目の、宿主であるシリアとの対話は初日よりもスムーズだった。
迎えたアウリムは上機嫌でコハクの条件を飲んだし、シリアの警戒心も最初ほどではなかったからだ。
コハクが出した条件は二つだ。危ないとコハクが判断した場合、強制的に同調を中断させること。長時間に渡る場合はやはり途中でも止めさせること。
コハクの条件に青年も素直に頷いた。頑なだった青年の態度も少しは軟化したようで、ほっとする。
「……キリングは、あれから毎日話しかけてきたの」
シリアが続きを語り始める。青年と少女の同調はするりと始まった。
翌日、勉強道具を抱えたシリアはいつもの通り河川敷を訪れ、きょろきょろと周りを見渡した。キリングの姿が見えないことにほっとして、木の根もとに腰掛ける。
きっとキリングも昨日のことが気まずくて、ここには来づらいに違いない。都合のいい結論をシリアは下した。
「おい」
「ひゃあ!」
教科書とノートを開き、ペンを取り出したところで、背後から掛けられた声にシリアは飛び上がった。
「そんなに驚かなくてもいいだろ」
振り返ると、立っていたのは相変わらず不機嫌そうな表情のキリングだ。昨日の今日だというのに信じられない。シリアは出したばかりの勉強道具を猛然と片付けて、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待てよ」
片付けた勉強道具を抱えて、踵を返したシリアの腕をキリングが掴む。
「また馬鹿にしに来たの? 離して!」
「いや、違う。馬鹿になんてしてないし、しない。ただ不思議だったし、なんていうか、その……」
だったら何なのかとシリアが睨むと、キリングは歯切れが悪く口ごもった。
「悪かった。馬鹿にする気なんてなかったんだ。ただ、理解できないままにするのは嫌いなんだよ。だから、どこが分からないのか、何で分からないのか教えてくれないか?」
驚いたシリアは、ぽかんと口を開けてキリングをまじまじと見た。今までシリアにこんなことを聞いた人間はいなかった。キリングの目は真剣で、どうやら本気で教えて欲しいらしい。変な人だ。頭のいい人間の考えはよく分からない。
おずおずと教科書とノートを差し出す。キリングは木の根もとに腰を下ろして教科書とノートを開いた。シリアも同じように座る。
開いたノートに書かれた数式の答えは空欄ばかりだ。
「この数式の解き方が解らないのか?解き方はここに載ってるだろ?」
「……ここに載ってる解き方が解らないの」
「はあ? 何で?」
「……っもういい!」
「ってああ、くそ」
キリングは自分の頭をがしがしと掻いた。
「お前は解き方が解らない。俺は解き方が解らないってことが解らない。お互いに解らないんだからあいこだろ? だから怒るな」
「意味わかんない」
またもや不毛な口論が続く。その内に、半ばやけくそのようにキリングがシリアに人差し指を向けて宣言した。
「だから! おれは解らない事を解らないままにしておけない。だから、何が何でもお前が解らない事がなんなのか突きとめてやる!」
それから二人の奇妙な『勉強』が始まったのだ。
河川敷での逢瀬は今までのような偶然ではなく、二人の日課となった。
キリングはシリアが解らない問題を毎日しらみ潰しに見ていった。解る問題の方が圧倒的に少ない中、キリングは解き方の解説をしてくれたりするが、その解説そのものがまたシリアには難しい。何の解決にもならないままに無為な時間が過ぎていった。
「ねえ、なんでこんなにしてくれるの?」
「納得いかないからだ」
キリングは左手を顎に宛てて、教科書とノートから目を離すことなく答える。
キリングがここを訪れていたのは、勉強の息抜きだという。毎日毎日、万年首席のプレッシャーを親からかけられることに嫌気がさしたとき、ここで何も考えずに石を投げていると落ち着くそうだ。
頭がいいというのも大変なんだな、とシリアは思う。
「努力してるのはずっと見てた。なのに、万年最下位でみんなに馬鹿にされてるのは納得いかなない」
「見てた?」
シリアが首を傾げると、キリングははっとしてから、らしくもなく急いで手を振った。
「毎日ここで見かけてたからだ! 別にずっと見てた訳じゃない」
「そんなに否定しなくっても」
珍しく慌てるキリングが可笑しくて、シリアはくすりと笑った。彼はシリアから目を逸らして微かに唇を尖らせる。ここ数日でキリングは、乏しいながらも様々な表情をシリアに見せるようになった。
「うん、私もよく見かけてたけど、キリングは私に興味なんてなさそうな顔してたから意外」
「悪かったな」
むっつりと仏頂面になったキリングはまたノートへ目を落とす。
「ん? この問題は解ったのか?」
「うん。私でも覚えてる数式が使えたから」
「待てよ、こっちとこっちも、もしかして……」
キリングはぱらぱらとページをめくって目を通していく。
「もしかして、解答を見ても解らないって、解答に書いてある数式も解らなかったのか?」
「うん。あと問題の意味も解んないって言ったじゃない。この言葉とかちんぷんかんぷんで……」
改めて解らない部分を確認していく。数式だけではない。歴史も地理も国語も、答えだけでなく問題そのものが解っていない。
「分かった! つまりお前、小スクールの時から躓いてたんじゃないのか?」
「どうせ私は昔っから頭悪いよ」
「違う、解らない所を解らないままにして進んでたから、駄目だったんだよ」
翌日からキリングは小スクール用の問題集を持ってきて、シリアは一から勉強をし直すこととなったのだ。
小スクールの問題ですら、シリアは飲み込みが悪かった。それでも一歩ず前進していく感覚は、シリアに初めて勉強する楽しさをくれた。直ぐに今の成績に結び付きはしないけれど、今までよりはずっといい。
「どうしたの? その顔」
いつもの時間、いつもの木の根もとでシリアよりも早くに来ていたキリングは、頬を腫らしていた。
「ちょっと親に殴られた。成績が落ちたからって」
キリングはいつもの仏頂面で川を眺めたまま答えた。
「二番になっちゃったの?」
学校の試験は来週だから、個人で通っている教室の成績だろう。
「いいや。一位のままだが、少し点数が下がった」
「それだけで!?」
「そういう家なんだよ」
お前は常にトップでいなければならない。バンクディ家の人間なのだから。そう言われ続けてきたらしい。
「爺さんなんて、学なしで今の地位にいるんだぜ? ったくふざけんな!」
キリングは石を拾って立ち上がり、思い切り投げる。重そうな水音を立てて石が川面へ消えた。
「決めた。俺は科学者にも政治家にもならない。教師になってやる。それも普通の平の小スクールだ。シリア、お前は俺の最初の生徒だからな」
光を反射する川面を睨んで宣言するキリングの横顔は、とても格好よく見えてシリアはなんだか嬉しくなった。
「うん、キリング先生」
にっこりと笑うシリアを見て、キリングは何故か少し頬を紅潮させた。




