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琥珀の夢は甘く香る ~アンバーの魔女と瞳に眠る妖魔の物語~  作者: 遥彼方
依頼1ー熱気と闇を孕む商業国ナナガ
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ただの男の些々なる罪

 そんな一悶着を後にして今度こそ路地裏を出ようとした時だ。視線を路地裏にへばりつく血痕へ戻してコハクは足を止めた。

 じっと目を凝らす。


 ……にが、……かった……だ。


 微かに残る思念の残滓。


『コハク?』

 ハルがどうしたんだと犬の鼻面でコハクをつつく。コハクはそっと手の平で制して、耳を澄ました。


 ……な……にが、悪か……たんだ。


 壁と地面に着いた血の跡が波打った。濃さを増して凝り、小さく盛り上がる。ポルクスがひっと喉を鳴らした。


 盛り上がったどす黒い血痕が、ぐねぐねと出来の悪い粘土細工のような塊になる。人の拳ほどのそれに、左上と右下に亀裂が入り、ぎょろりとした目が現れた。今度は縦に歪んだ亀裂が口を形作る。


「何が悪かったんだ……」

 出鱈目なところに出来た目があちこちに視線を動かしながら、縦の口が言葉を発する。


「飲むなって言われてたんだ。酒はあんたの為にならないってよお」

 酷く聞き取り辛いくぐもった声が、喋り続ける。


あの日の前日も、泥酔して帰ってかみさんと大喧嘩した。口を開けば摂生しろ、血圧が高いから酒は止めろって医者に言われてるだろ、酒に使うぐらいなら、ちょっとはあたしに何か買ってくれてもいいんじゃないかい。


グチグチ、グチグチ口煩い。そんなこたあ、分かってるってんだ。お前に言われる迄もねえよ!


「ちきしょう! なにが悪かったってんだよおおお。ちょっとくらいいいじゃねえか」


 縦の口が嘆き、ばらばらの場所にある目が充血し、涙を流す。


「後悔してるのね」

 汚れるのも構わずに地面に膝を着き、コハクは白い手を伸ばして嘆く塊にそっと触れた。


「まさか、あれが最期になるなんて思わなかったんだ」

 凝った血の塊が震える。


「分かってたんだよう。お前が俺のために言ってたんだってよう。分かってたのに、言われると腹が立っちまうんだよお。喧嘩腰になっちまうんだよお」

 充血した目から流す涙を、コハクは優しい手つきで拭った。


「そうね。でもあなたの本当の後悔はそれ?」

 異形を成す塊の震えがピタリと止まる。ひっきりなしに嘆いていた口が閉じた。


「……あの日」

 やがて口がまた開く。


「酒なんて飲まねえで、かみさんに指輪の一つでも買ってやれば良かった。あいつ女の癖に飾りっけなくてよ。俺が贈り物の一つも買ってやらなかったばっかりに」

 ぐずぐずと聞き取りにくかった声が、明瞭になった。


 どうせ死ぬなら、こんなことなら。


「安もんでもよ、指輪でも渡して言えば良かった。いつもありがとうよって。…… 愛してるってよ」

 結婚してから三十数年、一度として伝えなかった。冴えない中年男の些々(ささ)たる罪。


「それがあなたの『罪』なのね」

 コハクは優しい表情と手つきで塊を撫でる。


「私と一緒に帰ろう。あなたの大事な『かみさん』の所へ」

 コハクの瞳がほんのりと光を帯びた。仄かに立ち上るは甘い香気。


「こんな姿じゃ帰れねえよお」

「大丈夫。私の瞳においで。あなたの名は?」

 白皙に黄褐色の瞳が妖しく燃える。炎のように揺らめく黄色と橙色の光を、縁取るかのように黒糸がたゆたう。


「……忘れちまった」

「そう。なら名付けてあげる。あなたは(コウ)よ」


 名は真名となりて仮そめの生を授けた。

 塊から細く伸びた尖りが鼻面を形成し、目が左右の高さを揃う。短い体毛が表面を覆い、針金のような尾が蠢いた。子供が作ったかのような造形の歪な鼠が一匹、ひび割れた声で鳴いた。


「お入り、コウ」

 小さなみずぼらしい鼠が、破片へ姿を変えて吸い込まれる。穀物ほどの小さな小さな破片となった。


 光は消え黒糸は空気に霧散し、コハクは立ち上がった。癖の一つもない黒髪を揺らし、銃を構えて震えるポルクスへ視線をやる。人間相手か低位の妖魔になら十分に威力を発揮するそれは、治安維持警備隊の隊員に配布されている小型の銃だ。


「い、今のは、何ですか?」

 塊があった場所へ向ける彼の銃口を、人間の姿に戻ったハルが押さえていた。ホムラは腕組みをしたまま、冷めた様子で眺めているのみだ。


「妖魔だよ。生まれたばっかりの。そのちゃちな銃でも簡単に死んじゃうような存在さ」

 ハルが静かに答えた。


「妖魔は、人を食い殺すだけのものだと」

「今見た通りだよ」

 いつもはくるくると忙しなく動く表情を、凪ぎに保ったハルが続ける。


「俺たちは皆、多かれ少なかれ『罪』を抱えてる。今の妖魔は、小さな罪だったけどね。高位になればなるほど大きくて深い罪を抱えてる。苦しくて狂おしくて、人間を引き裂いても喰い殺しても飽き足りない! 血を浴びて肉を喰い千切って、自分の存在を確認しないと己を保てない!」


 話すにつれて茶色の瞳が狂気の光を灯し、鋭い犬歯が覗く。

 やはり妖魔なのだ。人間とは違う恐ろしい存在。


 なのに、何故だろう?今のポルクスには、ただの恐怖の対象だと思えなかった。先程の小さな妖魔の独白を聞いたからだろうか?

 妻に何も買ってやらなかった、自分の本当の気持ちを伝えなかった、それを罪だとして存在したちっぽけで憐れな妖魔。


 ハルの目から狂気の光が消えて、穏やかな色が浮かぶ。食い縛り、ギリギリと音を立てていた犬歯が、弛んだ唇に隠れた。


「コハクはただ一人、それを許してくれた人間なんだ。俺たちの罪を、抱えた罪ごと引き受けてあげるって新しい名前をくれた。コハクの瞳の中はあったかい。瞳に居るだけで罪と狂気が薄れていくんだ」

 ハルが拳銃から手を離した。


「コハクは俺たちの全てだ。傷つけることも貶めることも赦さない」


 ポルクスの腕から力が抜けて、銃が自然に下りた。これが妖魔と……東邦の魔女、いや妖魔狩り『珠玉』コハクの関係。人間には推し測れない強い絆。

 ポルクスは銃をホルスターへ戻し、ハルは再度犬の姿になった。


「あ、あの! 先程は申し訳ありませんでした! 考えもなしに東邦の魔女なんて言ってしまいました。恐怖で攻撃の意思のない妖魔に銃を向けました!」

 勢いよくコハクに頭を下げた。


「正しい判断よ。さっきみたいな妖魔ばかりじゃないもの」


 そんなポルクスを見てコハクはくすりと笑う。

 白い肌に映える黒髪に神秘の瞳を持ち、赤い唇を笑みの形に吊り上げた彼女は息を飲むほど美しい。異国特有の黒地に鮮やかな蝶が描かれた衣装が、二十歳にも満たない彼女を艶然と引き立たせる様に、ポルクスは魅入られた。


 やはり彼女は妖しい術を使い人を惑わせる『魔女』なのかもしれない。

 今しがた反省したばかりのことを忘れて、ポルクスはそう思った。

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また、お礼画面にはチヅルのプレストーリーを置いています。

★琥珀~のサイドストーリー
「治安維持警備隊第二部隊~ナナガ国の嫌われ部隊の実情~」
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