マイナスとプラス
冗談みたいに噴き上がる血液が全身を濡らす。全身を走る灼熱と視界を染める赤。赤。赤。
無造作に転がる幼い死体、その幼い体を抱いたままこと切れた母親。生意気な弟はもう二度と憎まれ口を叩くことなく、代わりに大量の血を吐き出していた。あらぬ方向に手足を投げ出している妹、もう一人は血溜まりの中へ顔を浸けている。
上げている筈の自分の叫びが聞こえない。耳は用をなしていない。真っ赤な視界を、徐々に黒い染みが覆っていく。
熱いのに冷たい。
そんな感覚もぼやけて消える。消える。
視覚も、聴覚も、思考さえも。
「……っ!」
布団を跳ね上げ、ポルクスは飛び起きた。震える手で自分を抱き締め、曲げた膝に額を埋める。荒い呼吸と暴れる心臓を宥めようと、両手に力を込めた。
「大丈夫、落ち着け。あれは今じゃない。今じゃない」
自分で自分に言い聞かせるように、小声で何度も呟いた。動悸と呼吸が共に少しずつ鎮まると、同じように気持ちも落ち着いてくる。
「ごめん、ミソラ。もう大丈夫」
やがて膝から顔を離し、ポルクスの肩の上で心配そうに、彼の頬へ身を擦り寄せる子猫に笑ってみせた。それからここがナナガではなくマギリウヌ国で、部屋のベッドに寝ていたという現状を把握する。
「うわ、僕いつの間にか寝ちゃったんだ」
胃の腑へ食べ物を入れてしまうと、眠気に抗うのが限界となった。夕食後、眠ってしまったポルクスを起こさないで、コハクたちは部屋に戻ったらしい。
三年前の出来事は強烈で忘れられないどころか、こうして夢に出てきてはポルクスにまざまざと思い出させる。
自分から噴き出した大量の血液と、死へ向かう冷たい感覚。むせかえる血の匂い。ほんの少し前まで一緒に笑っていた家族の、死体。
とりわけ、家族の変わり果てた姿を思い出すのは辛い。目を瞑ればまた、まぶたの裏に光景が甦りそうで、ポルクスは前方にあるクローゼットを睨んだ。
子猫はポルクスの横顔をじっと見詰めて、やがて口を開く。
『ポルクス。辛いのなら、私が辛い過去の一部だけ精神を食べてもいいんですのよ』
躊躇いと労りを含んだミソラの言葉にポルクスは軽く目を見開いた。それから迷うように瞳を揺らしてから、ぐっと唇を引き結ぶ。
「ありがとう。でもいいや」
ゆっくりと首を横に振り、両手に込めていた力を抜いていく。思いの外強く握っていたらしく、腕に爪が食い込んでいて小さく痛みが走った。
「辛い記憶を無くしちゃったら、楽になるかもしれない。けど、それって今の僕かな?」
ぎこちないのは承知で笑顔を作る。辛いときほど笑えばいいという、父親の声がふと再生された。きしっと胸が小さく軋む。
「僕の母さんは教師で貧民街の悪餓鬼にも教えてた。あんたも復習がてら教えてやんなさいって、僕も手伝わされるんだけど、まあ、油断すると勉強そっちのけで遊んだり喧嘩したり。手に負えなくって」
もう嫌だ、こんな奴らの面倒なんてみるもんかと、母親へ文句を何度も言った。そんな時決まって母はポルクスへ言い聞かせた。
『喧嘩したり嫌な思いをしたり苦労したことってね、今はマイナスに感じるけれどいつか貴方のプラスになる。必ず宝物になるのよ』
「そんな訳あるもんか。今嫌なのに! って思ったよ。時には反発して、教室をすっぽかしたこともあった。けど、次の日嫌々行ったら、あいつら嬉しそうにするんだ」
それからだって嫌になることはあった。喧嘩の仲裁をしようとして、ポルクスまでとばっちりで殴られたことも、言うことを聞いてくれなくて手を焼いたことも、年下の子供相手に本気で口喧嘩をしたこともある。
そうしてぶつかりあった分、子供たちはポルクスを認めてくれた。ポルクスも子供たちを兄弟たちと同じように大切に思った。
人付き合いも上手くなったし、少しの事では動じなくなった。学のない子供たちでも、分かりやすく楽しく出来るように工夫する勉強は、ポルクス自身の勉強への楽しさを教えてくれた。
何気ない時に彼らが見せてくれる笑顔は輝いていて、ポルクスの胸を温かくしてくれた。
あれはきっと、喧嘩したり嫌な思いをしたり苦労したからこそ、輝いた笑顔だった。
彼らの笑顔も二度と見ることは出来ない。家族を喪った同じ日に、やはり妖魔に殺されたからだ。
「本当は忘れたい。でも嫌なことを忘れた僕は、今の僕じゃなくなっちゃうんだ。嫌なことを避けた僕は、前に進めないし、きっと大切なものを掴み損ねちゃう。それは嫌だ」
ゆっくりと自分の気持ちを整理しながら喋るポルクスを、子猫は緑の瞳でじっと見ている。
「我が儘で、欲張りだよね。そのせいで皆に迷惑をかけてる。本当は分かってるんだけどね」
子猫の緑の瞳に映るのは、無理矢理に笑顔を作った情けない奴だ。酷い顔だと、ポルクスは立てた膝に頭を預けて苦笑した。
「僕は今の僕でいたい。母さんの『マイナスはいつかプラスになる』って言葉を信じてるんだ。だからもう少し見てて」
黒い子猫は硝子玉のような目を細めてしばし絶句した。
『貴方は……そうですわね。それでこそ私が選んだ方ですわ』
ミソラは言葉を濁してから、つんと顔をすまして片目を瞑った。開いている緑の片目で青年を流し見て、尻尾を優雅に振る。
『なにも言わずに見ていて差し上げますから、ちゃんとプラスに変えるんですのよ』
「うん。ありがとう、ミソラ」
ミソラが側にいてくれて本当に良かったと思う。感謝してもしきれない気持ちを押さえきれずに、子猫を抱き締めて頬擦りした。
少ししつこくしすぎて最後には嫌がられてしまったけれど。ミソラとの時間はポルクスにとって間違いなくプラスだった。




