紙切れの重み
帰り道、背負った鞄の重みがシリアの肩にずっしりとかかる。分厚い教科書の重みは勿論、精神的な重みが大きかった。原因は今日配られた成績表にある。AからEまでの成績判定で綺麗にEの揃った紙切れが一枚。たった一枚の紙切れ、これがシリアの立場を表してしまうのだ。
「ただいま」
沈んだ声で自宅の扉を開けると、キッチンにいた母親が振り向いた。
「お帰りなさい」
流しの洗い物を置き、タオルで手を拭いた母親は無言でシリアへ手を差し出す。
「この間のテストの成績表。今日でしょう?」
のろのろとシリアが鞄から取り出した紙を、引ったくるように受け取った母親は、ざっと目を通してから眉を吊り上げた。
「E、E、E、E、E! なんて情けない!」
口答えなど出来る筈もなく、小さく身を強張らせて金切り声で吹き荒ぶ、説教の嵐を耐えるしかなかった。
苦悶の時を耐えた後、整然と植えられた街路樹が立ち並ぶ河川敷で、木の根もとへ腰掛けたシリアは溜め息を吐く。
成績が理由で母親に叱られた時、シリアは決まってここから川を眺めた。穏やかに流れる水面を眺めていると落ち着くのだ。
さらさらと流れる水音と、小さく反射する水面をぼうっと瞳に映し、やがてシリアは持っていた教科書を開いた。教科書にずらりと並んだ問題と数式を、膝に立て掛けたノートに書き写す。それから似たような問題を解こうと足掻いた。
教科書を見る。解き方は書いてある。しかし、解き方そのものが理解出来ない。どうしてこうなるのかが解らない。大体問題自体が何がいいたいのだろうか。何を意味しているのだろうか。
「なんでこんなに駄目なんだろう」
母親は努力が足りないという。
勉強する時間が足りてない、お前には必死さがない、そんなことでどうするのだ、情けないったらない。隣の家の息子はA判定が三つもあった、向かいの家の娘は科学者になり、国から多額の給付金が生涯保障される。比べてお前はどうだろう? E判定ばかり取るなんて、本当にお前は私の子なのか。
「私だって努力してるのに。必死に考えてるのに」
一生懸命覚えようと何度も書き写した。問題を解こうと教科書とにらめっこをした。書き写した内容は入ってこないし、暗唱した単語や歴史上の史実や人物の名は、覚える側から忘れてしまう。問題は殆どが解けることなく、シリアの努力は点数に反映されない。
何度目になるか分からない溜め息を吐いて、ノートから顔を上げたシリアは、同じように木陰に佇む人影に気付いた。
「キリング・バンクディ?」
驚いて目を丸くしたシリアの声は思うよりも大きく、人影は煩わしそうにこちらを向いた。
マギリウヌ人の例に漏れず、銀髪に水色の瞳を持つ彼はキリング・バンクディだ。シリアは声をかけてしまったことを後悔した。キリングの切れ長の目と薄い唇は、いつも不機嫌そうで近寄りがたい。何よりも彼という存在は、シリアにとってあまり目にしたくないものであった。
万年オールA判定でスクールの首席。あのボロス国家元首の孫であり、一位以外を取ったことがないという、シリアとは真逆の人間だった。
彼は面白くなさそうにシリアを一瞥してから、また川面へと視線を戻す。足元の石を拾い、二、三個川へ投擲してから、くるりと川へ背を向けた。そのまま無言で川辺りの道を行ってしまった。
シリアは遠ざかっていくキリングの背中をぽかんと見送り、はっと我に返った。
「大変! 遅れちゃう」
勉強の遅れを取り戻す為に通っている塾への道すがら、隙間の時間をいつもここで過ごすのが日課なのだが、当然長居は出来ない。あまりのんびりとしていては遅れてしまう。
シリアは教科書とノートを鞄に突っ込んで、慌ててスカートに着いた土埃を払った。
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シリアの過去に触れて、ポルクスはアウリムへシリアを家に帰す交渉をしたのは失敗だったかもしれないと思った。
ここまでシリアが語ったのは、勉強の出来ない劣等感、母親との確執、居場所のない生活。父親がどうなのかはまだ分からないが、このまま彼女を元の場所に帰しても救いはあるのだろうか。自分の見通しの甘さに腹が立つ。
細い手足に嵌められた枷、暗い色を灯した瞳、怨嗟を含んだ声、押し寄せてくる感情が、苦しい辛いと訴えてくる。なんとかしたい。自分以外の人間が苦しんでいるのはどうにも嫌だ。
妖魔と向き合うとき、いつも胸が潰れそうになる。彼らの哀しみや苦しみを感じる度に泣きそうになる。楽にしてあげたくて、自分の全身全霊でなんとか出来ないかと足掻く。しかし妖魔たちは大抵、己の言いたいことを吐き出すと『石』になってしまうのだ。
それは楽になれたということなのだろうか。少しでも力になれたのだろうか。そうでないというのなら、ポルクスの価値は……どこにあるというのか。
ふっと、バートンの怒った顔が心をよぎった。
ハルの『終わらせて貰えるのも慈悲だ』という言葉が甦る。脳内でコハクが『貴方と私は違う』と、『簡単に人に命を委ねないで!』と叫んだ。何か大事なことを掴みかけた気がした時、シリアがまた語り出す。
掴みかけた感覚は消えて、ポルクスの意識は目の前に戻っていった。




