対話の始まり
檻の扉を潜ると独特の感覚がした。この感じには覚えがある。ミズホ国を囲む壁を越える時に感じるものと酷似していた。
振り返ってコハクは檻を見る。檻と言っても鉄格子などではなく、透明な板に格子状の金属が張りめぐらされている。おそらくこの金属にミズホ国の『石』の粉末、もしくはそれに準じるものを混ぜているのだろう。
檻の中で鎖に繋がれた少女は膝を抱えたまま、固い表情でポルクスたちを眺めた。後ろで檻の扉が閉められる。ポルクスは少女の目線に合わせて地面に膝を着き、柔らかく微笑んだ。
「こんにちは。僕はポルクス・キングス。君は?」
少女は上目遣いで青年を眺め、長い沈黙の後ぽつりと問いに答えた。
「……シリア」
「いい名前だね。よろしく」
握手をしようとしたのか、躊躇なく手を差し出す青年の迂闊さに、コハクはひやりとする。
少女は無言で動かなかった。やがてポルクスは諦めたように手を引っ込める。目を閉じ大きく深呼吸をして、また開いた。
空気が変わったのを感じてコハクはじっと二人を注視した。
今までポルクスが向き合ってきた妖魔たちは下級ばかりだった。下級の妖魔は殆どが妖魔単独で、ナナガ国の街角に凝っていた。彼らは決まってポルクスと目が合えば勝手に語り始める。内容はそれぞれだったが、自分自身を断罪する内向きの罪が圧倒的に多かった。
ハヤミに聞いたところ、どうやら自分自身で認識する罪から生まれる妖魔は、宿主の外へ出るそうだ。逆に他人から悪いと認識された罪は宿主の中へ生まれ、精神を喰って力をつけていく。
ポルクスは差し出していた手を戻した。目を閉じて大きく深呼吸をする。この分だと少女から話してくれそうにはない。なら少女、シリアの内面に踏み込まなくてはいけないだろう。それも他人に触れられたくない程の負の内面へ。息を吐ききり覚悟を決めた。目を開けてシリアの目を真っ直ぐに見詰める。
「僕は君を助けたい。だから君の罪を教えてほしい」
シリアは警戒の強い水色の目をポルクスに向けたままだ。ポルクスは更に踏み込む。
「どうしてお母さんを殺したの?」
途端にシリアの形相が変わった。どこかおどおどとポルクスを窺っていた目が異様な光を帯び、手足の鎖をじゃらりと鳴らして立ち上がる。彼女に合わせてポルクスも立ち上がった。目の前の少女から押し寄せてくる怒り、恨みを浴びながら目が固定される。同調したのだ。今までの妖魔たちよりも強いプレッシャーにポルクスは脂汗を掻いた。
「私は落ちこぼれの役立たずなんだって」
暗くねっとりとした声音で語り始める。彼女の犯した罪を、罪を犯すことになった経緯を。
シリア・ローレンはマギリウヌ国の一般的な家庭に生まれたごく普通の少女だ。科学国家で知られるマギリウヌ国は、他国に比べると格段に裕福で貧富の差もあまりない。行き届いた義務教育、整えられた環境、高いというよりもほぼ百パーセントに近い識字率、突出した教育先進国でもある。
五歳から学べる小スクールから始まり、中、高、大とスクールで学ぶ事が半ば義務である。シリアも例に漏れず、現在中スクールに通う十四歳であった。
「このように百年前は鉱物資源に頼るだけの我が国でした。この時の国家元首は誰でしたか?」
教室の前方に備え付けられた板へ書き込んでいた教師が振り返る。シリアは教師に当てられまいと、肩まで届かないくせ毛に目が隠れてしまうよう、顔を伏せて身を小さく縮こまらせた。
出生率の低いマギリウヌ国では、夫婦の間に子供は一人か二人が普通であった。シリアも大多数と同じ一人っ子で、自然と両親の期待を一身に受けた。
「シリア・ローレン」
シリアの小さな努力は実らず、教師は無情にも彼女の名前を呼んだ。小さく体を震わせてから、シリアは机の上の教科書を慌ただしくひっ掴み、椅子をがたつかせ立ち上がる。
「……分かりません」
シリアは必死に教科書へ目を走らせ、やがて諦めて消え入るように分からないと答えた。教師はさしたる感慨もなくシリアへ冷たい一瞥をくれてから、違う生徒の名を呼んだ。
力なく椅子に腰掛けシリアは、ますます顔を伏せる。シリアを置き去りにして授業はどんどん進んでいく。シリアが勉強に付いていけなくなってから既に手遅れなほどの時が経っている。せめてこれ以上離されないようにと、黒板の字を書き写した。
現国家元首ボロスの政策により、マギリウヌ国は学歴がものを言う国だ。スクールでいい成績を修めた者は優遇され、裕福な将来を約束される。例え成績が悪くとも、他国に比べると平均以上の生活は保障される。そこには小さくて大きな差があり、何よりも周りの評価が違った。
成績の悪い落ちこぼれは、生きる価値などないかのように振舞われ、最低限の衣食住を保障されて飼い殺された一生を終える。シリアの未来だ。
それでもぎりぎり飢えることはない。寒さに震えることも、暑さに渇くこともない。他国から比べると夢のような国だと言う。なのに、国中に漂うこの閉塞感はなんなのだろう。
意識を教科書、黒板、ノートの上を行ったり来たりさせて、なんとか詰め込もうとする。意識が上を滑っていく文字の羅列、なんのことかさっぱり解らない数式、詰め込んでも詰め込んでも溢れ落ちる知識に泣きそうになった。
響く教師の声と、黒板を叩くチョーク、教科書の紙ずれに、ノートへ書き込む無数のペンが教室を支配する中、シリアは今日も置いてきぼりにされていた。




