さざ波
トラメに聞くべきことが幾つも出来た。正体不明の沸々とした怒りを抱えて、コハクは磨かれた廊下を歩く。込み上げる感情をぶつけるように乱暴に足を叩きつけて歩いても、つるりと平らな床に草履では大して足音も立たなかった。それがまた腹立たしい。
ハルは苛立つコハクの後ろを少し距離を取って歩いていた。こういうコハクをハルは初めて見る。
やや荒くドアをノックすると、涼やかな声が「どうぞ」といらえを返した。
「彼とゆっくり話は出来た?」
トラメは部屋のソファーに腰掛けて、優雅にフジヒメとお茶を飲んでいた。コハクはつかつかと歩みより、机を隔ててトラメの正面に立つ。
「全部知っておられましたね。言わなかったのは何故です」
何故、何故、何故。今日は疑問ばかりが浮かんでうんざりする。
ミソラがハヤミに相談したのなら、いや、ハヤミならポルクスが妖魔と対話していた事も、妖魔が『石』に変化した事も把握していたのだろう。ならば当然コンゴウとトラメには報告をしていた筈だ。
「貴女が帰ったあと、彼が妖魔と向き合っていたこと?言えば貴女はどうしたかしら?きっと居ても立っても居られなくなったでしょうね。でもねコハク、おいそれと『珠玉』を国外に出すわけにはいかないのよ」
トラメは困った子供を見る目でコハクを眺めた。
「ポルクス・キングスは妖魔を『石』に変える事が出来る。この事は彼の価値を跳ね上げるわ。慎重に扱わなければならない情報よ」
普段通り柔らかく微笑んでトラメは事実の一部を開示する。
「第二部隊隊長までもが彼の身柄引き渡しを反対したのは何故です」
「それは彼の過去に関係があることよ。本人に直接聞いた方がいいのではないかしら?」
険のある視線を平然と受けて笑うトラメに、コハクは唇を噛んだ。
「ラナイガ議会長が彼の護衛を依頼したのも裏があると?」
「勿論」
国の中枢に立つ者が情や軽い理由で動くわけがない。コハクとて分かっている事で、今までさして思うところもなかった。なのに悔しいと感じるのは何故だろう。
また、何故、だ。
「珍しく揺らいでいるのね、コハク」
トラメの縞模様の瞳がコハクを射抜く。
「悪いことではないわ。さざ波一つ立たない世界は寂しくてつまらないものよ。荒波に揉まれて転覆して、なお自分がすがりつくものが何なのかを見極めなさいな」
話は終わりとばかりに、トラメはコハクから視線を外してまたお茶を飲み始めた。またしても何一つ答えを得られないまま、コハクは自分に宛がわれた部屋へ戻ることとなった。
広い部屋には大きくて白いベッド、何人も腰掛けられそうなソファー、ソファーに負けないテーブルが備え付けられていた。コハクはソファーの真ん中に力なく腰掛ける。元々の撫で肩が更に落ちて、コハクをいつも以上に小さく見せた。
「元気出してっ、コハク! ね?」
「……ありがとう」
低い声音のありがとうに、ハルの耳と尻尾が垂れ下がる。ハルは子犬に姿を変え、すごすごと部屋の隅に体を伏せた。
「へたれの負け犬が」
『うっさい!』
ホムラの冷たい一言に、ハルは耳と尻尾を立てて唸り声を上げるが鼻で笑われた。本当の事であるため反論も出来ずにハルはまた床に伏せる。
妖魔たちのやり取りなど耳に入らず、コハクはぐるぐる廻る思考の海に沈んでいた。
貴方と私は違う。自分のこの一言がポルクスとコハクを隔ててしまった。
さざ波一つ立たない世界は寂しくてつまらない。トラメの言葉が甦る。
コハクにとって妖魔と向き合うのは息をするのと同じことだった。逆に人間と接する事はよく分からない。ミズホ国で接するのは『デンキ』かコンゴウとトラメくらい。依頼で依頼人や宿主とは向き合うが事務的なもので、こんな風に心が揺れることはなかった。
ふと目の前に湯気の立つ茶が置かれて、コハクは目線を上げた。視線の先は、香り立つティーカップから離れていく男にしては細く長い指に、藍の着流し、肩へ流れる赤髪、女に見紛われる程の相貌へと移っていく。
「茶でも飲んで少し落ち着け」
マギリウヌ国は極寒の地で、体を温める為に強い酒を女子供でも飲む。ドームに覆われる今は酒で体を温める必要はなくなったものの、名残で茶に酒を垂らすのが普通だった。
素直に口に含むと、淹れたて茶の温度と垂らした酒がコハクの喉を熱く通っていった。胃の腑に落ちた熱の感覚と、茶の香りが染みる。
「ごちゃごちゃ難しく考えるな。トラメの思惑もあの小僧の事情も、コハクの知ったことではないだろう」
今まではそうだった。ただ自分の役目を果たすだけ。他人の事情も思惑もコハクには関係なかった。
「コハク自身は何を望む? 大事なのは己の望みだけだ」
「私は……」
何故こんなに、もやもやするのだろうか。黒の双眼を見詰めると、不安そうな自分が映っていた。
「波のない世界がコハクの望みなら、波を立てる全ての要素を燃やし尽くしてやろう。人としての幸せを望むなら、それもお前の道だ。私は止めはしない」
「私の望み」
それは一体何なのだろうとコハクは思考の海に沈む。ぐるぐると渦を巻いて形にならない。また茶を口に含むと、渦が小さくなった気がした。
「まだ分からない」
「焦らずともいつか形を成すさ。望むと望まざるとにかかわらずな」
ホムラの静かな声に頷くと、カップの中の茶が揺れて表面に映っていた自分の顔が波打った。




