認識を拒む男
ふつっと糸が切れた操り人形のように、力が抜けたチェルシーの体をアルフレッドが抱き止めた。名前を呼んで揺するが、妹は空ろな目を開いたまま反応しない。
チェルシーの精神は殆ど食べてしまった後だ。元に戻る可能性は極めて低いだろう。必死に妹の名を呼び抱きしめる男を見下ろして、己が罪を自覚し唇を噛み締めた。
兄を悲しませた。唆されるままに人を殺めて食べた。妹の眼球を奪い食べた。チェルシーの精神を食べてしまった。
よくも。あの男め。よくも不完全とはいえ真名で縛り、記憶をすり替えてくれた。
飢えはまだ身を焦がすほどの衝動として残っている。そこにいる兄妹を食べたいという欲求がふつふつと沸き上がる。これを抑える方法は二つある。どちらを取るかは決まっていた。
分かれた『……』は血色の目を怒りに燃やし叫ぶ。
「コハクと言ったわね。私の名は『糸緒麗』」
ホムラの腕の中、コハクが黄褐色の瞳を開く。『珠玉』へ自ら名乗ったならば、応えねばならない。
「貴女の罪は私が一緒に引き受ける。良い名ね 糸緒麗 」
コハクが呼ぶことで名は真名となり仮そめの生を授ける。
シオリはチェルシーと瓜二つな外見のまま、衣服だけをミズホ国のものへと変えた。淡いピンクに白の帯だが、コハクが着ているものよりも軽やかで、下半身はスカートのようにふわりと広がっていた。銀髪は編み込まれ赤い紐飾りが映えている。
「結界を解いて、コハク。私の記憶を弄んだあの男は必ず来ているわ」
※※※※
「ったく、蚊帳の外は辛えな」
ダグスが長く吐き出した紫煙はナナガの闇夜へ溶けていく。結界とやらに閉め出されてから一時間と少しというところ、待つ身としては数時間が経過した気がするものだ。
第二部隊やハヤミは慣れているのか悠然と構え、壁にもたれたり地面に座り込むなど思い思いに休んでいる。落ち着かないのはダグスとリリアーヌだ。なにせ娘が結界の中にいるのだ。気が気でないなんてものではない。
ダグスは苛々と貧乏揺すりをしながら、何本めかになるか分からない煙草を揉み消し、新たな煙草を内ポケットから取り出した。上手く火が点かずに舌打ちする。
「貸しなさいな」
横からリリアーヌがライターを奪い、手慣れた様子で火を点けダグスへ差し出した。
「すまねえな」
肺を満たす煙が、ダグスの心をほんの少し宥める。
「旦那様! 奥様! ご無事でしたか」
路地から姿を見せたのは簡単に事情を話し屋敷に残してきた執事長だ。ダグスとリリアーヌは驚きに目を見開いた。
「レイモンド。何しに来たんでい」
「申し訳ありません。いてもたっても居られず来てしまいました。お嬢様は?」
いつも通りかっちりと執事服を着込んだレイモンドは、夜更けだというのに髪の毛一筋の乱れもなかった。
「リルなら結界とかいうもんの中に入ったまんま出てきやしねえよ」
「いや、そろそろ出てきまさァ」
目頭を指で揉むダグスにハヤミが言った途端、視界にひらりと白い紙が舞う。白い紙は一枚、二枚と増えてやがてそこら中を埋め尽くす程となった。
視界を白で染めるほどの紙吹雪の中から人影が現れる。その中の一人、銀髪に紅い瞳の少女が可憐な顔を怒りに紅潮させて、結界の外で待っていた者たちへ視線を走らせた。
目当ての者を見付けたシオリはにっこりと嬉しそうに手を振り、まるで親しい人に会った時のような笑顔を向ける。
「ああ、嬉しい。やっぱり居たのね。私の肉親殺しを見届ける為に……いえ、私を迎えにだったかしら?」
彼女の視線がぴたりと止まった先は、執事服を折り目正しく着たレイモンドだった。
「残念ですね。貴女はその資格を得られなかった。しかも『珠玉』の犬に成り下がるなど愚かなことを」
対するレイモンドも普段通り穏やかな笑みで答える。
「うふふ、コハクとはお友達よ。それよりも貴方には今までのお礼をしなくちゃ、ね」
小首を傾げたシオリは、垂らしたままの指先から妖気を通していない不可視の糸を伸ばしている。糸の先はさっき手を振った時に飛ばしていた。会話の最後に一気に妖気を流し、思い通りの軌跡を描かせる。
「うわああああっ」
上がった悲鳴と共に血塗れで地面に転がった男は、第二部隊の一人だった。先程までレイモンドがいた場所と寸分違わぬところで苦痛に呻く。
「シオリ、攻撃を止めて! 千鶴、戻って瞳にお入り!」
紙擦れの音を響かせチヅルがばらけてコハクの瞳へ戻る。間髪入れずに、コハクは瞳の中の妖魔を喚ばわった。
「おいで、ヤクロウマル」
治安維持警備隊の制服を血に染めた男は、急所をやられて虫の息だ。一刻を争う事態故に、あまり喚びたくはなかったが仕方がない。
「おやおや、久しいですね、コハク様」
現れたのは緩やかにうねる白く長い髪をゆるりと縛り、背中に垂らした優男だ。浅黄色の着流しに白の羽織、袖から覗く組んだ腕は病的な程白い。瞳は右が赤、左が青緑という特徴的な相貌だった。
「今すぐあの人を治してあげて」
「ふうむ、成る程。あまり気乗りがしませんねえ。さて、対価は何でしょう?」
当然のように笑顔で対価を要求するヤクロウマルに、コハクは目を細めた。ヤクロウマルが求めているのは金銭でも物でも称賛でもない。好奇心を満たす玩具だ。
「そこのふざけた高位妖魔はどう?」
コハクはいつの間にやら立ち位置を変えて佇むレイモンドを指差す。今血塗れになって倒れた男がいた場所だ。側にいた第二部隊の隊員がぎょっとして小銃を発砲するが、今度銃弾を受けたのはまたもや別の隊員だった。
「撃つな! 同士討ちになる!」
部下へ一喝したカーズだが、部下を傷付けられた事で腸が煮えくり返っている。それでもカーズの中の冷静な部分が発砲を止めていた。
レイモンドとかいう執事の男は高位妖魔で、何かしらの能力を使いうちの隊員へ攻撃の対象を移した。場所だけ入れ替わったか、最初から今の位置だったのにそうでないように見せられていたのか。どちらにしても迂闊に攻撃出来ない。
「ほうほう、これはこれは。確かに面白いかもしれませんねえ。んん、でも生け捕りが難しそうですねえ。コハク様、対価は後から他のを貰うってことで。どれ、ちょっと診てやりましょうかねえ」
赤と青緑の双眼がレイモンドを見て無邪気に輝いたが、まずはやるべきことを片付ける事とする。ヤクロウマルは鼻歌交じりの足取りで地面に転がる男へ近付いた。
「ああ、腕を犠牲にして喉と心臓は守ったんですねえ。咄嗟の判断、大したものです。ふむ、切り口は綺麗だから楽なもんですねえ」
場違いにのんびりと独りごちてから、何処からともなく取り出した布切れを丸めて男の口の中へ突っ込みむ。それから落ちた腕を拾い無造作にくっつけた。
「はい、ちょっと痛いですよお」
「~~っ!」
一気に血管や神経を繋ぎ治癒を促した為に相当な痛みを伴う。勿論痛みを止めることなどヤクロウマルは考慮していない。
「終了お。それでコハク様、対価ですけどねえ」
緊迫した空気などなんのその、早速対価を貰おうと呑気にコハクへ手を振った。




