糸の攻防
「ふふふっ。嘘でも冗談でもないわ。本当に素敵。大好きな人を、それも想いが通じあって幸せいっぱいの二人を食べる。ああ、なんて罪が深い。きっと今まで食べたことないくらい美味しいわ」
散歩に出かけるような気軽さでチェルシーが一歩前へ出る。ハルも苦虫を噛み潰した顔で前へ出た。
「コハク。こりゃもう、大分喰われてる。こいつはもう、手遅れだよ。ちゃっちゃとやっちまおう」
拳を握るハルだが、コハクはきっぱりと否定した。
「駄目よ。どんな形であれ宿主と妖魔は分離させると言ったでしょう。一度やると言った以上必ずやるわ」
「うぇっ! まじで?」
ハルは心底嫌そうにコハクを見たが、一度言い出したら絶対に曲げないことも知っている。
「せめて真名の解放は?」
「無しよ。ハルの真名を解放出来るほど回復してないわ」
「ええ~っ! このままやんの?」
軽く冷や汗を流してハルは地を蹴った。大きな跳躍は無しだ。遠距離攻撃が得意な相手にそれをやると痛い目にあう。
正面を少し進んで左にずれると、ハルの後ろを回り込むように糸が来る。妖気を込めた手で払い、少女へ拳を叩きつけにいった。
ふっと柔らかい笑みを浮かべた少女の目の前に大量の糸が細かい網目を作り、ハルの右拳が阻まれた。
「っんっのやろっ!」
更に妖気を込めて強引に抉じ開けにいく。食い縛った犬歯が剥き出しになり、右腕の筋肉と血管が浮き上がって一回り大きくなる。ぶちぶちと糸が切れていく感触に、ハルが吠える。
「グルゥゥァアアアッ! って、ぅあっち!」
突然壁を作っていた糸が燃え上がった。勢い余って焔に突っ込んだハルは悲鳴を上げる。炎の壁を抜けた先に少女はいなかった。
「上だ、馬鹿犬」
ハルが壁を抜こうと躍起になっている間に、少女は空中から攻撃に移っていた。正面から直線で四本、残りは左右と上から二本ずつだ。
「教えてくれるのはいいけど燃やさなくてもいいだろっ!」
ホムラへ文句をいいつつ、ハルは小さな子犬へ姿を変えて糸をかい潜った。人間の大きさなら避けづらいが、子犬なら余裕だ。火傷を負った右腕は既に治りつつある。しかし痛いし火は熱い。
「くすくす。喧嘩してる場合かしら?」
空の散歩を洒落こむチェルシーは、優雅に指を動かした。糸の軌道が下から上へと変わる。
「余計なお世話だよっ」
子犬のハルは上へ上がる糸の隙間を転がるように抜けて青年の姿に戻り、側の糸を何本か引ッ捕まえてぶち切った。
「千鶴! 足場!」
「ハルの癖に人使いが荒い。荒い」
ぷうっと不服そうに頬を膨らませた千鶴だが、ひらひらと何枚かの紙を舞わせている。今度は中型犬になってランダムに舞う紙を足場に空を駆け上った。
「ギャウッ!」
しかし、少女に届く前で不可視の糸がハルの喉へ食い込んだ。あちこちに張り巡らされている妖気を纏わせた糸は、白く光って見えるので当然避けている。その避けた先に妖気を纏わせていない、ただの糸が紛れていたのだ。
「ふふ、かかった!」
魚でも釣れたかのように声を弾ませ、チェルシーはただの糸へ妖気を送る。同時に新たな糸も繰り出している。このまま邪魔者は切り刻んで終わりだ。
「世話の焼ける馬鹿犬だな」
ホムラの呟きと共にハルの周囲の糸が焔を上げ、ハル自身も焔に包まれる。足場になっていた紙も燃えるが、それが燃え尽きる前にハルは思い切り蹴った。空中で体を捻って四つん這いで地面へ着地、この時には青年の姿になっていた。
「やだ。やだ。ホムラ嫌い! 嫌い!」
燃えた紙を眺め千鶴が涙目になる。紙と焔、言わずもがな千鶴とホムラの相性は最悪だった。
「ゲホッ」
喉が焼けるように熱い。実際に少し焼かれたし、体のあちこちに火膨れが出来た。あのままなら首を切断されるところだったのだから、仕方ない。ぎらぎらと茶色の瞳を怒りに燃やし、火傷を負った喉を低く鳴らしてハルは敵を睨み付けた。
少女は殺意のこもったハルの視線をクスリと笑って受け流す。高みの見物のままに指が動いた。左右一本ずつが不規則な軌道を描いてくるのを、両手でそれぞれ対応する。
が、本命は不可視の三本目。本能のみで膝を曲げて体を沈めると、正面からきたそれが浅く肩口を切った。
「ガアゥッ」
肩へ妖気を集めて糸を止め、顔だけ獣化させて噛み千切る。
「きゃああ! ああ! 熱い! 熱い!」
アルフレッドとリルの回りで、焔が闇夜を白く染めた。刹那で消えたが、真っ白な千鶴に焼き色が付く。おそらく残りの七本があっちを狙ったのだ。
「もう嫌だ! 嫌だ! ホムラの馬鹿ぁ。馬鹿ぁ。うえええん、うえええん、今日だけで何人やられたのよぅ。よぅ」
何枚か炭になって消える紙を見て、千鶴が紙の涙を流す。当のホムラは涼しい顔でコハクの横に佇んでいる。
千鶴は高位妖魔の形をとってはいるが、厳密には違う。千鶴を構成する一枚一枚の紙は下級妖魔なのだ。何百、何千という膨大な数の下級妖魔の集まり、それを統合し造り出した意志が千鶴という妖魔の形をとっているのだ。
「なんとかしてよっ! よっ! ハルっ! ハルっ!」
「分かってるよ!」
怒鳴り返すハルは悔しくて堪らない。
情けない、不甲斐ない。目の前に敵がいるのに、牙一つ爪一つ届いていない。
糸が邪魔だ。張り巡らされた罠が邪魔だ。いちいち考えるのは性に合わない。獲物の息の根を止める牙を剥け。爪を突き立てろ。全身の筋肉を使え。狙うのは白い喉元。それ以外を削ぎ落とせ。
青年から大型犬へと変わり、毛を逆立て剥き出しにした牙の間から低く長い唸り声を徐々に大きくする。ゆらりと立ち上る妖気で全身を赤黒く彩る。
ハルはガチガチと剥き出しにした牙を噛み合わせ、あの白い喉元を己が牙で引き裂く機会に備えた。
ハルとチェルシーの目まぐるしい攻防の中、コハクは広げた扇を片手に巡らされた糸を視ていた。ゆっくりと舞うように扇を動かし、香りと瞳の力をのせていく。扇が糸へ触れていく度に糸へ纏わせた白い妖気へ、コハクの黄褐色の光が交じっていった。
時折コハクの側へ伸びる糸は全て届く前に燃えて消える。飛んでくる糸には全く注意を払わずに、コハクは意識を瞳の光へ集中する。交じる妖気と光によって顕になる彼女の罪を視るために。




