魔女と妖魔
門番の挨拶に軽く答えてから、屋敷の敷地の外へ出ると、コハクは一言呟いた。
「おいで、ホムラ」
彼女の瞳の中の一際大きな破片がくるりと舞い、瞳から飛び出した。破片はみるみる質量を変え、一人の男の姿となる。
長い赤髪に黒目の二十代半ばかと思われる青年だ。女性と見紛うかのごとき容姿だが、鋭い眼差しと高い身長、威圧的な物腰が一目で男性と知らしめる。
「やれやれ。瞳の中にいないとならないとは、これだからあの屋敷は嫌いだ」
吐き捨てるホムラをたしなめようとすると、別の声が響いた。
『仕方ないだろ? コハクに文句言うなよなっ』
声と同時にコハクの瞳から、また破片が姿を変える。次に現れたのは二十歳になるかならないかの青年だ。あちこちに跳ねた明るい茶色の髪と、同じ色の毛に覆われた大きな犬耳と尻尾が生えている。大きくてくるくると動く茶色の瞳が、快活な印象を与えた。
「ほんと、嫌になっちゃうよね、コハク。ホムラはいっつもぶつくさ文句ばっかりでさ。その点俺はそんなことないよね? ね? だからさ、ホムラを喚ぶより俺を喚んでよ!」
尻尾をぶんぶんと振りながら、コハクに詰め寄る。その襟首をホムラがむんずと捕まえた。
「うるさいぞ、ハル。お前みたいに四六時中ぎゃんぎゃん言うやつの方がコハクが疲れる」
「ホムラみたいに無愛想よりはましだよ! 大体ホムラはいっつも外でコハクと一緒じゃん! ズルいよ」
襟首を掴まれたままじたばたと暴れるハルを、ホムラが心底鬱陶しそうに眺めた。
「コハク、こいつを瞳の中にしまえ」
うんざりとぶら下げたハルをコハクへ突き出すホムラへ、コハクはぴしゃりと応じた。
「確かにホムラが外にいる時間は長いわ。少しは瞳に戻りなさい」
「いくらコハクでもそれは聞けない。私は瞳の中は嫌いだ」
「やーい。言われてやんの! ほら! コハク、無愛想なだけじゃなくて頑固。こんな奴より俺の方がいいって」
ホムラが注意されたことで我が意を得たりと、ハルの尻尾が勢いよく揺れる。
「ハル、騒ぐのはいいけどホムラの悪口は駄目。それとこれから移動だから少しの間、瞳の中に入ってて」
コハクはハルを見上げながら、とん、と軽く胸を突いた。ハルはホムラ程ではないが背が高く、コハクは逆に低い。
「きゅうっ」
ハルが図体の割には可愛らしい声を上げる。質量を小さくすると、茶色の破片となって瞳に吸い込まれた。
勝ち誇った顔をするホムラを見上げたコハクは、半ば諦めたように言った。
「やっぱりあなたは入らないのよね?」
ホムラはハルのように、強制的に瞳の中に戻せない。そもそも何故自分に従っているのかも、コハクは疑問なのだ。
「コハクを守るのは私だ」
「好きにして」
御しがたい男に対してコハクは素っ気なく応じてから、溜め息をひとつ吐き出して歩き出した。向かう先はミズホ国を囲む外壁にある櫓門だ。
ちりりと小さく瞳が痛む。ハルが不平を言っているのだろう。『ごめんね、ハル』心の中で謝ると、『コハクが謝ることじゃないよ』という、ハルのいらえと共に痛みは消えた。
身の内との会話で歩みが弛んだコハクを、ホムラが追い越してしゃがみこんだ。背中を差し出してくる。
「自分で歩けるのだけれど?」
「私が背負った方が格段に速い。早く依頼を片したいのだろう?」
早く乗れと、背中を揺する。ホムラはコハクに甘く、何かと世話を焼きたがる。ホムラだけではなく、コハクの瞳の中にいるものたちは皆そうだ。
素直にホムラの背に負われて、コハクは目を閉じた。揺れる大きな背中の振動と、自分の瞳の中に息づくものたちを感じる。
コハクの瞳の中に封じられているものたち、妖魔の気配を。