ぶつかる勇気
「リル?」
いつもと違う娘の様子に、リリアーヌは戸惑った。自分と同じ形で夫と同じ色の緑の目を、どうしたことかと見つめ返す。
「お母様は私に、常に美しく完璧でいなさいって言いましたわ。そうすれば何でも思い通り、幸せになれるって」
「ええ、そうよ。実際にそうでしょう? 誰もが貴女を褒め称え、貴女の関心を引こうと躍起になっているわ」
娘の口から、いつもの自分の口癖が出たことでほっと表情が弛む。
「そんなの、要らない!」
リリアーヌの目が見開かれた。
「私、努力しましたわ。でも、完璧を目指せば目指すほど、幸せは遠くなった」
娘の緑の瞳からポロポロと涙が溢れる。
「上辺だけの賛辞なんて要りません。沢山の物や人に囲まれなくていいんです。お母様とお父様と、大事な人だけに見てて欲しいのです。愛して欲しいんです」
「リ、リル。どうしたっていうの?貴女らしくないわよ」
柄にもなく狼狽えて、リリアーヌは美麗な眉尻を下げた。
「私らしいって何!?」
娘の叫びと涙に濡れた緑の眼差しが、リリアーヌを射す。こんなに強い目をして自分を見たことなど無かった。
リルは顔を歪めて、涙だけでなく鼻水まで垂らしてしゃくり上げ始めた。涙は女の武器なのだから、無闇に使うな、使うなら美しく使えと言ってきたというのに、なんと汚く使うのだろうか。
「私らしいって、何っ、何なの!? 今の私、も私ですっ」
ひっくひっくと喉を鳴らしながら、泣き叫ぶリルの言葉は聞き取り辛い。
こんな娘は初めてだった。いつもお人形のように可愛いらしく、少し生意気で気高い自慢の娘。その娘が、長く繊細な指でごしごしと目を擦り、形のいい唇をわななかせて、地べたに座りこみ、皺一つなかった制服を汚している。
子供のように声を上げて泣き出した娘へ、伸ばしたり引っ込めたりと、リリアーヌの手がさ迷った。
「ずっと、こうやってっ泣きたかった! 喚きっ、たかった! 聞きたかった! お母様、私はっ愛されて、いますの!?」
リリアーヌの濃い蒼の目が潤む。娘の心からの叫びに、打ち据えられた。
愛しているに決まっている。だからこそ、娘が幸せになれるよう、誰もが娘を称賛し愛するように女としての武器を磨かせた。
「みっともなく、泣いてはいけないの? 喚いてはいけ、ないのですか? 完璧な娘でっ、いなければ愛してくれないの? 見て、くれないの? ちゃんと、醜い私も見てっ!」
迷っていた手が、雷に撃たれたように動きを止めた。
自分の理想論を、願望を、絵空事を押し付けた。娘の上辺しか見てこなかった。
これが、リリアーヌ・ハラーナ・アングレイの罪。
覚した罪に突き動かされるように、何か言わなければと口を開きかけたリリアーヌへ、声が響いた。
……ごめんなさい…… 。
「何!? 誰なの?」
突然響いてきた自分の声に、リリアーヌは驚いて喉を押さえた。違う、今ここから出した声ではないと確認して動揺する。
「貴女が罪を自覚したから、妖魔が生まれたのよ。大丈夫だから黙って聞いてなさい」
罪を犯したとしても、本人もしくは他人が認識しなければ罪とはならない。罪とは明確な定義が在るわけではなく、神とやらが決めている訳でもない。人が罪だと認めて初めて『罪』となり妖魔が生まれるのだ。
狼狽えるリリアーヌの傍らにしゃがみ、コハクは瞳に光を点す。
甘い香りが辺りを漂い、リリアーヌの胸元から棘のある蔓が伸びてきた。蔓は葉を広げ蕾を付け、やがて真紅の花を咲かせ語り始める。
「良かれと思っていたのよ。私には、これしか無かったから」
リリアーヌの両親は貧しさから、初潮を迎える前の彼女を娼館へ売った。
娼館で美しさはリリアーヌが持つ唯一の武器だった。男たちは競って彼女を求め、金を落とし、その分リリアーヌは優遇された。
戦う武器を無くした女に待つのは死だ。盛りが過ぎて美が衰えると、手の平を返したように厄介者扱いされた挙げ句、無惨に打ち捨てられる女たちを腐るほど見てきた。色を売るしか知らない女が身一つで放り出されて、生きていけるほど優しい街ではないのだ。
夜に起き昼に眠る生活のなか、時折昼間に目覚めてふと目を落とした窓の外。昼でも暗い路地裏を運ばれる女の死体を見た。盛りを過ぎて、最近めっきりと客がつかなくなってしまった姐さんだった。入ったばかりの頃、彼女には世話になったのに。
くるまれた粗末な布から覗いていた、いく筋かの髪の毛と青白い手が恐ろしかった。男が重そうに担ぎ直した時、布がはだけて顔半分が覗いた。
補充されるかのように、新しい年端もいかぬ少女がやってくる。そして、いつの間にやらまた女が消える。年齢だけではなく、病による死もあった。自ら命を断つものもいた。それでもリリアーヌの目に焼き付き離れないのは、あの日の姐さんの死体だった。
「……怖い、恐ろしい。路地裏を運ばれる姐さんの何処までも堕ちていきそうな虚ろな目、目尻と口元に刻んだ皺、艶のなくなった髪と張りのなくなった肌が忘れられない……」
大輪の薔薇である妖魔は紡ぐ。蓋をしてきたリリアーヌの過去を。
「私は、ああはならない。若さを保ってやる。生きてやる」
「やめて! やめて! やめてっ!」
耐えきれなくなってリリアーヌは両手で耳を塞いだ。醜い自分の本音など、聞きたくない、誰にも見せたくない。
「いつか私の武器が衰えて、捨てられることに怯えていた。娘にはそんな思いをさせたくない。私がダグスに出会ったように、自分の武器を磨いていれば、リルにもきっと幸せにしてくれる誰かが現れると思っていたのよ」
薔薇が震え、花びらが一枚はらりと落ちた。
リリアーヌの唇が震え、堪えきれなかった涙が、濃いめに引いたアイラインを流して頬を伝う。
「お母様……」
初めて見せる弱々しい姿に、リルは思わず呟いた。
はらはらと幾重にも巻いた花びらが減っていく。
「……でも違った。間違いだった。私はリルを苦しめていた……」
最後に残ったのはがくと子房のみ、それも萎れて枯れていく。
「貴女はきちんと罪を自覚した。罪は自覚して初めて贖う機会を与えられるのよ。だから」
萎れて茶色く変色した薔薇へ、コハクは手を差し出す。
「私と一緒に罪を贖いましょう。名を教えて」
無惨に枯れた薔薇が、縮れた葉を震わせてかさりと音を立てた。
「……美花よ」
「いい名ね、美花。瞳にお入り」
枯れていた茎から新芽が伸びて葉を繁らせ、蕾を付けていく。茎は青々とした色に染まって太くなり、次第に小さな人形へ変わった。三十センチほどの小さな緑の女が、真紅の花びらで出来たドレスを纏って立っていた。
ミカは小さな破片となって、コハクの瞳に吸い込まれる。
「罪は私が引き受けた。貴女が今やるべきことは何?」
静かで柔らかな声に、背中を押されてリリアーヌは顔を上げた。目の前には泣き腫らした娘の顔がある。
たとえ今さらだとしても、言わなければ、それこそ親としての資格をなくすだろう。
「愛しているわ。リル。綺麗で可愛くなくても、完璧な娘でなくても、貴女は私の大切な娘よ」
綺麗に整えてマニキュアを塗った爪先を、リルの背中へ回した。
「……ごめんなさい……リル。本当にごめんなさい」
娘の身体はとっくに背丈も自分と同じになっていた。その当たり前の事実に感慨を覚えて目を閉じると、涙が押し出されてまた流れた。
おずおずとリルの手が母の背中に回される。母と娘は互いの涙で互いを汚し合いながら、抱き合って泣いた。




