真実の名
千鶴は腕を組んだまま後ずさる。肩をそびやかしてハルへ言った。
「ハルが情けないからいけないのよっ! いけないのよっ! なんでもかんでも壊すしか取り柄ないんだから、さっさとやっつけちゃえ! ちゃえ!」
情けないと言われハルの耳と尻尾がピンと逆立った。
「相っ変わらず生意気な奴だな! このままだとやりにくいんだよっ! 後何で俺にだけ言うんだ。ホムラにも言えよっ」
青年が幼女の千鶴と同じように地団駄を踏む。
「嫌よ、嫌よ。ホムラ怖いもん。怖いもん」
千鶴は小さく紙ずれの音を立てて体を震わせた。
「何だよそれ! 納得いかない! コハク! 俺も真名呼んで!」
「いいの? ハル。彼の前よ」
コハクはちらりと後方のポルクスへ視線をやる。
「構わないよ。……今のうちに分からしておいた方がいいし」
明るい茶色の瞳を伏せてハルは床を見る。期待して希望を持ってから裏切られるぐらいなら、いっそ早い内に砕いてしまった方がいいのだ。互いの為にも。
「……いいわ。『琥珀』の名にかけて真実の名を呼ぶ。『温』」
青年の体が膨れ上がり、体毛が生え、牙が伸びる。通常の犬の大きさを遥かに超えた体躯は、四つ足を着いた状態でも人の背丈の倍はあった。
茶色の目は白く濁り、牙からは赤黒い血が滴る。茶色の体もどす黒く染まるほど、血を吸っていた。体毛もあちこち抜けている部分があり、肉がこそげて骨すら覗いている。
四肢を動かすと、びしゃりと湿った音を立て床を血で汚した。
おぞましき巨大な動く犬の死体。妖魔としての温の真実の姿だった。
出来る限り避難してようと、壁に張り付いた格好のポルクスは恐ろしくて堪らない。筋肉疲労による震えは止まったが、代わりに恐怖に震えていた。幸い妖魔はポルクスなど眼中にないらしく、攻撃はこっちに全く来なかった。
ポルクスを巻き込んだ張本人は、コハクとリルに潜んでいた妖魔に気をとられ、彼は壁に貼り付くオブジェと化していた。本当に何でこの場に居なければならないのかと、理解に苦しむ。
そうこうしている内に、リルと妖魔が分かれてチヅルがピンチになったと思ったら、パワーアップだか何だかをした。ハルも同じようにコハクに名を呼ばれたのだが。
ポルクスは壁に貼り付いたまま、ハルを見上げてごくりと唾を飲んだ。あれは本当にあのハルなのだろうか。
むせ返るような鉄錆びの臭い、ふかふかと手触りのよかった毛並みは針のように尖り、血で湿っている。所々剥き出しになっている赤身の肉と白い骨が生々しい。
カチカチという音が聞こえてから、自分が歯の根も合わぬほど震えていると気付いた。いつ戦闘に巻き込まれるか分からないとか、未知の妖魔が怖いとか、そんなものは生ぬるい。
そんな思考を伴うようなものではない、もっと本能の根幹を揺さぶられる恐怖が目の前の存在だった。
ゆっくりと犬の頭だけが振り向く。死して白濁した茶色の目と自身の青い垂れ目が合った。
「あ……」
小さく掠れた声が出た。呪縛が解けたように全身の力が抜けかけて、壁に凭れて座り込むのを堪える。目尻に滲んでいた涙を乱暴に制服の袖で拭く。
視界を塞いだ自分の腕を下ろす頃、ハルはまた目線を前方へ戻していた。
歯が鳴る音は止まっていた。まだ手足の震えはある。今のハルの姿は恐ろしい。ハルの気を損ねれば自分など一捻り、そうでなくても加減ひとつ間違われたらぷちっと潰されてしまう恐怖だ。
それでも理屈で測れない訳の分からない恐怖ではない。ポルクスの中で、今のハルへの恐怖は未知のものから、こうなるかもしれないという、予想が出来る恐怖に変わった。
……だってあのハルの目は。
ポルクスの見間違いでなければ、あの濁った茶色の目に浮かんでいたのは、不安の色だった。
怖がれるかもしれない、嫌われるかもしれないと不安がる普通の感情を持つハルは、訳の分からない存在ではなかったから。
だからポルクスは普通の人間として、妖魔のハルから目を逸らさないでいようと思う。恐れながら、震えながら、信じていようと。
あの憐れな夫婦に貰い泣きしたハルを、よく見せる屈託ない笑顔を、ポルクスの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した時の泣き笑いみたいな顔を信じようと思ったのだ。




