届かぬナニカ
男にとって丁度いいカモでしかなかったというのに、彼女とのデートは何もかもが調子を狂わされた。
洗練されたレストランも、出来たばかりのカフェも飽きたと言われた。今までの女たちが喜んだありとあらゆる場所や店がつまらないという。
全くとんだお嬢様に声をかけたものだと思案して、半ばやけくそ気味にわざと下町へ連れていった。
金に困らなくなってから長く足を踏み入れなかった、雑多な区画だ。貧困のどん底にいた男にとって、ここですら一段上の場所だった。いつの間にかもっと上の住人になって、近寄ることすらしていなかったが。
店はいくつか代替わりをしていたが、この手の飲食店はどこも同じようなものだ。慣れない場所に戸惑うお嬢様の手を引いて適当な店に入り、迷わずカウンターへ座る。
安っぽい大衆食堂など来たことがないだろう。さあ、文句なり軽蔑なりの言葉が飛び出すかと、お嬢様の様子を眺めた。予想に反し彼女は文句も言わず、ギクシャクと不自然な動きで使い込まれた椅子へ上品に座った。
「こんな所には来たことがないだろう?」
「当たり前ですわ」
所狭しと貼られた品書きや、壁の染み、客たちへと忙しなく見回すお嬢様の様子が可しくてつい笑みが浮かぶ。勝手が分からないだろうから適当に頼んでやった。
「貴方はよく来るんですの?」
「いや、実は久しぶりだな」
ドンと置かれた定食を、お嬢様は丁寧に美味しそうに食べた。ありふれた料理の一つ一つに驚いて目を輝かせる。もっと美味いものばかり食べているだろうに、変な女だと思いながら自分も食べる。
「やっぱりお高くとまった店よりも、こっちの方が旨いな」
久しぶりの安い料理は妙に胃袋に沁みて、思わずそう呟いてしまった。
それから幾度となくお嬢様と会った。彼女と話す度に金と物に囲まれた孤独を知り、自分が何を掴みかったのかを知った。
自分が欲しかったのは、手を伸ばしても届かないナニカではなくて、目の前に転がる当たり前のものだった。
それに気付かせてくれたお嬢様が、綺麗でかけがえが無くて苦しいくらい大切だった。
これは恋とか愛とか云うものなのだろうと、今更になって痛感する。
同時に遅すぎることも分かっていた。薄汚れた自分には、この宝石のような彼女は似合わない。
きっと、似合うことはないだろう……。
※※※※
「あの人に媚びた女たちが憎いのね。憎くて憎くて、殺しても飽きたらなかったのね」
瞳が更なる熱を持つ。地面から半身を起こし、文字通り毛を逆立てて警戒する彼女へゆっくりと近付く。
「引き裂いて満足した?大事なあの人は幸せになった?リルを守れたの?」
リルの体を操る妖魔の瞳が揺れる。表情が道に迷った幼子のように不安そうに歪んだ。
「ううううう」
勝ち気な少女の表情と幼子の表情が、ぶれたように重なって見え始めた。分離が始まっている。もう少しだ。
「貴女の罪は私が引き受けてあげる。一緒にあの人の元に行こう」
コハクは白い手を差し出した。刺激しないギリギリの距離で止まる。
妖魔の心の迷いを表すように、刃先をコハクへ向けた髪が揺れる。ホムラとハルは、いつでもコハクを守れるようにリルと妖魔を注視していた。
コハクの光と香りに導かれ、リルから浮き上がるように妖魔が少しずつ姿を見せ始める。
リルの顔がぶれるように二重になり、二つに分かれていった。顔から首、肩、胸と次々に分かれていく。
やがて完全に分離した妖魔は足を地面へ着けた。妖魔の後ろで、リルがぺたりと尻餅を着く。
流れるような銀髪は幾つかの束を作り、鋭利な刃先をゆらゆらとコハクへ向けている。頭には小さな丸い銀色の耳、同じ色の長い尾が揺れていた。
背丈は低い。白い衿の付いた水色のワンピースから覗く細い手も銀色の短い体毛に覆われ、五本の指の代わりに刃が緩く曲線を描いていた。白目の見えないヘーゼルの瞳が尚も強い警戒を浮かべている。
「あたしたちはあの人の所には行けない。あの女たちを殺したあたしたちがいたら、あの人はリルと幸せになれないの」
揺れが止まった銀髪がコハクへ切っ先を定めた。
「だから、あんたの手は取らない!」
また同じ髪での攻撃。しかし、速さと威力が違った。
「コハク、退がれ!」
ホムラは今までと同じように捌くが、ハルは幾つか弾きその内の一つに押し負ける。弾き返そうと刃の腹を叩いたが、拳が刃の側面に当たった瞬間に拳ごと体を浮かされた。
「クッソ!」
刃に当てた拳を支点に空中で体を捻り、壁への激突は免れる。ダン!という音を立ててハルが地面へ降りると、チヅルの悲鳴が響いた。
『嫌ぁ! 嫌ぁ! コハクっ! コハクっ!』
ホムラに捌かれハルに弾かれた髪が、壁や床を切り裂いていた。切り裂かれた部分から破れた白い紙が何枚か剥がれる。空中に舞った紙の破れは勝手に広がり、粉々の紙吹雪になって消えた。
宿主の体を捨てて妖魔本来の力を解放した攻撃がチヅルの耐久度を上回ったのだ。
「このまま切り刻んで壊してやる!」
銀髪の妖魔はヘーゼルの目を細めて髪を蠢かせる。
「『琥珀』の名にかけて真実の名を呼ぶ『千鶴』!」
ぎりりと歯を食い縛り、コハクはチヅルの真名を呼ばわった。
結界である壁や床から、一部の白紙が剥がれて一ヶ所へ集まっていく。壁や床を形成していたのは、紙の集合体だったのだ。やがて集まった最初の紙を芯にして次々と貼り付き、人形を成した。
真っ白な紙で出来た少女は、キッとまな尻を吊り上げ銀髪の妖魔を指差す。
「馬鹿! 馬鹿! この切り裂き魔! 切り裂き魔! 何人かやられちゃったじゃない! じゃない!」
千鶴は紙を盛り上げて頬を膨らまし地団駄を踏んだ。小さな紙の破片で目尻に涙らしきものまで作る所という芸の細かさだ。ちなみに紙の涙はほろりと落ち、また開いて足にぺたりと貼り付き同化した。
ふっくらと丸みを帯びた頬、肩にかかるおかっぱ、コハクと同じ合わせの衣服を帯で留めた五歳くらいの少女だ。全てが真っ白であるという点以外は、仕草も姿も声さえも幼い女の子そのものであった。
千鶴の抗議を無視して銀の攻撃が壁を切りに行くが、今度は傷一つ付けられない。
「無駄よ、無駄よ。真名を呼ばれた千鶴の結界はそんなのじゃ破れない、破れない」
腕を組んでふふんと自慢気に胸を逸らす。そんな仕草も子供らしくて可愛らしいが、舌っ足らずな千鶴の声は幾つも重なってこだまする不思議なものだった。




