プロローグ
暗く細い路地を、男は倒けつ転びつひた走る。運動不足の中年太りな体が悲鳴を上げるが、そんなものに構ってはいられない。
逃げなければ。
逃げ切れなければ、そんなものは関係なくなってしまう。
命なくしては、体の痛みも何もないのだから。
くそ! どうしてだ? 禁酒を言い渡されているにも拘わらず飲みに行ったからか?
大人しく真っ直ぐ家に帰ればよかった。今日は仕事が早く終わったからと賭博場に久しぶりに立ち寄った。当たりが出たものだからつい気分よく飲み過ぎた。
段差も石もないところでつまづく。派手に地面に転がって、必死に這うように前へ進みながら、後ろを見た。
見てしまった。
光る目が男を見据える。鋭い牙が血を滴らせて何かをくわえている。日に焼けて肉付きのいい、男の腕。
なんだ、俺の腕じゃねえか。
ひっきりなしに耳障りの悪い、誰かの悲鳴が聞こえている。それも自分の悲鳴なのだろう。
ああ、早く帰ればよかった。
臨時収入でかみさんに土産の一つでも買ってやればよかったんだ。
その後悔を最後に、男の思考は止まった。
※※※※※
東の果ての山奥にひっそりとある国、ミズホ国。大した産業も特産物もない、地図にも載らない小国だが、西の大国ですらその名を知る国である。
真っ直ぐに伸びた針葉樹と、枝葉を伸ばす落葉樹の混ざる山々の谷間に、ミズホ国の国土が広がる。
一言で言えば長閑な田園と、木造の家が集落を作る田舎である。大陸の中央に位置する商業国、ナナガ国や西の大国、聖ルアノラ帝国とは比べるべくもない、人口たった約一万二千人という国とも言えない規模だ。
国土の半分以上を山が占め、申し訳程度の平地を開墾して暮らす東邦の辺境国、それがミズホ国だった。
そんなミズホ国の中央にある黒塗りの屋敷にて、一人の男が座していた。
精悍な顔立ちに程よい筋肉のついた体を、ミズホ独特の衣装で身を包む彼の、黒髪から覗く眼は、恐ろしく光を反射する。
一見白目と同化するような色合いの瞳は、中央の黒の瞳孔と男の意思を宿して、しっかりと主張していた。
齢三十二になる金剛の瞳を持つ男は、厚めの唇を歪めて笑い、目前で伏して控える少女へ言った。
「依頼だ、コハク。行ってくれるな?」
胡座をかき、右肘を己が足につけて頬杖を突く、ふてぶてしい態度が妙に似合う男だ。白地に黒の刺繍の入る布地を左右から合わせて、黒の帯で結んで着流しているのも、また男の風格を演出する。
「ミズホの長であるコンゴウ様の命とあらば、断る所以も権利もないでしょう?」
どこか憮然とした声音で平伏した少女が答える。肩の上で切り揃えた黒髪を微かに揺らして、面を上げた。
年の頃は、十八歳。白くほっそりとした輪郭に形のいい赤い唇、小柄でしなやかな肢体をやはりミズホ独特の衣装で包む。黒地に蝶の柄が描かれた生地を赤の帯で締めるその衣装は、彼女の線の細さと白い肌を引き立てていた。
何よりも特筆すべきはその瞳。大きな瞳の透き通る黄褐色の中に、黒の瞳孔とは別に茶色の破片がくるくると踊る。光の加減でも、瞳を動かしたわけでもないのに、瞳のなかで破片は好き勝手に動いているのだ。
「そう言うな、コハク。我がミズホ国のような国とも呼べぬ小国が存続出来るのは、依頼あってのことだ」
くっくっと喉の奥でコンゴウが笑う。
「デンキたちに任せられないんですか?」
「デンキらには荷が重かろう。何より奴らでは『石』にならん」
「それほど上物だと?」
「くくく、そうにらんでいるからお前に依頼を振ったのだ」
コンゴウの目が面白そうに細められる。対照的に無表情なコハクは、やはり抑揚のない口調でせめてもの条件を出す。
「依頼から戻ったばかりなのに」
「今回の依頼が終われば休暇をやろう」
「宿は」
「景色のいい最上なものを手配しよう」
「観光も」
「依頼に支障のない程度と、依頼の後は許可する」
「必要経費は」
「好きなだけ認めよう」
「…… 」
「もうないか?今のうちだぞ?」
くっくっと笑うコンゴウだが、コハクが本当は多くを望まないことも知っている。形だけでも不平を言い、条件を飲ませて優遇を受け、優遇の分だけ仕事へ全力を傾ける。彼女なりの矜持だ。
「不肖、コハク。その依頼をお引き受け致しましょう」
上げていた面を下げて、深く礼を取ってから立ち上がった。彼女が退出した後には、甘い香りがほのかに残った。