渇望のその後
いつしか少年は青年となり、手を伸ばしても届かない何かを求め、表通りを歩いていた。
声を掛けたのは、気紛れだった。
品よく仕立てられたワンピースに毛玉一つないカーディガン、綺麗に巻かれた艶やかな金髪に水仕事などしたことのない手。
金持ちの娘だと一目で分かった。金づるだった貴族の女とは、深みに嵌まる前に別れたばかりだ。前の女が年上だったから、今度は年若いお嬢様を騙すのもいいだろう。
人混みを縫って彼女に近付く。不信感を抱かせず、然り気無く声をかけるには自然な切っ掛けが欲しいところだ。
丁度少女が溜め息を吐いた。緑の瞳に長い睫毛が影を作り、憂いを帯びた表情が大人の色香を漂わせる。
少女と大人の狭間、危うい美が混同する様に思わず目を奪われた。
「溜め息を吐くと幸せが逃げますよ、お嬢さん」
随分とありきたりな声掛けをしてしまったものだと苦笑する。予想通り彼女は胡散臭げに彼を上から下まで眺めた。
生意気そうな緑の瞳が彼を物色する。
「なら、貴方が私の退屈を紛らわせてくれるのかしら?」
はっとするほど挑発的な笑顔だった。彼の見てくれへの陶然でもない。初なだけの令嬢の反応とも違う。今までの女たちにはなかった、胸を走る衝撃に戸惑う。
それこそが、伸ばしても届かなかったナニカとも知らず。
※※※※
『おいでなすった』
何故か嬉しそうにハルが尻尾を振り、姿を変える。四足歩行から二足歩行へ、茶色の耳と尻尾はそのままで犬の毛が同じ色のあちこちに跳ねた髪になり、広い肩幅と程よく筋肉のついた青年が立ち上がる。
ハルは拳と拳を合わせ、やや物騒な笑みを浮かべた。
「ハル、分かってる?」
一歩前へ踏み出したハルへ、コハクは静かに声をかける。
「適当にぶっ飛ばせばいいんでしょ? そしたら妖魔と分かれるんじゃない? 任しといてよ、コハク」
どうやら全く分かっていないハルへ、コハクは溜め息を一つ吐いた。
「それでどうにかなるなら苦労するか、馬鹿犬」
ホムラは冷たくいい放つと、小刀を鞘に納め袖にしまう。両手を筒状にして左腰へ持っていき、右手で刀を抜くような仕草をした。
右手が斜め上へ上がる軌跡を辿るように、焔が生まれる。見えない鞘から完全に抜き放った時、焔は消えて代わりに刀が現れた。黒の柄巻きの柄を握り、切っ先を少女へピタリと定める。反りのある片刃が薄闇の中で煌めいた。
刀という物騒なものを見て、リルは本能的に後ろへ下がろうとする。しかし背中が壁にぶつかり諦めた。
思考を混乱させたまま、先程意思とは関係ない事を言った口元を押さえる。手足は問題なくリルの思ったように動いてくれた。なのに髪が今も勝手にリルの周りを蠢いている。
「何なの?私はどうなったんですの? 私の中の貴女は誰っ!?」
自分の状況の異常さに気付いた途端、己の中にいる存在を感じた。頭に響く知らない声、どこか幼い少女の声だった。
……落ち着いて、リル。あたしは貴女の味方だから。必ずあたしが邪魔者を取り除いてあげるから……。
コハクは僅かに目をすがめてそんな彼女をじっと観察する。妖魔と宿主の意識がちぐはぐに同居している、そんな印象だった。
あれほど滑らかに妖魔の力を使っていたのに、自我があり本人は妖魔の存在に戸惑っている。
これほど自在に宿主の体を動かすならば、宿主と妖魔の同化が進んでいる筈だ。それならば意識を妖魔と共有しているか、妖魔に体を乗っ取られて宿主の自我が負けているか。そのどちらにしてもこの反応はおかしい。
「リルを苛めるな、この化け物女!」
もう一度リルが、いや妖魔がリルの口を使って叫ぶ。金の髪が揺らめいた。
「お前も邪魔をするなら、あの女たちと一緒だ!」
ひゅんっと軽い風切り音と共に、金の髪がコハクへ放たれる。
「あの女たちとは、誰?」
コハクは右足を半歩前へ出し帯に挟んだ扇子を引き抜いた。畳んだまま前へ置き半身になり、肩と膝の力を抜いて攻撃に備える。
扇子は親骨が鉄で出来たもので、畳んだままなら鈍器と同じだ。基本的にコハク自身が戦うことは滅多にないが、護身程度の技術は身に付けている。伊達に妖魔と渡り合っている訳ではないのだ。
コハクへ金の髪が届く前に、軽い金属音と共にホムラの刀が髪を斬り、ハルの拳が髪を弾く。弾かれた髪は床や壁に当たったが、傷一つつけることも出来ずに戻った。
斬られて落ちた毛束は刃先のように尖っていて、くるくる床を回転し消える。短くなったリルの髪は瞬時にまた伸びた。




